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「あの……」中禅寺は総一郎の腕に置いた手に力をこめ、どうしたんだ、というように軽く揺すぶってみた。総一郎は漸くそれに気付いたというようにはっとして彼を見返すと
「ああ、すまない」と小さく詫び、
「行こう」とまた中禅寺を抱き上げようとした。
「行くって…何処へ?」慌ててその首へと手を廻しながら、中禅寺がそう尋ねるのに
「舎監室」と総一郎は答えたが、思い返したように中禅寺の身体に廻した手を離し、中禅寺の手をも外させて彼を見下ろした。
「なんですか?」中禅寺が不審そうにそう見返すのに
「やっぱり君はここにいた方がいい」と真剣な顔で答え、それじゃあ、右手に持ったままになっていた遺書をその内ポケットへと入れるとそのまま踵を返そうとした。
「待って下さいっ」中禅寺は慌てて立ちあがり後を追おうとして、足の痛みに耐えかね、その場に崩れ落ちるようにして転んだ。
「大丈夫か?」慌てたように総一郎は彼へと走りより、その身体を支えるようにしてまた寝台の上へと彼を座らせてやる。
「待って下さい。僕も行きます。連れていって下さると仰ったじゃないですか」
決して離すまいとその手に縋りつきながら、中禅寺は必死の形相で総一郎に懇願する。
「…相手が相手だけに、その足では危険だ。…ここで待っていて欲しい」なんとかその手を外そうとしながら、総一郎は中禅寺の目を見つめてそう説得しようとするのに
「相手って?相手って誰なんです?」と中禅寺はまた自ら立ちあがろうとして、痛みにその顔を顰める。
「大人しくしていなさい」総一郎は今度は無理矢理彼を座らせようとしたが、中禅寺が聞かずに尚も立ちあがろうとするのを
「わかった、わかったから座りなさい」と少し大きな声を出して無理矢理座らせ、大きく溜息をつくと
「お友達や礼二郎を心配する君の気持ちはわかる。が、本当に危険を伴うかもしれないんだ。それでも行くかい?」と真剣な表情でそう尋ねてきた。
「はい」中禅寺も真摯な表情でそんな彼を見返す。
「……オーケー。それじゃあ一緒に行こう」総一郎はしかたがない、というように笑うと、再び中禅寺を抱き上げるようにして部屋を出、舎監室へと向かった。
舎監は部屋にいた。総一郎がその名を告げると、慌てて扉を開いて二人を迎え入れ――そのときは中禅寺は床に下ろされていた――お懐かしゅうございます、と総一郎に向かってぺこぺこと頭を下げた。中禅寺の外泊について、なんの注意の言葉もなかったのはそれだけ彼が舞いあがっていたからに違いない、と中禅寺はほっと胸を撫で下ろしつつ、そういえば総一郎もここの卒業生であったと改めてその事実を思い起こした。
「聞きたいことがあるんだが」
愛想よく舎監と言葉を交わしたあと、総一郎が何気なく彼に言い出したその言葉に、横で黙って二人の会話を聞いていた中禅寺は途端に緊張をその身に走らせる。
「なんでしょう?」にこにこしながら舎監は答え、そうだ、お茶でも入れましょうと席を立ちかけたのを、どうかお構いなく、と制しながら総一郎は
「覚えているだろう?北大路直哉の――彼の実家の住所を教えてもらえないかな」と微笑みながらそう言った。舎監の顔に困惑の表情が浮かぶ。
「……北大路……ああ、彼もそういえば……」と眉を顰めながらも、どうしてまた今頃、と彼が尋ね返してくるのを
「最近兄上が帰国されたというニュースを聞いてね。久々思い出したんだ。お悔やみの一つも言いたくてね」と総一郎が尚も微笑みながらそう言うと、舎監は
「そうですか…」と納得したようで、少々お待ち下さい、と席を立ち、名簿のある棚をごそごそと捜しはじめた。
きたおうじなおや――?
