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閑静な住宅街―――お屋敷街といった方が相応しいかもしれない立派な門構えの並ぶ家々の、中でも他を圧倒するくらいに大きな門のその前に、榎木津は腕を組んだまま小一時間ほど立ち尽くしていた。
早朝六時という時間の為に道行く人など殆どいないこの街並みに、榎木津の姿を見咎めるものはいない。
さて、これからどうしたものか、と幾ら考えてもよい案は浮かばず、ただただ榎木津は、実家の―――榎木津もと子爵の家よりも立派なのではないかと思われるこの家の門の前で焦る心を持て余しながら一人立ち尽くしていたのであった。
表札は重厚な鋳物で『北大路』の文字が刻んである。ここに辿りつくまでが大変だった、と榎木津は昨夜からの出来事を思い起こしていた。
数名の警官を殴り倒した後、関口を連れていると思われる長身の男の後を追おうとしたのだったが、周囲を見まわしてみても何一つ彼の行方を示す手がかりの一つも見出すことが出来ず、榎木津は暫し考えたあとかの連れこみ宿へと再度乗りこんだのであった。
宿の女主人は、酷く恐縮していた。何故警察が踏みこんできたのか、彼女には全く心当たりがないというのである。まず、心中を疑ったことを詫び、警察が介入してきたことを詫びる彼女に、榎木津はいつも奥座敷を使う、『映画俳優のような端正な顔立ちの』長身の男のことを尋ねた。女主人は一瞬顔色を変え、知らぬ存ぜぬで押しとおそうとしたが、榎木津が松藤の名を出すと観念したように下を向いた。
「あのときも何故警察が介入してきたのか…」流石に松藤の死は彼女にも可也のショックを与えていたようで、漸くその重い口を開いてくれたのだったが、その彼女が告げたのが、この「北大路」家の長男、『北大路優(まさる)』の名であった。
「北大路様のおかげで、わたくしどももお咎めを免れたのですが…」女主人はそう話ながらも何処か苦々しい様子をその口調に滲ませて
「あんなことがあってすぐだというのに、今夜もう別の男の子を連れ込むその神経が、私にはもう…」と俯いたのであったが、榎木津が勢い込んでその少年の容姿やいでたちを尋ねると、申し訳なさそうに少しも見ていないのだ、と詫びた。
「北大路様の黒いコートでくるまれていたので…なんだか前の……松藤さんですか?彼が最初に連れて来られたときのことを思い出し、あまりいい気持ちはしなかったもので…」
それでも彼の入室を断ることをしなかったのは、これまでの癒着―――金銭的なものと、なにより松藤に身体を売らせる場所を提供していたということを公にされないためにも、北大路の力が必要であったという体面的な弱みであったというのであるが、今までさんざん甘い汁を吸っていただろうこの女主人の言葉をそのまま鵜呑みにすることは榎木津には出来なかった。
が、北大路の名とその居住を教えてくれたことには礼を述べ、くれぐれもご内密にという女主人の懇願の声を背に勢いよく宿を飛び出し、その足でここ、北大路家の前に立ったのであるが―――

この中に関口はいるのだろうか。彼を連れ去ったと思われる「北大路優(まさる)」という人物の名に、榎木津は少しも思い当たる節がない。
松藤の遺書によると―――といっても、彼のいう『あなた』が自分であるという確証は全くないのであるが―――北大路は榎木津のことを知っているのだという。
知っているどころか、自分と関わりがあるということを確認した上で、松藤を騙し入れ、身体まで鬻がせていたのだという。

誰だ?

もともと人の名前や顔を覚えるのが苦手な榎木津ではあったが、昨夜ちらと見かけたあの長身、彼を見た者が次々とその容姿を「映画俳優のようだ」「この世のものとは思えないくらいに端正な」と褒め称えるほどの外見を持った者であれば、少しは榎木津の記憶に残っていてもいいものだとは思うのだが、本当に微塵も彼には心当たりがないのである。

