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不意に車が止まった。運転手が物言いた気に半身だけ振り返って後部座席を見る。と、総一郎は顔を上げ
「ついたのか?」と冷静な声で運転手に尋ねた。その頬に涙の跡のなかったことに、中禅寺は何故だか自分までもが救われる思いがしつつ、彼の背から身体を退ける。
「はい」運転手はそう頷くと、素早い動作で車を降り、総一郎の座っている側に走り込むとそのドアを開いた。
「ご苦労。悪いが僕達が出てくるまで、道を曲がった処で待っていて貰いたい」
車を降りながら総一郎はそう運転手に告げ、奥に座っていた中禅寺へと手を差し伸べる。
中禅寺がその手に掴まりながら車外へと出ると、そうだ、と思いついたように運転手を呼び止め
「もし、僕達が一時間を過ぎても出てこなかった場合は――様子を見に来て貰いたい」と重ねて命じた。
「はい…」不審そうな顔をしながらも頷く彼に向かって、頼んだよ、と総一郎は微笑みかけると、中禅寺を見下ろし
「行こう」とその背に腕を廻して歩き始めた。
「抱き上げてもいいんだが、恥ずかしいだろう?」悪戯っぽく笑いながらそう言う彼の瞳は少しも笑ってはおらず、自然と高まってくる緊張感を中禅寺も身体中で感じながら
「そうですね」と普段よりも硬い声でそう答えると、やはり口唇の端だけをあげる笑いを彼に返した。

門についている呼び鈴を押す。暫くの後、門の奥、二十メートルはあろうかという通路の向こう、重厚な木の扉が開き、黒衣を身に纏った中年の男が顔を出した。総一郎が軽く会釈をしてみせると、その男はゆっくりとした足取りで彼らの方へと近づいてきた。
「失礼。弟を迎えに来たのだが」男との距離が一メートルくらいになったとき、総一郎がそう告げると、その男は――まるで外国映画に出てくる『執事』の格好をしていたのだったが――少し驚いたような表情を見せながら
「失礼ですが、どちらさまでしょうか」と慇懃に頭を下げながらそう尋ね返した。
「榎木津総一郎。弟の礼二郎がお邪魔していると思うが?」総一郎の顔に笑顔はない。凛としたよく響く声で男を睨みつけるようにしながらそう告げるその声を間近に聞きながら、中禅寺は、いよいよなのだな、緊張も新たにその屋敷を――屋敷と呼ぶに相応しいその家の外観を見るべくざっと視線を走らせた。
大きな家である―――先ほどまで世話になっていた榎木津の家とも勝るとも劣らない立派な建屋に、綺麗に整備された庭―――この屋敷の何処かに榎木津が、そして関口がいるのであろうか、と思うだに逸る気持ちは押さえられず、自分たちの前に立ち塞がるこの執事姿の男を、総一郎と同じく射るような眼で見つめていた。
「……しょ、少々お待ち下さいませ」男は困惑を必死に無表情の仮面の下に押し隠そうとしながらもその場を去ろうとする。
「待てぬ」
強い口調で総一郎はそう言い放つと
「いいから開けたまえ。そして主人に告げろ。榎木津総一郎が来たと」と門の鉄柵を握り、ガシャリと大きく一度それを揺すったあと、今こそ顔色を変えた男に向かって更に
「君の主人が用があるのは弟などではない。僕がこうしてわざわざ脚を運んできてやったと、早く伝えに行くんだ」と怒鳴りつけた。その迫力に、男は怖れをなしたようによろめきながらも、
「た、ただいま…」と頭を下げ、駆けるようにしてもときた道を戻っていく。
「その前に開けろと言っているだろう」いいながら総一郎は鉄柵の間から手を差し入れ、門の留め金を外すと
「入るぞ」と一応前方を走る男の後ろ姿に声をかけ
「さあ、行こう」と中禅寺の方を振り返って、今までの迫力を微塵も感じさせないような柔らかな顔で笑った。そのギャップと、門を開いたことを一応断る、何処までも礼を忘れない彼の育ちのよさを、緊張しているはずなのに何故だか無性に可笑しく感じてしまい、中禅寺はくすりと笑いを漏らすと
「はい」と彼の目を見返し、その背に廻した手で彼の上着を握り締めるようにしながら門の内へと入っていったのだった。


* * *


「セキ!セキ!起きロっ」暗闇の中、裸の関口の肩を揺すぶりながら、榎木津はまた彼の名を呼ぶ。この部屋に閉じ込められてからもうどのくらい時が過ぎたのだろう―――時間を見ようにも漆黒の闇が周囲を包んでいるために、外の景色は勿論、腕時計も―――そしてその手の中にいる関口の様子も見ることが適わず、榎木津は苛つく心を押さえながら、小さく溜息をつくと関口の身体をそっとその場に寝かせた。そして手探りで脱いだ自分の上着をまた彼の身体へとかけてやると、一体これからどうしたものか、と暗闇の中頭を巡らせる。