中禅寺はなに、というように総一郎の顔を見やったが、彼は、あとで、というように軽く微笑むと
「すまないね」と舎監に向かって声をかける。
「ああ、ありましたありました」舎監が古い名簿を手に戻って来、頁を開いて総一郎へ渡してくれた。
「有難う」総一郎が受け取るその頁を、横から中禅寺も覗きこんだ。最初に飛び込んできたのは、総一郎の名で、その数段下にかの「北大路」の名を認め、ああ、二人は同窓であったのか、と改めて総一郎の顔を見る。
総一郎は内ポケットから手帳を取り出すと、すらすらとその名簿の住所を写し、
「手間をとらせたね」と舎監に向かって礼を言うと、それじゃあまた、と明るく手をふって立ちあがった。そして中禅寺に肩をかしながら、出口へと向かう。
「中禅寺、怪我でもしたのか?」舎監が不審そうに声をかけてくるのを
「いや、さっきそこで捻ったんだ」とかわりに総一郎が答えてくれ、それじゃ、と有無をいわせぬ調子でそう言い捨てると、何か聞きた気な舎監を残して足早に出口の方へと向かったのだった。
車は何時の間にか、寮の前へとつけられていた。中禅寺をまず座席の奥へと抱き上げて運び入れると、その隣に座って総一郎は運転手に、先ほど書き写した住所を告げる。
そして、大きく溜息をつくとそのまま深くシートへと身を沈めた彼の姿を横に見ながら、中禅寺は彼が再び口を開くのを待った。
「…………僕が一高に通っていた頃にもね……」暫く車を走らせたあと、不意に総一郎がそう話し始めた。中禅寺はちらとそんな彼の顔を見たが、敢えて何も口を挟まず次の言葉を待った。
「やはりあの高架から、飛び降り自殺をした学生がいてね」暫しの沈黙の後、総一郎はそう言って小さく溜息をつくと、中禅寺の方を向き直った。
「…それが…」中禅寺がそう小さな声で続きを促がすと、総一郎はうん、と頷きながら
「それが、北大路直哉――そして自殺の原因というのが……」と内ポケットから松藤の遺書を取り出し、じっとそれに視線を注いだあと、思いきったように言った言葉は、中禅寺を驚かせるには充分であった。
「僕だ」
「……」中禅寺は言葉を失い、思わずそんな総一郎の腕に手をかける。総一郎は彼の腕をその腕に置かせたまま手にした遺書をまた封筒から取り出すと、万年筆書きの便箋を取り出し
「そしてこれは……彼の書いた遺書だ……」とじっとその紙面を見つめた。
「え?」驚愕のあまり、総一郎の腕を掴んでいた中禅寺の手に力がこもる。それにふと気付いたように総一郎は中禅寺の方を見ると、
「そしてその宛て先は………」
とまた一瞬逡巡するように俯いて黙り込んだあと、また中禅寺の目を真っ直ぐに見つめた彼は一言
「きっと、僕だ」とまたもや驚くべき言葉を口にしたのだった。
* * *
「こちらへどうぞ」慇懃な執事姿の男に連れてこられたのは、長い廊下の奥の奥、客間というに相応しい重厚な作りの部屋だった。
「少々お待ち下さいませ」深深と礼をして、執事姿の男は部屋を出て行く。榎木津は室内をぐるりと見まわし、自分をここへと招いたという男の姿を捜した。が、室内には誰もおらず、百合の花の香りだけが色濃く漂っている。
『百合の花の香りのする薬品をかがされ――』
『どうか気をつけてください。あなたの身に災いがおこりませんように』
松藤の遺書の文句が榎木津の頭に浮かんでくる。
自分を知っているというその男。松藤を死に追いやったというその男―――
一体誰だ?
