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門限を破ることなど、榎木津にとってそれこそ「赤子の手を捻る」ようなことであったが、優等生の中禅寺にとっては「初めての経験」のようで、何度も「大丈夫か」と後ろを振り返るのは、珍しくも年相応で可愛いと榎木津は笑いを噛み殺した。
が、都電を乗り継いで赤坂へと近づいてくると自然と榎木津の表情も厳しいものになってゆく。
「……何時だ」中禅寺がそう榎木津に尋ねる。何か話していないと落ち着かないのだろう。
「八時…十分前」榎木津が腕時計をかざしながらそう答えたが、多分その答えは中禅寺の耳には入っていないような気がした。と同時に、関口が姿を消してからもう12時間以上経ってしまっているということに改めて気付き、また彼の中で焦燥感が高まる。
「ついたよ」中禅寺が先に立って出口へ向かって歩き出した。榎木津も黙って頷き、その後を追った。
舎監が教えてくれたかの連れ込み宿は、駅から何本も路地を通り抜けた、殆ど「隠れ家」のような鄙びた場所にあった。一見ではわかりえないだろうこの場所で、松藤はその身体を鬻いでいたのか、と榎木津は一瞬感慨にふけった。同時にもしやこの中に関口が捕われているやもしれぬと思うと、やりきれない思いのままにじっと宿を見据える。
「……どうする」
ここまで来たはいいが、どうやってこの入口を潜ればいいのだろうか。
いざ入ろうと思うと、その術をまるで考えていなかったのに今更ながら気付いたと、中禅寺は困ったような顔をして榎木津を伺い見た。
「……どうするって……」榎木津も途方にくれたような顔で中禅寺の顔を見返す。
騒ぎを起こすのはまずいというのが、二人の共通した意見だった。先日警察に踏み込まれ、一高の名まで出てしまっているのだ。またここで我々が騒ぎをおこせば、それこそ両名ともに放校になるだろう。自分たちはともかく、もし関口が本当に捕われていたのだとしたら、彼まで同じ処分を受けるやもしれないのである。
極自然に中に入り、松藤が毎週身体を売っていたという『奥の部屋』へとたどり着くためには、一体どうしたらいいというのだろう。
忍び込むというのも見つかったときのことを思えばリスクが大きすぎる。家宅侵入罪をとられ、それこそ逮捕されかねないだろう。
それなら―――
「客になるしかないか…」暫く考えたあと、榎木津はそう言って傍らの中禅寺を見やった。
「客……」中禅寺は頷きかけたが、
「客?」とぎょっとしたように榎木津の顔を改めて見返す。
「そう。それが一番怪しまれずに中に入れるだろう」榎木津はそう言いながら、中禅寺の動揺した様子がおかしかったのかくすりと笑った。
「客…っていっても、僕達二人が行ったら、余りにもあやしくないか?」
連れ込み宿というのは、普通男女が「ことを致す」為に訪れる場所である。―――松藤の遺書によると、ここは男同士も同じ目的で訪れる場所であるのかもしれないが―――
それにしてもどうみても学生でしかない自分たちがその戸を潜るのはいかなものか、と中禅寺が首を捻っていると
「このままだと確かにアヤシイ。学生が検挙されたばかりだから、そういう意味でも警戒されるだろうな」と榎木津はうんうん、と頷きながら、徐ににやり、と笑って中禅寺の肩を掴んだ。
「?」不審気に眉を寄せ、中禅寺は榎木津を見上げる。
「変装だっ」榎木津はそう言って中禅寺の肩を叩くと
「連れ込み宿に入っても不自然じゃないような、男女の二人連れになればいいのだっ」
と場所柄もわきまえず大きな声を出したのだった。
「えええええ???」思わずつられて大声をあげながら、中禅寺ははっとしたように口を閉じ、今更ながら「しぃ−っ」と榎木津に向かって口唇の前に人差し指を立てて見せる。