やはり罠―――関口を浚ったあの男の目的はこうして自分を捕らえることであったのか、と榎木津は考えながらも、どうにもしっくりいかないものを感じ、彼の言葉の一言一句を思い出そうと目を閉じ、意識を集中させた。

裸の関口を目の前に屈強の男たちに取り囲まれた榎木津であったが、暴力を以て彼を捉えようとするその男たちを榎木津は逆にあっという間に逆に殴り倒した。男たちは殴られながら、どうしたらいいのかと縋るような眼でその主を――北大路優を見る。
「……見苦しい」
その視線を撥ね付けるかのような冷たい声を彼らへと投げかけると、優は
「もういい…お前達は下がれ」と言い捨て、汚いものを払うかのような素振りで右手を下へと払った。
「も、申し訳ありません」口々に詫びながら下がろうとする彼らを
「くどい」と見やることもせず、尚も慌てて走り去る彼らの存在などまるで忘れたかのように、それでも不機嫌な顔のまま優は榎木津へと向かい直った。
「文武両道か――流石だな」
その声を聞き、乱闘に少し息を切らせながらも榎木津は今度はお前が相手だ、というように大股に彼の方へと歩み寄ろうとする。
「止まりたまえ」
と、彼は素早い所作で、傍らに寝ていた裸の関口を抱き上げ、その身体を榎木津の方へと向けた。
「セキを離せっ」
薄い胸―――がっくりと前に頭を下げているためにその表情は見て取れないが、明るい陽の光りの下、僅かに上下しているその胸の動きが、彼に掴まれたその細い両腕が、あまりにも痛々しいものとして榎木津の目を差す。
「……それが人にものを頼む態度かな」優はそう笑うと、片手で関口の顎を捕らえ、榎木津にその顔を見せようと、真っ直ぐに前を向かせた。
「セキっ」
目を閉じたままの関口の顔は普段よりずっと青白く、意識を失っているために表情がないその様子はまるで幼い子供のようにすら見える。
「安心したまえ。昨日からの騒ぎだ。まだ彼には指一本触れてはいないよ」
優はそう言って笑うと、何を思ったか後ろからそんな関口の首筋へとその口唇をゆっくりと這わせ始めた。
男にしては紅いその口唇が、その間から覗く舌が、関口の細い首筋をゆっくりと下ってゆく。
「何をするっ!」やめろっと榎木津は叫びながら、脚を一歩前へと踏み出した。と、優は笑って顔を上げ
「それ以上近づくと―――」と右手を自分の懐へと忍ばせたかと思うとそこから一本のペーパーナイフを取り出して榎木津へと示す。
「な…」思わず榎木津の足が止まった。優は微笑みながら
「君の大切な後輩の顔に、二目と見られぬ疵がつく。それでもいいのかな」とナイフの先を関口の頬へと軽く当てた。
「やめろっ」榎木津は叫びながらも、彼を刺激すまいとその場から動くことが出来ない。
「……黙ってそのまま見ていたまえ」優はまた彼に微笑みかけると、再びその口唇を関口の首筋へと落とし始めた。意識を失っているはずの関口の息遣いが少しだけ乱れる。
「……そろそろ目覚める頃なのかもしれないな」ふふ、と優は榎木津にとまた視線を戻すと、わざとその舌を出し、ぺろりと関口の耳の辺りを舐め上げた。
「……一体何が望みだ?」怒りを押さえた榎木津の声。優がそんな彼にまた微笑みかける。
その微笑が艶然としていればしているほど、榎木津の怒りは高まってゆく。一体この男は何者なのか、何を思って今、こんなことをしているのか―――と、そのとき彼の腕の中で、関口が小さくうめいた。
「セキっ」思わず声を上げ、駆け寄ろうとする榎木津を、再び関口の頬へとナイフを突きつけることで優は制しようとする。
「望み…望みね」そして歌うようにそう言いながら榎木津の姿を上から下まで見下ろし、にっこりと微笑むと驚くような言葉をその美しい口唇から発した。


「君の破滅……死さ」


「なんだと?」榎木津の背に冷たい汗が一筋流れる。優の眼差しには何の嘘もなかった。柔らかく微笑みながらも射るように己を見通すあまりにも冷たいその光―――

彼は本気だ

その確信が榎木津の身に滅多に昇ることの無い緊張を走らせる。
「安心したまえ……この場で殺すとは言ってはいないよ」そんな彼の様子を面白そうに笑いながら、優は関口を抱き上げながら立ち上がった。
「……最高のセッティングをしてやる。目の前で君を失う彼の姿を見る為にね」
そしてまた麗しい微笑をその顔に浮かべながら歌うような調子でそう榎木津に語りかける。