と、そのとき、がちゃり、と榎木津の背後でドアの開く音がした。振りかえりきっとその方を見やる榎木津の目に飛び込んできたのは
「セキ!」
意識がないのであろう、だらりとその腕を下ろした関口を抱きかかえてその場に立つ、長身の―――恐ろしいほどに容貌の整った男の姿だった。
「やあ」
『美しい悪魔』―――その呼称に相応しいその男は悠然と微笑むとゆっくりと室内へと入って来た。榎木津はそんな彼を睨みつけながら、彼の腕の中に関口がいる為に彼に殴りかかることも出来ず、じっと彼の出方を待つ。腕の中の関口はなんと全裸であった。痩せた胸に浮かぶ肋骨の影を痛ましく見つめながら、榎木津は燃えるような瞳でその男を―――北大路優を睨み続けた。北大路は長椅子の処まで歩み寄るとゆっくりと関口をその場に下ろし、自分もその椅子へと腰掛ける。
「ようこそ…君もかけたまえよ」そして見惚れるような微笑を浮かべながら、自分の前の椅子を目で示し、榎木津に座るようにと促がした。
「一体どういうつもりだ?彼は?彼はなぜ寝てるんだ?」
示された椅子に座りながらも勢い込んでそう尋ねる榎木津に、北大路は微笑むと
「理由は―――話すと長くなる。僕とてこんなことはしたくはないのだが…」と傍らに寝せている関口をちらと見下ろすと、また榎木津へと視線を戻し
「恨むのなら、君の兄上を恨むんだな…」と笑うと、何故だか片手をあげ、パチリとその指を鳴らした。
「なんだと?」意外な彼の言葉を聞きとがめようと榎木津が椅子から立ちあがろうとしたそのとき、バタン、と音をたてて部屋の扉が開いた。何?とその方を振りかえる彼へと向かって屈強の男たちがわらわらと走り寄って来、彼を囲んだのだった。
* * *
「どういう意味です?」
揺れる車内。暫しの沈黙のあと、中禅寺が低い声でそう総一郎へと問いかける。
総一郎は暫くどう言おうか迷うように黙り込んでいたが、やがて小さく溜息をつくと
「君は―――同性から好きだと言われたことがあるかい?」と泣き出しそうとも見える微笑を浮かべながら、中禅寺を見た。
「え?」意外な問いかけに中禅寺は絶句して思わず彼の顔を見やる。総一郎はそんな彼の視線を受けとめながらもまた微笑んで
「彼は―――北大路直哉は、僕のことが好きだと言ったんだ…」
と言うと、また手にした彼の書いたという遺書へと視線を落した。そしてまた暫しの沈黙―――
「僕のせいで……彼は死んだようなものだ」総一郎はそう言うと目を閉じ、手の中の遺書を握り締めた。悲痛な彼の表情に言葉を失い、中禅寺はただ彼が話しを続けるのを待つしかなかった。
やがて総一郎は顔を上げると、ぽつぽつと話しはじめた。
北大路直哉は、上級生のお気に入りと同級の者からやっかみが出るほどに、容姿の整った、どちらかというと「可愛らしい」タイプの学生であったという。総一郎とは寮も同室で、クラスでも席が近かったこともあり、何かにつけて二人は連れ立ってよく遊びに出掛けたり、一緒に図書館で勉強をしたりして友情を暖めていったのであったが、ある噂が校内中に広がるにあたり、二人の関係に亀裂を生むことになった。
「噂?」
中禅寺が尋ねると、総一郎は、ああ、と苦々しい顔のままに頷き、
「興味本位で皆が囁く、くだらない噂だった。今となっては、何故そんな噂に振りまわされてしまったのか……」と口唇を噛んだ。
どこからともなく、総一郎と北大路は「あやしい」という噂が囁かれはじめたというのである。出処はすぐに知れた。北大路に懸想する上級生が彼への求愛を断られた腹いせに、そんな噂を流したというのである。馬鹿馬鹿しい、と総一郎はそんな噂をまるで無視して今までのように北大路との付き合いを続けようとしたが、教室で二人の席は離され、舎監から寮の部屋替えを申し渡されると、一体どういうことだ、と、周囲が止めるのも聞かず、噂の根源とみなされていた上級生のところへと怒鳴りこんだのだという。
上級生は流石に顔色を変えたが、やがて卑屈に笑うと
「知ってるんだぞ。北大路から聞いた」と総一郎に驚くべき言葉を告げた。なんと北大路は彼からの求愛を断るその口実に、彼の名を告げたというのである。
