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再び赤坂のかの連れ込み宿の前に立った榎木津と中禅寺は、顔を見合わせたあと深く頷きあうとその入口へと向かって歩き始めた。
中禅寺は榎木津に言われた通りに俯き、その腕に縋りつくようにしながら歩いていたが、それは『演技』半分、借りた女物の靴が脚を締め付ける、その痛み半分の結果だった。
「……大丈夫か」それを察してか、榎木津がふと脚を止めて中禅寺を見下ろす。
「…ああ」低い声で答えながら、しまった、というように顔を顰める中禅寺に
「まだいいさ。だがもう喋るなよ」と榎木津は笑って、さあ、行くぞ、と彼の背に廻した手に力をこめた。中禅寺も小さく頷くと、人に顔を見られぬよう尚一層深く俯き、榎木津の胸にもたれかかった。
『場末』といいながも流石は客商売、綺麗に打ち水された玄関の引き戸を開け、榎木津は周囲を見回した。入ってすぐの処、低く暖簾を下ろした受付のようなところがあり、戸の開く音を聞きつけて奥から誰か来てそこへと座る気配がした。
「部屋…空いてるかな」
心持ち声を低くしながら、榎木津が暖簾の向こうへ向かってそう尋ねる。
「お泊りでいらっしゃいますか」中年女の声がしたが、その顔は暖簾に隠れて見えなかった。
「……そうだな。泊まろう」一瞬迷った後、榎木津がそう告げると、女はつ、と帳簿の上に宿帳を出してきて
「お名前とご住所を」と告げた。榎木津はさらさらと住所氏名をそこに記す。
「!」それを見ながら中禅寺はぎょっとして思わず顔を上げ榎木津を見た。なんと彼は、そのまんま本名をそこに記していたのである。
「ば…」馬鹿、と声を上げそうになって慌てて口を塞ぐと、思い切りその脇腹をつつく。
「ん?」榎木津はなに?というように中禅寺を見下ろしながら、多分実家のものなのだろう、どうみても嘘偽りのない本当の住所を書き記し、
「奥に近い部屋を頼む。誰にも邪魔されないように」と暖簾の向こうへ宿帳を押し戻しながらそう言った。
「…かしこまりました」それでは前金で、と女が宿泊の料金を告げる。榎木津はポケットに手を突っ込むと無造作にその倍くらいの金額を出し、
「釣りはいらん」と笑った。女は小さな声で礼をいうと、暫くお待ちくださいませ、と暖簾の向こうで一礼し立ち上がった。女の影が暖簾の向こうから消える。と、帳簿の横の戸から身を低くした彼女が二人の前に現れ、スリッパを並べながら
「どうぞお上がりくださいませ」とその場に座り頭を下げた。
女の先導で、二人は無言のまま宿の廊下を歩いてゆく。連れ込み宿というのはこういう様子をしているのか、と中禅寺は思わず辺りを見回しそうになり、先に立つ女がちらちらと振り返る度に慌ててその頭を下げ、榎木津へともたれかかった。
「…それでは、こちらで」
女は一つの部屋の前に膝をつくと、襖を開いて榎木津に中を見せる。
「うむ。ご苦労」榎木津はそう答えながら中禅寺を伴い部屋へと入っていった。茶でも入れてくれようとでもいうのか、女が続いて入ろうとするのを
「もういいよ。有難う」と制すると、女は
「お帰りの際にはお声をかけてくださいませ」と入口のところで深深と礼をして、音を立てぬように襖を閉めたのだった。
室内は案外と広かった。小さな机に茶の支度がしてある。座布団は二つ。そしてその直ぐ傍らに、二組の布団がぴったり並べて敷かれていた。
「…………」人目がなくなったのをいいことに、中禅寺は珍しそうに室内をぐるりと見回す。
「はじめてか」その様子を面白そうに眺めながら榎木津がそうからかってくるのを
「普通は初めてだよ」と不機嫌そうに返し、さて、と中禅寺は改めて榎木津の顔を見る。
「?」榎木津がなに?というように眼を見開くと
「あんたは……馬鹿か?」と中禅寺は周囲の部屋に気を使って潜めた声でそう言い捨てた。
「?」榎木津はわけがわからん、というように眉を顰めると徐に茶を入れ始める。その呑気な様子に中禅寺の苛立ちは益々募り
「なんだって本名を書くんだ?普通偽名を使うだろう?住所だってそのまんま、家の住所を書いてるんじゃないか?だいたい何の為に僕達はこんな変装をして来たと……」
思わず声を荒立てそうになるのを抑えながら、中禅寺が淘々と説教をしようとするのを