「すまん。あまりに名案が浮かんだものでな」榎木津は声を落としながらも得意そうにそう笑った。
「何が名案なもんか。無理だよ、というより、無謀だ」中禅寺があきれたように榎木津を見てそう溜息をつく。
「何故だ?それが一番いい方法だということはお前も認めるだろう?」
折角の『名案』をけなされて、榎木津は不機嫌そうに鼻を鳴らすと、どのヘンが無謀なんだと中禅寺を睨んだ。
「変装…って、どちらかが女役をするってことだろう?」普通バレるよ、と中禅寺が説得するようにそう話し始めたその話の腰を折るように、榎木津は
「『どちらか』じゃないぞ。女役はお前に決まっているだろう?」と涼しい顔でそう言って、またもや彼の肩を叩く。
「はい?」思わずまた大声を上げそうになるのを必死で押さえながら、中禅寺は
「なんでそう決め付けるんだ?」とドスの効いた声でそう囁き返す。
「お前はどうみても『学生』じゃないか。また一高の生徒が来ていると通報されてしまうぞ」と榎木津は答えたが、この状況下にも関わらず彼は面白がっているようにしか見えなかった。
「何を言っているんだ。女装なら誰がどう見てもあんたの方が適任だろう」
中禅寺が慌てたようにそう叫ぶ。
「仕方がないだろう?適材適所、お前は誰がどうみても『成人男子』には見えないんだから」
「無理無理無理無理絶対に無理!」他の方法を考えよう、と立ち上がろうとするその手を捕らえると、榎木津は
「まあ聞け」と無理矢理彼をまた座らせた。
「言っちゃ悪いが僕はそのまま連れ込みに入っても見咎められることはないだろうが、お前はそのままでは到底無理だ。加えて連れ込み宿に入るのに一番自然な方法は『男女同伴』だろう?お前がどうしても女役をやりたくないと言うのなら、僕の馴染みのカフェの女給に代役を頼んでもいいが、お前はそれでいいのか?行くなら女装、それが嫌なら寮で待機、どうする?選択はお前に任せる」
と彼の目を覗き込む。
中禅寺は暫しそんな彼の真摯な眼差しを見返していたが、やがて大きく溜息をつくと
「わかった」と小さく頷いた。
「……で?」どうする、というように榎木津が小首を傾げるのに
「行く」とだけ答え、思わず破顔した榎木津に向かって
「いい加減手を離してくれ」と顔を顰めたままそう言った。
「よしっそうと決まれば善は急げ」榎木津は彼の手を離すどころか、自分も勢いよく立ち上がると、彼を引き摺るようにして歩き始める。
「おい、榎さん…っ」何処へ行くんだ、と慌てて脚をもつれさせながらも彼の後に続く中禅寺を振り返ると、
「『中禅寺秋子』を作りに行こうっ」と榎木津はにやりと笑ってそう言った。
「……絶対あんた、面白がっているだろう?」中禅寺は何処かうきうきとしているような彼の後姿に向かってぼそりとそう呟く。
「そんなわけないじゃあないか」そう答える榎木津の声もやはり笑いを含んでおり、中禅寺は一人大きく溜息をつくと、これもみな関口のため、と無理矢理自分を納得させたのだった。
榎木津が中禅寺を引っ張っていったのは、銀座の裏通りにある小さなカフェだった。薄暗い店内に入ってゆくと、中途半端な時間の為か客はまだ誰もいなかった。
「ママ!」カウンターの方に向かって榎木津が叫ぶと、奥の部屋から一人の女が顔を出した。年のころは三十前後、といったところか。なかなか整った顔立ちの美人である。
「あら坊ちゃん、久し振りじゃあないの。一体どうなさったの?こんな早いうちから…」『ママ』と呼ばれた彼女は榎木津にそう笑いかけながら、後ろにいる中禅寺に向かって軽く会釈をして見せた。
「今日はママにお願いがあってやって来た」徐に用件を切り出そうというのか、榎木津は何も説明なしでいきなり中禅寺を自分の前へと引き出すと、え?と少し眼を見開いた彼女に向かって
