大団円
運転手は心配そうな顔をして玄関で待機していたが、四人の姿を認めると心底ほっとしたように顔をほころばせた。
外国車とはいえ、四人で乗るのは多少キツかったが、そのまま車は一高の寮へと向かった。まずは混乱している関口を休ませ―――というよりまず彼に服を着せるためと、負傷している中禅寺を送り届けるためであった。
まだ授業が続いていた為に、今度も誰にも見咎められることなく彼らは寮の、中禅寺と関口の相部屋へと入ることが出来た。関口に寝巻きを着せまずは彼を寝台へと放り込むと、彼らはそのまま榎木津の一人部屋へと場所を移した。何も知らない関口をこれ以上混乱させたくなかった為である。
榎木津が一人部屋を与えられていたのは、別にその家柄によるものなどでは勿論なく、単に寮長の職務についていたからだったが、専らその諸雑務は中禅寺が代わりにこなしてやっているようなものであった。中禅寺は自分の部屋を出るときに、松藤が関口に渡したという『車輪の下』をその手に抱えて来た。先ほどより彼の脚は随分腫れてはいたが、榎木津は総一郎がかわるがわるに「大丈夫か」と尋ねると、たいしたことはない、と憮然としたような表情で愛想なく二人にそう答えた。
「……で?」
最初に口を開いたのは榎木津だった。中禅寺と総一郎はそんな彼を見やると、何?というように僅かに目を見開く。
「何故、松藤は北大路の弟の書いた遺書を、自分の遺書に同封したんだ?何故、その遺書をこんなわかりにくい場所に隠した挙句、サルに手渡したりなんぞしたんだ?」
当然の疑問であった。松藤自身が亡き今となっては、憶測にしか過ぎない。中禅寺はそう断りながらも
「きっと松藤先輩は、図書館で借りたこの本に挟まれた紙片を偶然見つけたのだろう」
と彼の考えを語り始めた。総一郎も、榎木津も、彼がその低いよく通る声で語る、彼の思う『真相』に無言のまま耳を傾けていた。
「あれは――筆跡からして、北大路直哉が、総一郎さんへの思いを綴った詩なのだろう。松藤先輩はそれを読んで、自分が榎さんに憧れる気持ちそのままをその詩になぞり、同調するものを感じたんじゃないだろうか。そのうちに彼は北大路優の手に落ち、売春まがいの、といおうか、売春そのものを自らの意志に関わらずやらされるようになった。それが学校に知れるにあたってついに自殺を覚悟したとき、詩と同じく挟まっていたその遺書のことを松藤は思い出した。読み返すだに、それはそのときの彼の気持ちをまさに語っているような気がして―――またもや彼は北大路直哉の書いたその遺書に同調し、自分の書いた遺書にそれを同封すると、再び本へと挟んだ。あんな風に手の込んだ隠し方をしたのは、彼が―――いや、直哉がその遺書に書いていた通り、自分の身に起こったことを、愛するあんたにだけは知られたくなかったからだと思う。それでも、確実にあんたに悪意を持っている男の存在を知らせなければいけないという義務感もあり、隠したあとにその本を関口君へと託したのだろう」
何時の間にか、中禅寺は榎木津に向かって話していた。榎木津は黙って聞いていたが、そこで初めて
「何故、セキだったんだ?寮内にはまだあまり学生が戻ってきていなかったからか?」と口を挟んだ。中禅寺は少し複雑な表情を見せると、小さく溜息をつき
「松藤先輩は……関口君が羨ましかったんだろう」と軽く首を傾げるような素振りをしながらそう言った。
「羨ましい?」意外そうな榎木津に
「ああ。あんたは何かというと関口君を構う。見たところ何の取り得もなく、どちらかというと周囲からは劣った存在だと思われているにも関わらず、あんたに妙に気に入られている関口君を、松藤先輩はきっと羨んでいたんだろうと思う」
良く知り合えば、関口君のよさは知れるんですがね、と中禅寺はそこで言い訳めいたことを総一郎に向かって言い足した。
「構う…構うか?」構うんなら、お前のほうを構ってるじゃないか、と榎木津が納得いかないようにそう言うのを
「構われた挙句に仕事を押し付けられている僕のことは誰も羨んだりしないのさ」と中禅寺は憮然としながらそう答え、いい加減にしてもらいたいものだ、とこれを機会にとでもいうようにクレエムを続けようとするのを
「いいから、続きを話せ」と榎木津は簡単に遮って、それで?と彼の顔を覗き込んだ。
「……まったく…」あきれたように溜息をつきながら、中禅寺は
「続きといっても……松藤先輩は、関口君にこの本を渡せば、これがいつの日にかあんたの許に渡ると思ったんだろう。最後に恨み言のひとつも言ったかもしれない。恨み言、というのは違うな。ジェラシーから彼は関口君に何か言葉を残し、それを気にした彼が、松藤先輩が死んだ場所を訪れ――それからは僕達が見聞きした通りだ」
とここまで語ると、ふと手にした本を眺め
