V
日も暮れる頃、榎木津と中禅寺は疲れ果てて寮へと戻ってきた。心当たりは全て探したが、関口を見つけることはできなかった。もしや、と思って寮へと引き返してきたのだが、関口が帰った形跡すら認めることが出来ず、二人は顔を見合わせ、また深く溜息をついた。
関口の足取りは途中までは追えたのである。中禅寺の予測通り、彼は松藤が飛び降りた高架の上に暫く佇んでいたらしい。周辺住民がその姿を見ており、また飛び込まれでもしたらどうしようと思って、と通報しようとすらしていたらしい。が、彼らがその場所を訪れたときには、高架の上は無人であった。多分松藤を忍んでなのだろう、彼が飛び降りたと思われる場所に花が供えてあった。中でも目を引く、大きな百合の花束のその香りに酔いそうになりながらも、二人は暫くその場所から下の線路を見下ろしていた。
ここから―――飛び降りるときに、松藤は一体何を思ったのだろう
そして関口は―――ここで何を眺め、何を思っていたのだろうか、と。
通りがかる近所の住民の何人もに、二人は関口の足取りを尋ねた。が、知り得たのは彼が暫くここに佇んでいたということのみで、この場から立ち去る彼の姿を見たものはいなかった。
目立った話としては、映画俳優のような端正な顔立ちをした長身の男が、この百合の大きな花束を抱えてきた、という話だけで、いかにも飛び降りるのではないかとというように思いつめた顔をした一高の制服を着た少年の行方を示唆するような光景を見た者にはついに出会うことが出来なかったのである。
「どうしよう…警察に届けるべきかな」
中禅寺はそう言って、傍らに佇む榎木津の顔を見上げた。
「うむ……」どうしたものか、と榎木津も暫し頭を巡らせ黙り込んだ。
松藤が売春をしていた上に、飛び降り自殺をしたという所謂「不祥事」に学校側が頭を痛めている今、関口の失踪を警察沙汰にすることは、また彼らの神経を逆撫でることになるだろう。悪くすると、関口自身が放校にでもなりかねない。
だがしかし、このまま行方不明の彼を捨て置くことは、彼の身の安全を思うとどう考えても得策ではない。
一体どうしたものか―――考えながら部屋を見回していた榎木津の眼に、中禅寺が出掛けに自分の寝台の上に放り投げた、例の茶表紙の本が入った。無言のまま彼の寝台へと歩み寄るとそれを取り上げ、どっかりと腰掛けながら再びそれを開く。
先ほどは題名までは見ていなかった、と思いながら榎木津はその頁を捲っていった。松藤は何故、この本を関口へと渡したのだろうか。間にはさまれたこの紙片を見せるために―――?
それは何故だ―――?
「ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』か……」中禅寺が榎木津の隣に腰掛け、貸してくれ、というように片手を出してきたので、榎木津は求められるままにそれを手渡した。
「意味があると思うか?」同じようにぱらぱらと頁を捲っている彼に榎木津はそう問い掛ける。
「何に?」眼を本に落としたまま、中禅寺は短く問い返してきた。
「何故、松藤はこの本を選んだんだと思うか?」わかるわけないか、と思いながら榎木津がそう問いを重ねると
「自分のことみたいだったからじゃないか」と意外にも答えが返ってきて、榎木津は、え、というようにそんな中禅寺の顔を見やった。
「優等生として入学してきたはいいものの、繊細な神経ゆえに次第についてゆけなくなり、素行の悪い級友に惹かれ、自らも段々と落ちこぼれてゆき、最後には……」と中禅寺は言いかけたが、榎木津の視線に気付いて言葉を切った。
「……死ぬんだったな」榎木津がかわりにそう言ってやると、まあね、と中禅寺は俯きながら小さくそう答える。
「……主人公に自分を重ねたから、この本を選んだと?」榎木津が、また貸せ、というように中禅寺の前に手を伸ばした。中禅寺は本を閉じると
「単なる偶然かもしれない。本人でなければわからないよ」と、榎木津に返そうとして、あれ、というようにその背表紙を掌で撫ぜた。
「どうした?」榎木津がそんな彼の様子を不審気に見守る。
「いや……何か……」
中禅寺はそう言いながら、本の表紙の下を暫く探っていたが、不意に立ち上がり自分の机の方まで歩いていくと引き出しからペーパーナイフを取り出した。
「?」榎木津も彼の後を追うようにして、背中越しに彼の手先を見つめる。
中禅寺は本を机に立てると、ペーパーナイフをその背表紙の下へと滑り込ませた。
「おい」榎木津の口から思わず咎めるような声が漏れる。中禅寺はちらと彼の方を振り返ったが、すぐに視線を本へと戻してそのまま慎重な手つきでナイフを入れ始めた。二枚の厚紙がぴったりと合わさっている構造をしていたらしいその双方の間にナイフを割り込ませ、次第にその間を開いてゆく。