「こいつを女にしてやってくれ」とその肩を痛いくらいの力で叩いたのだった。
「……え?」驚き言葉を失うママと
「榎さん、そりゃ唐突すぎる」と慌てて彼を振り返る中禅寺を全く介さず
「時間がないんだ。出来るだけ早く頼む!」と榎木津は中禅寺の背中を尚もぐいと前へ押し出したのだった。
「……私にはちょっと荷が重いわ」『ママ』は暫し中禅寺の顔をみつめたあとそう嘆息し、
「そこをなんとか」とねばる榎木津に向かって、ちょっと待ってて、と言い置くと、奥へ電話を架けに行った。
「…世の中には『不可能』なことが沢山ある」中禅寺が、な、といいうように榎木津を見る。
「僕の人生には『不可能』の文字なんてないぞ」
根拠のない自信に溢れた言葉を臆面もなく吐きながら、榎木津は任せろ、というように中禅寺を見て笑った。
「ナポレオンか…あんたは」中禅寺が付き合ってられない、と大きく溜息をついたそのとき、丁度ママが戻ってきた。
「お待ちどうさま、今、プロフェッショナルを呼んだからもう大丈夫よ」
にこにこしながらそう二人をかわるがわるに見やると、ママは、なんだかわくわくしてきちゃったわ、などと呑気なことを言いながら、一杯くらい飲んでいけば?と酒まで作り始める。
「いえ、おかまいなく…」それどころじゃあないだろう、と言いたい気持ちをぐっと押さえてそれを辞す中禅寺の横で
「悪いな」と榎木津は平気でコップを手にとり、ママの作ってくれた水割りを一気に飲み干していた。
「榎さん、あんた…」これから何をしに行くか、わかっているのか、と小声で叱責するように中禅寺がそう言うのを
「お前も少しくらい飲んでおけ。羞恥心が薄れるぞ」と榎木津は全く相手にせず、逆に酒を勧めてくる始末で、中禅寺は一体これからどうなっていくのかと、二人の行く末を思い心の底から嘆息してしまったのだった。
カランカラン、とドアの開く音がする。
「待ってたわよう!」ママが一段と高い声色で入口の方へと向かって叫んだ。中禅寺も榎木津も何事かとその方を振り返った。
「ごめんなさい。お化粧手間取っちゃって……」入口に佇むのは絶世の美女―――にしては随分ごついガタイをしている。おまけにその声は中禅寺のそれよりも2オクターブは低い。
「早速お願いするわ。この子なんだけど」酒が入ったせいか、随分馴れ馴れしくなったママが中禅寺の背中をぐい、とその美女に向けて押し出した。
「まあ〜、まだコドモじゃないの。この道に入るの、ちゃんと自分で決めたの?」
美女は中禅寺に顔を近づけ、まじまじとその姿を見ながらそう尋ねてくる。
近くで見ると美女の顔には―――その鼻の下には、青々としたヒゲの剃り跡があった。
「この道???」も、もしや、と中禅寺はこころもち後ずさりながらそう尋ねる。
「わはは、わかったぞ!なるほど、プロだな!」傍らで榎木津が大きな笑い声をあげた。
「プロ?」美女が榎木津を振り返り、まあ、綺麗な顔だこと、とにっこりと微笑む。
「色々事情があるみたいなのよ。とりあえず早くやってあげて」ママが後ろから助け舟を出してくれ、ああ、そうだったわね、と美女はその太い腕で中禅寺の細腕をがっしりと掴むと
「ママ、化粧道具借りるわよ」と艶然と笑ってみせ、そのまま奥の部屋へと彼を連れ去っていった。
「さ、髪上げて…」鏡台の前に座らされ、ピンで前髪を上げられると、美女は中禅寺の顔に化粧水をぱしぱしと叩き、続いて乳液を塗り込んでいった。
「あ、あの…」手早いその所作の合間に中禅寺は思わず鏡越しに美女に向かって問いかけようとするのに
「ああ、ごめんなさい。千代ですぅ。新宿で店やってるの。ここのママとはご近所さん…っていうか、昔ここでバーテンやらせて頂いてたんで、それから…そうねえ、十年あまりの付き合いなのよ。よろしくね」と美女は手を休めずにっこり笑ってそう答えてくれた。