「まあ飲め」と湯飲みをその前に置いて榎木津は制すると、
「さて。これからどうする?」と中禅寺の顔を覗き込んだ。
「どうするって…当たり前だろう、関口君を助けに……」と言いかけ、中禅寺ははた、と黙り込む。
宿への潜入はこうしてなんとか果たした。が、よく考えれば―――いや、考えなくても、こういった宿では他の客室を探ることは至って困難なのである。普通、一度部屋に入ってしまえば帰るときまで廊下になど出ないものだ。どうしてこんな大切なことを、今の今まで少しも考えずに来てしまったのだろう、と自分らの粗忽さを呪いつつ、さてどうするか、と中禅寺は途方にくれて榎木津の顔を見返した。
「……小火(ぼや)騒ぎでも起こすか…」冗談とは思えない口調で榎木津がそう言うのを
「本名名乗った男の言うことじゃないな」と中禅寺はにべもなく切り捨て、うーん、と天井を睨む。
こうしている間にも、関口の身によからぬことが起こっているやもしれない。焦れば焦るほど妙案は浮かばず、中禅寺は厳しい顔のまま、どうしよう、というように榎木津の顔を見た。
「三白眼は禁止」と、榎木津がにやり、と笑ってそう返す。
「…………」思わず脱力して座卓に突っ伏した中禅寺だったが、そのとき突然襖の向こうから
「失礼致します」という声が聞こえてきたので、ぎょっとして顔をあげ榎木津と顔を見合わせた。
「なんだ」榎木津は、大丈夫だ、というように頷きながら襖の向こうへ声を返す。
「水差しをお持ちしました」
するすると襖があき、先ほどの女が盆に乗せた水差しを部屋の中へと差し入れると、ちら、と二人を見やり、僅かに眉を顰めたがまた無言で頭を下げ、襖を閉めた。
「…………」怪しまれたかな、と中禅寺は榎木津を見る。と、その彼が徐に
「よしっ」と大声をあげて立ち上がったので、今度は何事かと中禅寺は改めて彼の顔を見上げた。
「こうしていても仕方がない。イチかバチか、奥の方まで行ってみよう!」
だから大声をあげるな、と制する間もなく榎木津はくるりと踵を返すと部屋の襖を開けようとする。
「ま、まて!」慌てて中禅寺がその背に縋る。―――立ちあがろうとしてスカートの裾を踏み前につんのめってしまったのであったが―――榎木津はそんな彼を振り返ると
「お前はここにいろ」と苦笑するようにして笑うと、また襖へと手を延ばした。
「待てって」榎木津のこの勢いだと、それこそ一つ一つの部屋の襖を開けて中を確かめかねない。関口を見つけ出すより前に大騒ぎになること間違いなしである。しかも榎木津は宿帳に本名まで記している。これでは、当初の『穏便に、学校に知られぬように』という思惑をまるで外してしまうことになるではないか、と中禅寺は後から榎木津の腕を掴むと
「もう少し考えよう」と自分の方を向かせて、机の前へと座らせる。
「いくら考えてもいい案なぞ浮かばんぞ」
気勢をそがれたのが面白くないのか、榎木津は少し眉を寄せながら不機嫌そうにしていたが、それでも中禅寺がじろりと睨むと仕方なさそうにその場に胡座をかき、天井を見ながら考える素振りをしてみせた。中禅寺はその様子にほっと胸を撫で下ろしつつも、それならどうしたらいいのだ、とやはり天井を眺める。
暫しの沈黙が二人の上に漂った。と、
「失礼致します」
またもや襖の向こうで女の声がするではないか。中禅寺と榎木津は思わず顔を見合わせる。
「なんだ」不機嫌を隠そうともせず榎木津がそう外へ向かって声をかけると
「お茶を……」するするとまた襖があき、先程の女が入って来た。今度は小さなポットをその手に持っている。彼女はそれを二人が座る座卓の上へと置くと、あからまなくらいに二人の様子をじろじろと眺め、やがて
「失礼致します」と深深と頭を下げてまた襖を閉めた。
「……なんだ?」中禅寺が小さな声でそう榎木津に問いかける。
「……さあ?」榎木津も首を傾げたが、そんなことより、とまた二人して妙案を求め天井を眺めたそのとき、
ドタドタと廊下を歩いてくる足音が聞こえて来たかと思うと、行き成りがらりと部屋の襖が開かれた。
「なっ…」ぎょっとしてその方へと目をやった二人の前に立ちふさがったのは、中年のいかつい顔をした男だった。
「げっ…」思わず榎木津が潰れたような声を上げる。
