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「関口君?」西向きの為、午前中は薄暗い室内、木製の簡単な机とこれまた簡素な寝台が2台並んでいるだけの二人部屋―――勢いよくその戸を開いて入って来た中禅寺と榎木津は、中にいるはずの関口の姿が見えないことに互いに顔を見合わせた。
「始業式に行ったとか?」榎木津がそう講堂の方をちらと見ながらそう言うと、中禅寺は
「いや」と首を横に振り、とても自ら外に出るということが出来そうな様子ではなかったと口唇を噛む。
「……もしや……」暫し呆然と室内で立ち尽くしていた二人だったが、中禅寺が思い出したようにそう顔を上げて榎木津を見た。
「サルの行きそうな場所に心当たりが?」榎木津は眉を寄せてそんな中禅寺の顔を見返す。
「……松藤先輩の死んだ場所を聞かれた……まさか一人で……」そこへ?とフェイドアウトするように黙り込んだ中禅寺の顔を榎木津は暫しみつめたあと
「行こう」と彼の背を促し二人連れ立って部屋を出た。
「何処で死んだって?」強風の中、飛んでくる塵が目に入らぬよう、その美しい鳶色の瞳を細めながら榎木津が自分の後ろを歩く中禅寺を振り返る。
「中央線の―――阿佐ヶ谷と高円寺の間の高架かららしい」答えた中禅寺も風を避けるようにして俯きながら、黙々と歩いている。
「電車に飛び込んだんだっけな」取巻き連中の話を思い出しながら、またそう振り返ると
「大騒ぎだったらしい。あそこは飛び込みが多いんだ」と中禅寺は眼にゴミでも入ったのか、顔を顰めてそうまた下を向いた。
「………いるかな」サルは、と呟くように言いながら榎木津は、大丈夫か?というように中禅寺の顔を覗き込む。
「……多分」答えながら、中禅寺は大丈夫です、とその眼を擦った。
間もなく都電の駅が見えてきた。次第に多くなる人並みをちらと見て、榎木津は
「制服で来たのは失敗だったかな」と中禅寺と顔を見合わせ苦笑した。
* * *
震動が靴の底から伝わってくる。先ほどからもう、何台の電車が自分の下を通り過ぎていったことだろう。
関口は高架の手摺に身体を預けながら、ぼんやりとその下に走る線路をみつめていた。
また一台、今度は上りの電車が通り過ぎ、関口の立ち尽くす高架を揺らしていく。
『これを――君にあげよう』
関口の頭に、昨日妙に青い顔をしながら部屋を訪れて来た、先輩の松藤の顔が浮かんだ。
『……あの……』
彼とは入学以来一言も話したことがなかっただけに、関口は普段よりいっそう貧困になってしまった語彙を駆使しようとしたが、やはり思うように言葉は出てこなかった。
『……僕は君が……』松藤は、頭に血が上ってしまって言語障害を起こしている関口に向かって、薄く笑ったあとに何かを言った。
『………え?』語尾が聞き取れず、関口は思わず顔を上げ彼の顔を改めて見返したのだが、松藤は、もういいんだ、と笑うと関口にあの本を差し出し、無理矢理その手に預けたのだった。
『先輩?』後を追おうかとも思ったが、なんと話し掛けて良いのか少しもわからず、関口は暫し迷ったあと、同室の中禅寺にでも相談してみよう、と、あまりにも安直な結論を下してまた部屋の中、自分の机の所まで戻ってしまったのだった。
背表紙に図書館のシールが貼ってあったことも、関口を部屋に戻らせる要因となった。『あげる』もなにも、学校の本じゃあないか、こっそりと戻しておけという意味かな、と思いながらその表紙を捲る。
ドイツ語の本だった。興味も持てぬままにぱらぱらと捲っているうちに、ひらり、と一枚の紙片が関口の足元へと落ちた。
「?」
思わず拾い上げてそれを読み―――
「?」
これは松藤が書いたものなのか―――初対面であるから、勿論関口は彼の筆跡など知らない。細い神経質な文字で書かれたその文章を、関口は二,三度口の中で読んでみた。
「……恋文?」
一番に頭に浮かんだのはその言葉だったが、この紙片が故意に挟まれたものであるのか、挟んだのは松藤なのか、何より何故松藤はこの本を自分に渡したのか―――わからないことが多すぎて、関口はまたその紙を本へと挟むとぱたりと本を閉じ、同時に考えるのをやめてしまったのであった。
全ては明日―――寮に帰ってくる中禅寺に相談してみようと―――
そして今朝―――中禅寺が帰還し、会話を交わすより前に学長室へ呼ばれてしまったその後に、松藤の自殺の報が関口の耳にも飛び込んできたのである。関口は思わず彼から手渡された本を手に取り―――また開く勇気を持ちえず、がたがたと震えながら、本を抱き締め、寝台の上に座り続けた。戻ってきた中禅寺がその様子を不審に思い、何があったのかを問い質してくるそのままに関口は昨日あった出来事を彼に洗いざらい話していた。
話しながら関口は胸に立ち昇る抑え切れぬ後悔の念に苛まれ、思わず絶句してしまったのだが、そんな彼の背中を中禅寺は驚くほどに優しい手で軽く叩くと、
「もう今日は何も考えるな」と関口の手から本を取り上げ、