「あ」榎木津の目が、その厚紙の間にはさまれた白い封筒を捕らえた。中禅寺はナイフの先を使って器用にそれを取り出すと、榎木津の方へとその封筒の表を示して見せた。
「『遺書』……」
榎木津が口の中でそこに書かれた文字を呟く。
「松藤先輩の……遺書か」
中禅寺はそう言うと、どうしよう、というように榎木津の顔を覗き込んだ。榎木津は無言のまま差し出されたその「遺書」を受け取ると、封をされていないその中から数枚にわたる紙片を取り出し、声を出して読み始めた。
『僕の死ぬ理由を公にする勇気を僕は持ち得ない。
誰にもわからぬ理由で死んでいくことを僕は何より望んでいるはずであるのに
それでも心の何処かでは、僕はこの理由を聞いてくれるあなたの存在を渇望している。
あなたへの想い故に僕が自らの命を絶つとは思わないで下さい。
あなたへの想いは確かに僕にとっては何にも替えがたい大切なものでした。
その大切な想いを自ら汚したのは僕なのです。
だから僕は死んで行こうと思うのです。
あなたが僕を思い出すときに、決して眉を顰めることがないように
あなたが僕を思い出す可能性は著しくゼロに近いだろうけれども
この全てを告白してしまえば、きっとあなたは死んで尚僕を厭うでしょう。
それが何より怖いのです。
それでも、僕は何もかもを聞いて欲しいと思っているのです。
もう一度言います。
あなたへの想い故に、僕が自ら死を選んだとだけはどうか思わないで下さい。
あなたのことが好きでした』
それで便箋の一枚が終わったのだろう。榎木津は無言でそれを中禅寺へと渡した。中禅寺もその紙面に眼を走らせる。本の間に挟まっていた、あの恋文のような詩と同じ、細い、神経質にすら見えるその筆跡は、それでもその堅い決意を表しているのか、所々強くペン先を留めたようで紙の裏に透けるほどにそのインクが滲んでいた。
「……『あなた』というのは……」あんたなのかな、と言おうとして、無神経かなと中禅寺はまた言葉を切った。
「『遺書』ならわかるように書け」榎木津はぶすりとそう呟くと、「まだある」と二枚目を読もうとし、その美しい眉を寄せた。
「なに?」
中禅寺が一枚目を返しながらそう尋ねると、
「いや…同じときに書いたものじゃないらしい…こっちは慌てて書いたのか、随分筆跡が乱れている」しかも鉛筆書きだ、と榎木津はその紙面を中禅寺に示したあと、続けて声を出してそれを読み始めた。
『ついに学校に知られてしまった。僕はもう破滅だ。放校になるのは確実だ。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
馬鹿だ。僕はどうしようもない馬鹿だ。
あのときあの男の甘言にさえ乗らなければ―――
こんなに身を持ち崩すことはなかっただろうに。
いや、人のせいにしてはいけない。
全ては自分の責任だ。僕が全部悪いのだ。
突然僕の前に現れてきたあの美しい悪魔。
あの男はどうして僕のことを知り得たのだろう。いや、僕でなくてもよかったのか。
彼に少しでも関係の或る人物なら、僕でなくてもよかったのかもしれない。
もう順序だてて何も考えることが出来ない。
でも書き残さなければ。彼の身に迫る危険をなんとかして伝えなければ。
僕が見知らぬ男に、金でこの身体を買われていたのは事実だ。
彼と出会ったのは偶然なのか、彼自身が仕組んだことなのか
今となっては僕には知る術がない。
彼は僕に何か薬を嗅がせ、身体の自由を奪ったあと、僕の身体を蹂躙した。
そしてそれを学校に知られたくなければ、と僕を脅して
身も知らぬ男たちに「一高の生徒だ」と紹介し、この身体を抱かせた。
中年、老年、色々いたが、皆男色の趣味がある、ぎらぎらした醜い男たちばかりだった。
彼はそういう男を敢えて選んでくるかのようで、散々僕の身体を嬲り者にしたあと、必ず僕に金を取らせた。それでいて、その金は全て僕の自由にしていいというのだから、彼の目的は僕を「金で身体を売る男」として貶めることだったとしか考えられない。
場末の連れ込み宿には、彼が常に予約している奥の部屋があった。決められた日に彼は僕をそこへと呼び出し、有無を言わせず客をとらせた。一晩に酷いときは三人も客がいたこともある。全てが終わると彼は僕を寮まで送ってくれたが、まるで汚らわしいものを見るような目で僕を眺め、この体には二度と触れようとはしなかった。
彼の目的は一体なんだったのだろう。いくら考えても僕の貧困な想像力では到底解明し得ない。
先週の客を僕はたいそう怒らせてしまった。あまりにも無理をさせるものだから、我慢できずに僕は途中で逃げ出してしまったのだ。その男は相当頭に来たのだろう、僕がいつも決まった曜日にあの連れ込み宿で売春をしていることを宿の女主人から聞き出すと、匿名で一高の生徒が売春をしていると警察に通報したのだ。