「坊ちゃん、こんなところで一体なにをなさってるんです!」男は大声でそう言いながら、ずかずかと部屋の中へと入りこんで来、榎木津の前に立つとその腕を掴んだ。
「なんでお前がこんなところにいるんだ?」心底驚いているためか、榎木津の声も大きい。
「『なんで』と聞きたいのはこっちの方でさぁ。一体全体こんなところで何をしようっていうんですかい」男はそう言いながら、無理矢理榎木津を立ちあがらせようと取った腕を引張り上げた。
「煩い!お前の出る幕じゃあないぞ」何より無理強いが嫌いな榎木津である。取られた手を振り解くと自ら立ちあがり、そう男を睨みつける。
「『煩い』たぁなんです。こちとら、この宿から連絡を貰って一目散に飛んで来たってェのに」男も負けてはおらず、そう怒鳴りながら榎木津の方へと歩み寄るのに
「余計なお世話だっ」と榎木津は一歩下がってそう言い返しながらも、
「連絡だとぉ?」とその言葉尻を捕らえて男へまた視線を向けた。
「榎木津子爵のご令息と思われる方が、ワケありな夫人を連れてウチに来ている。なんだか様子がおかしいし、『あまり邪魔をされない奥の部屋』がいい、などという注文をつけるものだから、心中でもされたらどうしよう、と言ってここの主人からご実家に先程連絡が入ったんでさぁ。ほんとにもう、世間様に顔向け出来やせんよ。何だってこんな……」『場末の宿』と言いたかったのか、はたまた自分を『どこの馬の骨とも知れぬ女』とでも言おうと思ったのか、と中禅寺は漸く落ちついてきた頭で、榎木津と睨み合うこの中年男性を見やった。この様子では、彼はどうやら榎木津子爵に仕える使用人らしい。そして、あれほどまでに宿の女がちょくちょくこの部屋を覗いたのは、心中でもされたらたまらないと思って様子を窺いに来ていたのであったか、と中禅寺は思いながらも、やはりこの『変装』はお互い『無理』があったのだろうと一人溜息をついた。
「煩い煩い煩い、わけのわからんことを言うなっ」いいから帰れ、と榎木津が怒声を上げ、襖を勢いよく開けると廊下へ向かって指を差す。
「帰りますとも!坊ちゃんの首に縄ぁつけて、一緒に引張って帰らせていただきまさぁ」男は威勢良く腕まくりなぞしながら榎木津の方へとまた一歩を踏み出した。
「馬鹿者っ帰るのはお前一人だっ!」怒鳴りあう二人の声はあまりに大きく、開かれた戸の向こう、並ぶ部屋の襖が開いて、そこから首を出す男女の姿がちらほらと現れた。
それに気付いた中禅寺は勢いよく立ちあがり、その戸が閉められる前にとざっと廊下に面した部屋を見渡す。
その様子を見ていた榎木津は
「おお!」と彼の意図を察したようで、同じように廊下に飛び出して来ると、中禅寺の傍らに立ち
「どうだ?」と自分も廊下を見渡しながらそう尋ねる。
「一番奥―――」他に顔を覗かせていたのは、如何にも関係のなさそうな男女ばかりだった。が、あの奥の部屋から顔を出しかけ、すぐにその身体を引いたその影が、中禅寺にひっかかるものを残した。確信はない。が、ここまで騒ぎが大きくなってしまった今となっては、これ以上何か問題を起こしても最早一緒だという妙な諦めが、中禅寺を動かす原動力となった。
「行ってみよう」そう榎木津を見返すと、彼はわかった、というように小さく頷き、奥へと向かって廊下を駆け出した。
「あ、こら、逃げるなっ」男が慌てたようにその後を追い、彼の腕を後から掴んだ
「離せっ馬鹿者!逃げも隠れもしないぞっ!僕にはまだやることがあるんだっ」榎木津はその手を振り払いながら半身だけ振り向き男を睨みつける。
「いいえ、離しませんぜっ!さあ、帰りましょうっ」男も必死になって榎木津の腕へとしがみつく。思わずもつれ合う二人に駆け寄ろうとした中禅寺は、二人の後ろで奥の部屋の襖があく様を見て、思わず
「あっ」と声を上げた。長身の男が連れを横抱きにしながら、足早に手水の方へと走り去ってゆくではないか。
抱かれている人物は意識を失っているのか、だらりと下がった腕は動く気配すらない。
あれは―――
「榎さんっ」中禅寺が叫んだのと、榎木津が気付いたのが同時だった。
「待てっ」榎木津は自分にしがみつく男の手を振り切ると、長身の男の跡を追おうとした。が、使用人のその男も彼を逃がすまい―――逃げるのではないのだが―――と、必死で今度はその腰へとしがみつく。思わず中禅寺は後からその男へとむしゃぶりついた。