「講堂に行ってもきっと君は貧血で倒れるのがオチだろうから、このままここで寝ておけよ。先生には僕から言っておく」とまるでわざとのように、普段と全く変わらぬ口調でそう言って、関口が再び布団の中に潜るまで傍らに佇み見守ってくれた。
「先輩は何処で死んだんだい?」布団の中から眼だけ覗かせてそう中禅寺に尋ねると、
「考えるな、と言ったろう」と言いながらも、阿佐ヶ谷と高円寺の間の高架だ、と中禅寺は教えてくれ、さあ、もういいから寝たまえ、と布団の上から彼の身体を軽く叩いた。
それに促されるように関口は寝台の上で眼を閉じる。閉じた瞼の裏、昨日この部屋を訪ねてきた松藤の顔が浮かんでくるのを必死で押さえ込もうとでもするように、関口はぎゅっと目を閉じ、布団へと潜り込んだのだった。
そして―――
始業式の始まりを告げる講堂の鐘に、関口は束の間の転寝から目覚めた。
自分が眠っていたことに軽いショックを覚えつつ、ぼんやりした頭のまま半身を起こす。
『――君にあげよう』
差し出された手。薄く微笑むその口唇―――
『僕は、君が―――』
あのとき、彼は何を言ったのだろうか。
払っても払っても浮かんで来る松藤のイメエジを振り切るよう、関口は勢いよく寝台から飛び降りるとコートを羽織り―――始業式に出るつもりでいたので制服は身に着けていたのである―――何処行くあても無いままに部屋を飛び出していた。
校庭を走り抜け、校門を潜って外へと走り出す。丁度来たバスに飛び乗って行き先を見ると渋谷行きで、そのまま終点まで座ったあと、これからどうしたものかと呆然と駅で立ち尽くした。
『僕は、君が―――』
あのとき―――彼を呼び止め、何を言ったのかを聞いていれば―――
否、例え彼を呼び止めたとしても、自分ごときの言葉では彼の自殺の意志は揺るがなかったであろうという、妙な確信はあった。が、同時に自分は彼が何を言ったのか、それを問い質す機会を永遠に失ってしまったのだということにも気付き、関口は何ともいえない、焦燥感のようでも、空虚感のようでもない―――何かに駆り立てられる気持ちのままに、自分自身を持て余しながら、いつまでもその場を動けずにいた。
と、目の前を阿佐ヶ谷行きのバスが横切る。
『先輩は何処で死んだの?』
『阿佐ヶ谷と高円寺の間の高架だ』
思わず関口はバスに向かって走り出していた。気付いたようにバスは止まり、関口を乗せるとそのまま北東へと向かって走り出したのだった。
* * *
どうして―――自分はこの場に来ようと思ったのだろう―――
関口はぼんやりとそう思いながら、また橋の下、電車が通り過ぎるその震動を身体に感じながら小さく溜息をつく。
誰が備えたかわからない花が、関口が佇んでいるところから数メートル先に置かれていた。松藤はそこから飛び降りたのかもしれない。
とてもその場に立つ勇気をもてず、それでも数メートル離れたその場から離れることも出来ず―――関口がまた一つ小さく溜息をついたそのとき
「一高の生徒さん?」
低い、よく響く声が関口の背後から聞こえて来、関口ははっとしてその方を振り返った。
「……はい……?」小さな声で答えながら、話し掛けてきた人物のいでたちを、相手が不快に思わぬ程度にちらちらと見やる。
その場に佇んでいたのは、年の頃は二十代半ば、だろうか、どちらかというと痩せぎすな、長身の男だった。仕立てのよい黒っぽいスーツを身にまとい、強風に乱れる髪を押さえながら関口に微笑みかけているその顔は、驚くほどに整っており、思わず関口はその美貌に見惚れる。
「君も一高なの?」その男はもう一度そう関口にそう尋ねると、美しい黒い瞳を細めてまたにっこりと微笑んだ。関口は無言で頷きながらも、今度は彼が肩に担いでいる大きな百合の花束へとその視線を向けてしまっていた。
百合の香りが一面に漂う。
「友だち?」関口の視線に気付いて男はその花束をゆっくりと身体の前に持ってくると眼で数メートル先、松藤が飛び降りたと思われる場所を示しながらそう小首を傾げる。
「……いえ……はい……」百合の香りがまた一段と濃厚に漂い、関口の鼻腔を刺激する。何故だか酷く頭がぼんやりとしてしまい、目の前の美しい男の一挙一動をただ眼で追うことしか出来なくなった関口に、男はつ、と歩み寄ると
「友だちが死んだ理由(わけ)を知りたいかい?」とその身体を抱き締めるようにして耳元にそんな驚くべき言葉を囁いてきた。
「…え?」思わず身体を引こうとする関口の背を、男は手にしていた花束ごと抱き締めるようにすると
「危ないよ」と笑いを含んだ声でそう囁く。
丁度そのとき、また彼らの下を電車が通り抜けていき、その轟音とともに、いつまでも消えぬ震動を関口の脚に、手摺を背にした関口の背に伝えていった。
関口は呆然と自分を抱きかかえるその男の眼を見返し―――やがてその意識を失っていった。

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