「ば、バーテン??」やはり、と中禅寺は近くに寄せられた美女の顔をまじまじと見やる。
「いいわねえ…若いって。化粧のノリが違うわ」そう喋る彼の喉には、女性にはあるまじき喉仏がくっきりと現れている。
「あんたも痩せてるから、喉は目立つわね……洋装にする?」中禅寺の視線に気づいたのか、鏡の中の彼の顔を眺めながら、自称『千代』さんは、どうしようかしら、というように美しい眉を顰めた。
「よ、洋装?」思わず身体を引きそうになる中禅寺の反応などまるで無視して、千代は
「ま、それは後で考えましょ。さ、ライン引くわよ。眼が2倍にはなるわ。眼、閉じててね」とのべつ幕なしに喋りながら、ただただ呆然としている中禅寺の目を閉じさせ、黒々としたアイラインを引いてきた。
「乾くまで眼、閉じてなさいね。ママ、ママ!ちょっと来て」
口だけでなくその所作まで落ち着きのない千代は、中禅寺に眼を閉じさせたまままた店のほうへと大声をあげる。
「なになに?もう出来たの?」あきらかに面白がってるとしか思えない調子で、ママが部屋へと入って来た気配がした。その後ろにはやはり面白がってるとしか思えない榎木津がついてきているに違いない、と中禅寺は目を閉じたまま顔を顰める。
「駄目よぅ、じっとしてなきゃ。そうだ、睫もつけなきゃね。糊はるわよ〜」千代はそう言ってまた目を閉じたままの中禅寺の瞼になにかねっとりしたものを塗り始めた。
「なんだ、まだじゃないの」後ろからママのつまらなそうな声がする。
「あ、そうそう、何か首のつまったセーターかなんか、ない??この子痩せてるから喉仏が目立っちゃうのよぅ」
千代の騒がしい声は続く。
「そうねぇ…ああ、前にお客さんに頂いた紫色のがあったわ。それもってくる」
「あ、下着も持ってきてねぇ。胸作らないと…。この子、細いからきっとママので充分よう」
恐ろしい会話が頭越しに交わされるのを、中禅寺は冷や汗をかきながら聞いていた。
「もうちょっと頬がふっくらしてたらねえ…」戻ってきたママがすぐ後ろに近づいて、鏡を覗き込んでいる気配がする。
「そのへんはヅラで隠せばなんとかなるって。なんてったって若いんだもん。大丈夫よう」せめてチークはふんわり入れましょうね、と話かける千代の声は既に「後輩」に対するもののようで、違うんだけどな〜…と思いつつも中禅寺は
「お願いします…」とわけもなく頭を下げた。
「ヅラ…ロングだとちょっと怖いわね」モダンっぽく、肩くらいにしておきましょうか、と千代は持ってきた荷物を物色しながらそう言うと、中禅寺の頭に鬘を乗せる。
「……いいんじゃない?」ママの笑いを含んだ声が後ろから響いてきた。
「あとは口紅ね…若々しくピンクっぽいのがいいかな。あ、オトナに見えなきゃいけないんだっけ。じゃあ赤ね」口唇に紅を引かれ、最後の仕上げ、と眉まで整えられて
「さ。出来上がり」と千代は満足そうな声をあげると
「眼、開けてみなさいよ」と中禅寺に向かってそう囁いた。今まで怖くて眼が開けられなかった中禅寺はおそるおそる眼を開き―――
「こ…怖い」
鏡に映る己の姿に思わずそう呟いたのだった。
それから、さあ、お召し変えよ、とせかされるままに半身を裸にむかれ、無理矢理ママの下着をつけさせられて胸にストッキングを詰められる。
「ね〜、坊ちゃん、胸大きいのと小さいのと、どっちが好み〜?」ママが店の方に向かってそう尋ねる。意外にも榎木津は部屋へは入ってきていなかった。カウンターで酒を飲んでいるのだと教えられ、自分がこんな大変な思いをしているときになんて呑気な、と中禅寺は思わず顔を顰める。