「な、なにをする」慌てたように男がひるんだその隙に、榎木津は彼を振り切ると廊下を駆け出してゆく。
「離さねぇか」女相手には乱暴は出来ない、というわけか、あまり邪険でないように男は中禅寺の手を払うと、また
「坊ちゃん」と榎木津の跡を追って走り出した。中禅寺もその跡を追う。廊下に面した襖がこの騒ぎを何事か、と眺めるようにまた開きはじめた。
その前を走り抜けながら、やはりこの中にはそれらしき人物がいないと確めつつ、中禅寺は先程ちらとだけ見えたあの長身の後姿を必死に思い出そうとしていた。
横抱きにされたあれは―――だらりと下がった、あの裸の腕は―――
白い、細い腕―――間違いなくあれは、関口の手だ。
勢い込んで、廊下を走り、手水へ通じる処を彼らの後を追うようにして曲がる。が、廊下を折れた処にいたのは―――
「坊ちゃんっ」
茫然とその場に立ち尽くす、榎木津のみであった。
「どういうことだ?」中禅寺が思わず榎木津の背中にそう呟く。
「……抜け道?」榎木津が眉を顰めながらそう振りかえろうとしたとき、
「警察だ!」ガラガラと玄関の引き戸の開く音と共に、大声でそう叫びながらこちらの方へと近付いてくる、数名の足音が響いてきた。
「!」思わず榎木津と中禅寺は顔を見合わせ、逃げ場がないか即座に周囲を見まわす。
「け、けいさつ?」榎木津の使用人らしき男も顔色を替えた。
と、榎木津が手洗いの横の物置のような小さな戸へと手をかけた。
「やはりここか…」それは物置などではなく、外へと通じる扉であった。それこそ受付を通らずにこっそりと入って来られるように作られた、秘密の入り口―――
「行くぞっ」榎木津がまず一番にその小さな戸をくぐって外へ出た。続いて使用人が、最後に中禅寺が扉を出る。目の端で警官の姿を捉えながらも必死でその戸を閉め、裸足のまま宿の裏庭を抜けると裏木戸から路地に出て、そのまま全速力で走り始める。
と、そのとき中禅寺は長いスカートに足をとられ道に倒れこんだ。そのとき酷く足を捻ってしまい、立ちあがろうにも立ちあがることすら出来ない。
「だ、大丈夫ですかい?」一緒に逃げていた使用人が振りかえり、慌てて彼のそばへと描けよってきてくれた。その声のおかげで榎木津も気付き
「大丈夫か?」と踵を返そうとしたそのとき、
「こっちだ!」暗い路地の向こう、警官がばらばらとこちらに向かって走って来た。どうする、と暫し三人顔を見合わせたあと、徐に榎木津があの中年男の方に向かって
「すまないがこいつを連れて家に戻ってくれ。今は二人して警察につかまるわけにはいかないんだ。あとから釈明でもなんでもするから、今だけはこいつを連れて、決してつかまらないよう早く家に帰ってくれ!」と叫ぶと、
「坊ちゃん…なにを…」と唖然としている男に「頼んだぞっ」と言い捨て、奇声をあげながらこちらへと向かってくる警官の方へと逆に走り寄って行った。
「榎さんっ」思わず中禅寺は叫んだが、
「早く行けっ」と榎木津は後も見ずに言い捨て、警官の一人に殴りかかっていった。
「榎さんっ」そう叫ぶ中禅寺の身体を、使用人の男が抱き上げる。
「な…」思わずその顔を見上げると
「坊ちゃんの命令だ。さあ、行きましょう」と男は渋い顔をしながらそう言って、「逃げるぞ」と叫ぶ警官の声を背にしながら全速力で走り始めた。
捻った足がじんじんと痛む。警官が追ってこないのは、榎木津が彼らを引きとめていてくれている為だろう。
宿にその名を明かしている今となっては、例えこの場を逃れようとも警察は彼の元へと容易く辿りつくであろう。それでも尚、彼がああして暴力を振るってまで逃れようとしたのは、一つは警察で時間をとられて今また辿りつきつつある関口の行き先を知る機会を失いたくなかった為であろう。そしてもう一つは―――同伴していた『女』が、女装の自分であったという事実を世間から隠そうとしてくれた為―――
それなのに自分のこの体たらくは何だ、と中禅寺は口唇を噛み締めながらも、更に益してきた足の痛みに耐えかね、いつしかその意識を失ってしまったのであった。

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