「……松藤先輩は、昔一高の生徒があの高架から飛び降りたことを何処からか聞いて知っていたのかもしれない。彼は、自分が見つけた遺書がその学生の書いたものではないかと想像し、その思いに同調するあまり、同じ場所から飛び降りたのかもしれない。―――確証は何も無いが――」と顔をあげると、その本を総一郎の方へと差し出した。
「……」総一郎は無言でその本を開くと、ぱらぱらとその頁を捲る。
「北大路優は榎さんに…そして総一郎さんに、何らかの危害を加えようと企んでいた。その計画をこうして我々に知らししめたのが、この本……直哉さんが総一郎さんへの思いを託したこの本だったというのは……偶然、と片付けることは出来ない、『何か』を感じずにはいられないよ…」
中禅寺はそんな彼の姿を見ながら、およそリアリストの彼らしくないことをぽつりとそう呟いた。総一郎の手がある頁でぴたりと止まる。
「……あのとき……彼を受け入れることの出来なかった僕が……全て悪いのだろう」
その本の頁を愛しそうになぞりながら、総一郎は固く目を閉じ、そう呟くと頭を垂れた。中禅寺はそんな彼の指先へと眼を落とす。
Ich liebe Dich
青いインクでその行間に書かれた繊細な文字―――
「それでも彼は―――あなたが好きだと書き残したじゃありませんか」
中禅寺はそう言うと、総一郎の手からその本を取り上げ、ぱたり、と自分の膝の上でそれを閉じた。
「そして―――彼の遺書が、こうして榎さんを……あなたを救ったんじゃないですか」
「そのとウりっ」
行き成り榎木津がそう大きな声を出したものだから、中禅寺と総一郎は唖然としてそんな彼の方を見やった。
「サルは無事、中禅寺は負傷したがやはり無事、そして勿論僕はこうして無事だ」
陽気なまでの彼のその物言いに、かえって中禅寺は榎木津のやりきれぬ思いを見たような気がして、僅かに眉を顰め、彼の顔を見上げる。
「なんだ?」小首を傾げるようにしてそう問い返す榎木津に
「松藤先輩が死んだのは、あんたのせいなんかじゃない」とぼそりと中禅寺が答えると、
「……馬鹿」とその頭を軽く小突いて榎木津は俯き、小さく笑った。
終わったな、と中禅寺は無言でそんな榎木津の顔を見上げる。
「脚、大丈夫なのか?」と、思い出したように榎木津がそう中禅寺に問い掛けてきた。
「……大丈夫だ」何の保証もなかったが―――その上、無理をしたためか先ほどからじんじんとその痛みは増してきていたのだったが、中禅寺は無愛想にそう答えると、そろそろ部屋に戻るよ、と二人に告げ立ち上がろうとした。
「無理するな…そうだっ」心配そうに手を貸してやろうとしながら、榎木津がいいことを思いついた、というように大声を上げた。
「なに?」一抹の不安を抱えつつ、一応中禅寺がそう尋ね返してやる。
「脚が治るまで、一緒にウチで静養しよう!セキも連れて、三人で…どうだ?」
お抱えの医者がいるからな、治りが早いぞ?と自分の思いついた名案に浮かれる榎木津に向かって、
「駄目!絶対にそれは駄目!」と思わず中禅寺は叫ぶと、何とかしてくれ、というように総一郎の顔を見上げる。総一郎は、ああ、とその「理由」に思いあたって、中禅寺を見返すと、この部屋に入ってから初めて明るい笑い声をあげた。
「なんでだ?」名案をけなされ不満そうに口を尖らす榎木津に
「あんたの家じゃ、僕は……」と言いかけたが、とても口に出す気にはなれず、中禅寺は
「駄目っていったら駄目なんだ」と言い捨てると、もういいから部屋に返してくれ、と榎木津を睨む。
「いいじゃないか。父も君とまた会うのを楽しみにしているんだし」横から総一郎にまでそう口を出され
「行かないっていったら行きません!」と中禅寺は叫ぶと、何故だ、いいじゃないかとしつこく食い下がる榎木津と、純粋に面白がってる総一郎を睨みつけ、もういい、というように座っていた榎木津の寝台の上に突っ伏したのだった。
後に―――北大路優が海外へとその居住を移したというニュースを、中禅寺は総一郎より聞いた。
松藤の売春の噂は誰の口の端に上ることもなく、突発的な自殺として語られ、彼の名誉を傷つける者が現れ出ることはなかった。
関口はあれから随分ぼうっとしていたが、自分の身に起こったことは何一つ覚えておらず、松藤の自殺が校内で語られなくなる頃にはもう前の元気を取り戻し、相変わらず榎木津におもちゃにされながら、その顔をますます赤らめていた。
全てが元通りになったかのように思われるそんな日常で、榎木津が時折、彼の定席にしているあの裏庭の小高い丘の上、ぼんやりと空を見上げるその様子だけが、あの頃と違う風景だと、中禅寺は遠くからその姿を眺めた。
そして、時にはその隣に腰掛け、彼と顔を見合わせるでもなく、言葉を交わすでもなく、吹き抜ける風に身体を預け、黙って榎木津の見上げる空を同じように見上げてみたりもした。
<終>
XIへ おまけ