「嘘を言うなっ」思わず手が出た。総一郎に殴り倒されながらも、その上級生は、確かに俺は聞いた、と笑い続けた。続けて殴ろうとする彼の手を後から必死で止めたのは、北大路だった。そんな二人の姿を見ながら、上級生は笑いながら立ちあがり
「なあ、お前は言ったよな?自分はもう既に榎木津のモノだって。な?」と下卑た笑い声をあげてその場を立ち去っていったという。
「どういうことだ?」総一郎は自分を羽交い締めにしていた北大路の方を振りかえると激しい口調でそう問質した。北大路は項垂れながら、何度も何度もただただ総一郎に詫びた。
「本当にそんなことを言ったのか?」総一郎の怒りは納まらず、そんな北大路の肩を掴んでそう揺さぶると尚も彼に問いかけた。がくがくと頭を揺らされるままになりながらも、北大路は暫く無言でいたが
「どうなんだっ」と総一郎が怒鳴りつけ、その腕を離して睨みつけると、やがてゆるゆるとその顔を上げ、まっすぐに彼を見つめて言った。
「好きなんだ…」
みるみる彼の瞳に涙が盛りあがってくるのを、総一郎は信じられないものを見るように見つめていた。彼は一体何を言っているのか―――酷く混乱してしまい、何も言葉が出てこない。
「僕は…本当に君が……好きなんだ」
北大路の頬を、その瞳から流れ落ちる涙が伝わり、流れ落ちた。
「好きなんだ……」震える声で続ける北大路がそっとその手を総一郎へと伸ばしてくる。
そのとき―――
「僕は思わず身体を引いて―――彼に酷いことを言っていた」
総一郎はそう言うと、両手に顔を埋めてしまった。中禅寺はそんな彼の姿をただ無言で見つめる。彼が一体何を言ったのか―――その結果、北大路直哉という少年は命を絶つことになってしまったのか―――そしてそれが今日のこの事件にどう繋がってくるというのか、少しも早く知りたいという思いは勿論溢れているのだが、それでも総一郎はその告白の続きを促がすことの出来ぬ空気を身に纏っているように中禅寺には感じられ、中禅寺は何も言葉をかけることが出来ずに、無言のまま蹲る彼の背にその腕を回すと、ぎゅっとその手に力を込めた。
「……すまないね」総一郎は顔を上げ、そんな中禅寺の顔を見上げると小さく微笑みそう詫びた。
「いえ……」他に答えようがなく、そう頷く彼に向かって総一郎は
「今まで誰にも話したことがない……ずっと悔い続けてきた。いくら悔いてももう彼は戻ってこないというのにね…」とまた一瞬その手に顔を埋めたが、やがて思いなおしたように顔を上げると、
「『君なんか知らない』」ぽつん、と一言そう呟いた。
「え…?」中禅寺がそんな彼の顔を、その肩に手を廻したまま覗きこむ。
「『君なんか知らない』……僕は彼に向かってそう言ってしまった。必死の思いで告白しただろう彼の気持ちなどまるで考えずに……今まで、友情だと信じていたものが裏切られた、彼の欺瞞が許せないような気がしていた。彼の気持ちを思いやることが出来なかった。彼は暫く茫然とした表情で僕のことを見つめていたが……やがて肩を落として、無言でその場を立ち去ってしまった」
そして―――翌朝、あの高架から飛び降りたのだ、と総一郎は今度こそ深くその手に顔を埋め、言葉を切った。
「…………」中禅寺は彼にかけるべき言葉を捜したが、どうにも相応しい言葉を見つけることが出来ずに、蹲る彼の背を抱き締めるように肩に廻した手に力を込め、その頬を彼の背に押し当てた。総一郎の背が微かに震えている。彼が泣いているのではないかと中禅寺は思いながらも、こんなにも胸が痛むのは何故だろうと自分の気持ちを押さえかね、ただただ総一郎の背を抱き締めながら、中禅寺は彼が顔を上げてくれるのを待ち続けた。
『君なんか知らない』
総一郎は、あの万年筆の遺書は北大路の筆跡であると言った。あの驚きようからいって、彼がはじめてあの遺書を目にしたことは中禅寺にも見て取れた。
その文面を思い起こしながら、自分の思いを拒絶されたことで死を選んでしまった北大路という少年に対しやりきれない思いを抱きながらも、年月を経てその遺書を目にすることになってしまった総一郎の心中を思い、中禅寺は彼の背を抱き締める手に力を込めると、その背の震えを止めようとでもするかのように益々強く己の頬を彼の背に押しつけたのだった。

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