『美しい悪魔―――』

榎木津の頭に、松藤の遺書の一節が浮かんだ。
痛いほどの悪意をその微笑に感じながら、榎木津はそんな彼の顔から目を逸らすことが出来ず、握り締めた手の中に滲む汗の鬱陶しさに顔を顰め、無言のまま彼を睨み続けた。

そして―――


あの後、彼に促されるがままに、客間の奥にしつらえられた小さな扉を榎木津は開いた。そこは納戸に使われているようで、窓一つない二畳程のスペースに、古い調度品がぽつぽつと並んでいた。
「入りたまえ」眼で中を示され、榎木津は無言のまま脚を進める。
部屋の内側へと入って優の方へと向き直り
「セキを離せっ」と叫ぶと、優は行き成り抱いていた関口を榎木津の方へと放り投げてきた。慌てて彼の身体を抱きとめようと榎木津の意識がそちらへ逸れたその瞬間、優は部屋のドアをバタンと音を立てて締めたのだった。
がちゃがちゃと施錠する音が聞こえる。ドアを閉められたその後、この窓一つない部屋は漆黒の闇に包まれた。榎木津は不意の暗闇に足元をとられ、関口を抱いたままその場へと座り込んでしまった。
「時がくるまでその場で可愛い後輩でも抱いていてくれ」嘲笑を含んだ優の声がドアの向こうから聞こえてくる。
「おいっ」思わず関口の身体を離し、ドンドンと締められたドアを叩いてみたが、意外に頑丈な造りのその扉はびくとも動かず、灯りを求めて電灯のスイッチを手で探っても外側からしか灯せないのか、それらしい突起を何処にも見つけることが出来ない。
「安心したまえ。空気口はあるから窒息することはないよ。…といってもあまり暴れるとその保証の限りではないがね」扉越しに優の声を聞いたのはそれが最後だった。遠くでドアの閉まる音がし、彼がこの客間を出て行ったことを知ると、榎木津は扉を背にまたゆっくりと腰を下ろしはじめた。そして手探りで、関口の身体を探し当てると、彼の頬を軽く叩いてその名を呼ぶ。
「セキっセキっ!起きてくれ」
が、聞こえるのは規則正しい彼の呼吸音ばかりで、その裸の肩を揺すりながら、榎木津は繰り返し彼の名を呼び、その覚醒を待った。

何度となく繰り返したその所作にも関口は目覚めることなく眠りつづけている。昨日連れ去られたときから持続的に薬でも与えられているのかもしれない。
榎木津はまた彼の――北大路の言葉を思い起こした。

彼は―――はっきりと、自分の命を狙っていると言った。
それだけでなく、自分の死を誰かに見せるために、お前を殺すのだと言ったように思う。


―――誰だ?それは――?


いくら考えてみても榎木津にはその心当たりはない。仕方が無いので己の死に最も衝撃を受ける者は誰だろう、と考えてみる。

家族か――友人か――

『恨むなら君の兄上を恨むんだな』
不意に優のその言葉が、榎木津の頭に甦った。

兄が―――?

一体何故―――?


自分を罠にはめる為に、最終的には松藤の命を奪い、そして今こうして関口すらも捕らえたあの男の、北大路のやりかたは尋常ではない。榎木津には、あの兄が、それほどまでに恨みを買うようには、そのひととなりを思うだに俄には信じがたいのである。
そしてその大仕掛けをやれるほどの、この『北大路家』――もし自分の周囲にその影を見ることがあればその名くらいは流石の榎木津でも覚えていそうなものである。
榎木津はまた何も見えぬ宙を見やると、新たに考えを巡らせた。
そういえば自分は彼の――北大路優の記憶を『見る』ことすら忘れていた、と今更ながら榎木津は気付き、改めて彼の悪魔のような美貌をその頭に思い浮かべてみた。
幾ら己の記憶を呼び起こしてみても、彼の周囲を包むのは、今自分がその身を置くこの漆黒の闇のみ―――

美しい悪魔、か――

馬鹿馬鹿しいと軽く頭を振りながらも、その脳裏に浮かぶのは彼の冴え渡る美貌であり、ぺろりと出されたその舌のどぎついほどの紅さであり―――

悪魔―――

己に向けられたあれほどまでに剥き出しにされた悪意を榎木津は知らない。それが何に所以するものであるのか、考えても考えても答えの出ぬことに益々苛立ちながらも、榎木津は暗闇の中、思い出したように関口の肩を揺すり、せめて彼の意識が戻るようにと何度もその名を呼びつづけた。


   
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