「大は小を兼ねる」酔いを含んだ榎木津の答えに、ママは
「りょーかい」と明るく答えると、中禅寺の胸にもう一足ずつストッキングを詰め込んだ。
「さ、着てみて」夜目にも鮮やかな紫色のセーターをかぶせられ、
「化粧落としちゃだめよ〜」と千代に手を添えられながらそれに袖を通し、スカートはママが持ってきた黒いロングのそれを履かされ
「いやだ、そのまま履けちゃうじゃないの。ほんとにこの子、細いわねえ」とあきれられながらも黒いストッキングとハイヒールまで履かされて、漸く全ての準備が整い再び鏡の前で眺めたその姿を中禅寺はこれぞ一生の汚点と嘆きつつ見やると深く溜息をついた。
「さ、坊ちゃんに見せに行きましょう」うきうきしながらその背をママが叩く。
「頑張ったでしょう?あとはその三白眼さえ見せなきゃ合格よ」何に合格なのかわからないが、千代もそう中禅寺の背を叩く。
「坊ちゃん、出来たわよぅ」二人に促されるようにして店の方に出てきた中禅寺は、いやいや、といった感でカウンターに座る榎木津へと目をやり―――彼の姿に呆然として思わず眼を奪われた。
榎木津は、何時の間にか仕立てのいい茶色のスーツを着込み、英国製らしいトレンチコートを肩から羽織ってグラスを傾けていた。外国映画から抜け出してきたようなその容姿―――頭に乗せた帽子ははっきりいってやりすぎという気もしないではないが―――
「……榎さん」
「をを、待ちかねたぞっ」榎木津は立ち上がり、中禅寺の方を振り返ると―――
思い切り爆笑した。
「失敬な」思わず中禅寺が睨みつけるのを
「駄目っていってるでしょ!三白眼は禁止よっ」と千代が背中をどやしつけて叱る。
「坊ちゃんもそんなに笑うなんて失礼よぅ」ママが苦笑しながら榎木津の背を軽く叩いて笑いを収めてやろうとした。
「面白いっ!面白すぎるぞっ」榎木津は笑いながらそう中禅寺の方へと近づいてくると
「さあ、行こう」とその手をとって、自分の腕へとかけさせた。
「いってらっしゃい!」ママと千代が声を合わせてそう叫ぶ。
「…なんか思い切りヘンな二人連れじゃないか?」思わずそうちらと榎木津を見やると
「少なくとも一高の生徒には見えんだろう」と彼は笑って、やっぱりこれは辞めておこう、とその帽子を脱ぎ、ぽん、とママの方へと放り投げると
「色々世話になった。有難う」と百万ドルの笑顔を見せて空いた片手を振ったのだった。
「三白眼は禁止よ〜」千代の叫び声を背にしながら二人は肩を並べ、腕を組んで店を後にする。
「なかなか似合う。『面白い』と笑ったのは、お前が女にしか見えなかったからさ」
そんなフォローはいらないのに、流石フェミニスト、女装の自分にも気を配るのか、と中禅寺は小さく溜息をつきながらも
「そりゃどうも」と軽く頭を下げながら小さな声でそう答えた。
「仕草と声、気をつけろよ?」榎木津が思いついたようにそう言って中禅寺に組ませていた手を伸ばすと、ぐい、とその肩を自分の方へと引き寄せる。
「な…?」何を?と思わずその顔を見上げる中禅寺に
「三白眼は駄目だって」と笑うと、榎木津は
「お前はすっかり酔って僕にもたれかかってる、ってことにしとけ。それなら喋らずにすむし、多少の不自然は見逃して貰えるだろう」と囁き、
「さあ、行こう」と尚一層力強く、中禅寺の肩に廻した手に力をこめた。
いよいよだな、と中禅寺も気持ちが昂揚してくるのを感じる。いよいよかの連れ込み宿に潜入し、捕われの身となっているであろう関口を救い出すことが出来るのだと―――
「なんかワクワクするなっ」
そんな彼の決意などまるで知らぬといった感の、榎木津の陽気な叫び声が、夜の街へと響き渡った。

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