警察に踏み込まれたとき僕はもう言い訳の出来ない格好で客と布団の中にいた。それから先は全て夢のなかの出来事のようで、気付けば僕は留置所の汚い布団の上で膝をかかえてただ呆然と座っていた。
寮の舎監が粟を食って僕を迎えに来た。彼は僕と顔を合わせると、思い切り僕の頬を殴った。そしていつまでもくだくだと学校の名誉のことを嘆いている彼に車に乗せられ寮へと戻ってきた。明日には放校になるだろうと舎監は僕にそういい捨てると、今日のうちに荷物を纏めて出てゆくようにと厳しい顔でそう命じた。
そうして僕はこの遺書を書いている。
明日の朝、一番に、死のう。
あなたが僕の罪を知るその前に。あなたの軽蔑した視線だけは受けないですむように。
本当に僕はあなたが好きだった。一度でいいから話し掛ければよかった。
この身体が穢れてしまうその前に、あなたと言葉を交わしたかった。
僕の身体は穢れている。この身体を売った金は僕の懐に溢れている。
身体を売るのは最初苦痛しか伴わなかったが、やがて快感すら得るようになってきてしまった。僕はそのとき、本当に自分が穢れてしまったことを改めて感じたのだ。
あなたへの思いはこんな穢れた身体では抱いていられない。
僕はあなたに抱かれたかったわけじゃない。
嘘だ
今となっては、僕はあなたに抱かれる夢ばかり見ている。
僕は死にます。
最後にこれだけは忘れないで下さい。
あの美しい悪魔に気をつけてください。僕は彼の名前を知らない。
最初にあったとき、彼はあなたの名を口にしました。
あなたを知っているかと僕に聞いたのです。
そうして百合の花のような匂いのする薬品を嗅がすと僕の身体を奪ったのです。
何と言うか、思わず眼を奪われる美貌の持ち主なのです。
ただ、その瞳は背筋が凍るほどに冷たく、冴え冴えとしているのです。
どうか気をつけてください。
あなたの身に災いがおこりませんように。
それだけが心残りです。それでも僕はあなたにこの穢れた身を晒す勇気を持ち得ないのです。
さようなら
松藤幸夫』
榎木津はそこまで読み終わると、大きく一つ溜息をつき、便箋を全て中禅寺へと手渡した。
中禅寺はもう一度頭からその『遺書』を読み始めた。
「どういうことだ?」押し殺したような声が、榎木津の口唇の間から漏れる。
「…榎さん」
「一体どういうことなんだっ」榎木津はまた中禅寺の机まで歩み寄ると、バンっと音がするほどその上に自分の拳を落とした。
「……僕にわかるわけがないだろう」わざとのように冷静な声で中禅寺がそう答えると、榎木津は噛み付くような視線を彼へと投げて寄越し―――やがて小さく息を吐くと
「そうだな…」とその肩を落とした。
「……『美しい悪魔』……」誰なんだ、と中禅寺は誰にともなくそう呟く。
「僕にわかるわけないだろう」榎木津がお返し、とばかりにそう答えるのをまるで無視すると、中禅寺は
「心当たりはないのか」と真剣な眼で榎木津に問うた。
「あるわけがない…が……」榎木津はそこで顔を曇らせる。中禅寺も眉を顰めると
「……気になるな……」とやはりその表情を暗くした。
二人の頭に、同じように描かれていたのは、あの高架の上に置かれた大きな百合の花束――
その花束を抱えていたという、『映画俳優と見紛うほどの』美青年が、関口らしき学生と前後して、同じ場所へと現れたという事実―――
「何処だ」
榎木津が唐突にそう叫んだ。え、というように中禅寺が彼を見返すと
「松藤が検挙されたっていう、連れ込み宿は一体何処だ?」と焦りを隠せない様子でそう彼の肩を掴んだ。
「知らない……が、舎監なら聞いているかもしれないな」中禅寺はそう答えながら、既に立ち上がっていた。舎監を丸めこんでその場所を聞くことなど、彼にとっては容易いことである。
「急ごう。セキの身が心配だ」
榎木津もそう立ち上がり、二人無言で深く頷きあった後、中禅寺は舎監室へと、榎木津は自室へと向かうべく部屋を足早に飛び出していった。
無事でいてくれ―――
わけのわからない悪意が己の周りにたちこめていることに少しも気付いていなかった、そのこと自体我ながら許せないような気がして、榎木津は制服を脱ぎ、身軽な服に着替えたそのあとに、壁に向け力いっぱいその拳を叩きつけた。
持ってるだけの金をポケットに入れ、中禅寺の部屋へと引き返すと、彼ももう制服から普段着へと着替え終わっていた。
「赤坂」
榎木津に向かって一言だけ言葉を発する。
「さすがだな」
緊張感を薄れさせようとわざとそう茶化すようにして笑うと、中禅寺も同じなのか
「赤子の手を捻るようだったよ」と片方の眉だけあげて普段のように笑い返した。
「よし、行こう。場所はわかるか?」
「ああ。地図まで書いてもらった」
その答えに、榎木津は今度は思わず本気の笑いを漏らし、彼の背中を軽く叩いてその労をねぎらってやったのだった。

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