こうしていつまでも立ち尽していても何事もはじまらない。イチかバチか、正面きって乗り込むか、と思いながらも、この頑丈な門を開かせる為にそれらしい用件を一体何と申し出ればよいのか、と榎木津が何度目かの逡巡をしていたそのとき、門から遠く離れた玄関の戸が小さく開いたかと思うと、背の低い中年の男が門へ―――門の前に立つ榎木津に向かって歩いてきた。黒い礼服のような衣装を身にまとっていたその男は、榎木津の姿をみとめると恭しさを身体中で表現しながらその場で一礼し、足早に彼の方へと近付いてきた。
「榎木津礼二郎様でいらっしゃいますか」
慇懃な物言い。近くに来て、この中年の男が身に纏っているのは外国映画に出てくるような執事の衣装であることに榎木津は気付いた。
「……うむ」まず名を呼ばれたことに驚いたが、少しもそれを面(おもて)に出さぬようにして榎木津は小さくそう頷く。
「お待ちしておりました。どうぞお入り下さいませ」男は深深と頭を下げると、ぎぎ、と音を立てながら門を内側へと開き、榎木津に向かって再度礼をして「どうぞ」と中へ入るよう促がした。
「…………」榎木津は暫し門の前に佇んでその様子を眺めていたが、やがて決心したように、その男の開いてくれた門の内側へと足を運ぶ。
飛んで火にいる夏の虫―――その言葉が頭に浮かばないでもなかったが、虎穴に入らずんば虎子を得ず、と自分でそのままその故事へと置き換えて、まずは相手の出方を見よう、と心を決めたのである。
執事はまた、ぎぎ、と音を立てながら門を閉ざすと、
「こちらでございます」と榎木津を半身だけ振りかえり、また玄関へと向かって歩き始めた。
「僕を待っているというのは誰だ」その後姿に向かって榎木津がそう大きな声で尋ねると執事は意外そうな表情をその鉄面皮の下に押し隠しながら
「優様ですが……お約束だったのでは?」とやはり半身だけ振りかえりつつ尋ねたが、榎木津がそれに対してなにも答えずにいると、そのまままた身体を前に向け足早に玄関へと向かって足を進めた。

罠かもしれない。が、関口の行方をつきとめ、彼を救い出す千載一遇のチャンスであることは間違いがない。

北大路優―――

一体誰だ?

やはり少しも覚えのないその名をもう一度口の中で呟くと、榎木津は執事が恭しい動作で開いたその玄関のドアの中へと、促がされるままに入っていったのだった。



* * *



中禅寺は車の後部座席に総一郎と並んで座りながら、先ほどから少しも喋らなくなった総一郎の横顔へと時折ちらと視線を投げかけた。総一郎は難しい顔をしながら前をじっと見詰めていたが、それでも中禅寺の視線に気付くと、心配はいらない、とでも言うように微笑んでみせてくれた。
屋敷の外に出るまでが大変だった、と中禅寺は今あった出来事を思い起こし、苦笑した。総一郎が歩けぬ中禅寺を横抱きにしながら、こっそりと家の裏口につけさせた車へと乗りこもうとしたそのとき、
「何処へ行こうというのだ」
行き成り後から声をかけられ、ぎくりとしながら振りかえった二人の目に映ったのは
「お父さん……」
『御前』―――榎木津の父、榎木津幹麿であった。
「様子を見にやらせたら、お前が連れ出したというではないか。……ん?」
幹麿はそこではじめて総一郎の腕の中にいる中禅寺の顔をまじまじと見た。中禅寺はその目線に軽く会釈を返しながら、しまった、と今更ながら青くなる。
「様子って…なにかご用が?」総一郎は出来るだけ幹麿の視界から中禅寺の姿を遠ざけるようにしながら、少しでも幹麿の気を逸らそうとそう話し掛けたが、かえって逆効果のような気がする、と中禅寺は首を竦めながらそう心の中で呟いていた。
「うむ。怪我の具合はどうだったか気になったのと、動けぬから退屈しているだろうと、お手合わせでもお願いしようと思っていたのだが…」と幹麿は囲碁を打つ真似をして見せ
「なかなか利発そうな顔をしておると思っておったが……」とまた覗きこむようにして中禅寺の顔を見ようとした。総一郎も中禅寺も、最早どうすることもできずにその場にじっと立ち尽くす。と、幹麿は行き成り破顔して
「やっぱりあんたは素顔の方がいいな。商売柄、化粧は必要なのかもしれんが、普段は化粧せずにいなさい」と二人の方へと近寄り、な、というように総一郎の背中をばんばんと叩いたのだった。
「……は?」中禅寺は思わず唖然としてそんな彼の顔を見上げていたが、ん?というように見返され、俯きながら口の中でどうも、と礼を述べてみる。
「それで?総一郎、彼女を何処へ連れていこうというのかね」幹麿が真面目な顔でそう尋ねるのを聞き、中禅寺は再びぎょっとしたように顔を上げかけ、慌ててまた俯いた。
『彼女』―――この姿を見てなお、彼は自分を女だと思っているというのだろうか?
総一郎は落ちつきを取り戻したのか
「家で心配しているというので、ちょっとお送りして来ます」と涼しい顔で答えると、それじゃあ、と軽く頭を下げ、出口の方へと向かおうとした。
「それはそうだろう。ご両親に宜しく伝えてくれ」と幹麿はそう言いうと
「どうでもいいが、そんな男みたいなナリをさせんでもいいだろうに」などと呟きながら踵を返しかけ、ほっとした二人がさあ、と出口へと向かおうとするその後姿に向かって
「また遊びにいらっしゃい。礼二郎がいないときでも構わん」と大きな声で呼びかけ豪快に笑ったのだった。

車に乗りこみながら、中禅寺はどうにも納得が出来なくて総一郎を見ながら
「あの……?」と眉を顰め、例え百人の人間に尋ねたとしても、自分のこの姿を見て『女』だと思う人間は一人とていないと思うのだが、と尋ねると、総一郎は苦笑しながら
「あれが父の父たる所以だ。一度君を女だと思い込んだものだから、これから先、どんな姿を見ても父にとっては君は『礼二郎の恋人』だよ」と片目を瞑ってみせた。
「え…?」信じられない、と絶句する中禅寺に
「大丈夫。父が白といったものはウチではどんなに黒いものでも『白』になる。使用人も勿論彼にあわせるから、君は普段通りの格好で遊びにおいで。女装なんてしなくていいからね」と総一郎は笑って、
「なんで僕が遊びに来なきゃいけないんです?」憮然としてそう返す中禅寺の肩を叩くと
「父の碁の相手でもしてやってくれよ。これも何かの縁だ」と言うと、運転手に車を出させてのであった。

時間が経つにつれ、総一郎は寡黙になっていった。憂いを含んだその表情を何度目かに見やったそのあと、中禅寺はとうとう耐えられなくなって
「一体僕たちは何処へ向かっているのです?」とそんな彼に向かって問いかけた。
「一高の寮だ」総一郎は答えながら中禅寺の方を向いて微笑む。
「え?」まさか本当に自分を送ってくれるだけだというのだろうか、と中禅寺が眉を顰めたその心中を察してか
「本当ならそのまま君をそこへ置いて帰ったほうが僕も安心なんだが、それじゃ勿論君は納得しないだろう」と苦笑し、安心したまえ、とその手を伸ばすと中禅寺の髪を撫ぜた。
「君たちが見つけたという『遺書』を見せてもらいたい。僕の予測が当たっているかどうか……きっとそれを見たらわかる」と真剣な顔をしてそう言うと、総一郎はまた黙り込んで前方を厳しい目で見つめ始めた。
「予測?」口の中で彼のその言葉を反芻しながら、中禅寺はそんな彼の横顔を見つめる。が、話し掛けることを躊躇われるそんな彼の表情にそれ以上話し掛ける言葉を持たず、同じように前方を見つめながら中禅寺は一刻も早く寮へと車が着くことだけをただひたすらに願っていた。

そういえば昨日榎木津と自分は―――そして関口は、無断外泊をしたことになるのだ、と思いながら、中禅寺は校門をくぐった。もう今日の授業が始まっているからか、寮には流石に人影がない。舎監が飛んでくることもなく、総一郎に抱かれたまま部屋へと辿りつくと、中禅寺は自分の机の上に放られたままになっていた松藤の遺書が挟まっていた本を総一郎へと渡した。
「……『車輪の下』か」総一郎が何とも言えない表情をしながら本を受け取る。
「……間に挟んであります」言いながら中禅寺は、やはり総一郎はなにかを知っているのだ、と確信していた。総一郎はパラパラと頁を捲りながらあるところでぴたりと手を止め、じっとそこへと視線を注ぐ。寝台に座らされた中禅寺には、彼がなにを見ているのかがわからなかった。が、総一郎はふと我に返ったようにその頁を閉じると、本の間から取り出した遺書の入った封筒を取り出し、本を机に戻すと中禅寺に並んで腰掛けながらそれを開いて読み始めた。
松藤の名がある鉛筆書きの遺書の方が上になっていた。前に読んだとき、一枚目の万年筆の遺書の上にそれを重ねてしまっていたらしい。総一郎はそれに目を走らせながら、少し首を傾げていたが、やがてあの万年筆書きの一枚目が出てくると、その目を大きく見開いて、言葉もなくそれを食い入るように見入っていた。
「…?」
その表情のあまりの変化に、中禅寺は思わず彼の腕に手をやり、なに?というようにその顔を覗き込む。
「……北大路……」
中禅寺の視線に応えることもなく、ただただ茫然としながら、総一郎はそう小さく呟くと、また手の中の紙片を――その遺書を、見つめ続けたのだった。



   
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