XI
「あの日―――何の前触れもなく寮から帰ってきた弟は、部屋に篭って私達が宥めてもすかしても何も語ろうとはしなかった」
優は部屋の中をゆっくりした歩調で歩き回りながら、愛しい思い出を語るように何処か遠い眼をして話し始めた。総一郎は耐え切れぬような表情を見せたあと、両手にその顔を埋めてしまった。
「弟は随分僕になついていたから―――僕には何でも打ち明けてくれていたから―――そう思って私は随分しつこく彼に、学校で何があったのかと問い質した。彼はなかなか喋ろうとはしなかったが、やがてその目に涙を浮かべながら、その日あった出来事を話してくれた」
『君なんか知らない』
中禅寺の頭に、総一郎の苦しげなあの呟きが甦る。
「弟は君を恨んでいた。必死の思いで告白したにもかかわらず、汚らわしいものを見るように見、全てを拒絶した君の―――榎木津君、君のことを酷く恨んでいたよ」
殆ど叫ぶような大声で、優は総一郎を指差しそう言った。総一郎は両手に顔を埋めたまま、何をも話せずその場に蹲るようにして座り続けている。
「翌朝、弟は私の知らぬうちに家を抜け出し、あの高架から飛び降りた。君への恨みを胸に、拒絶された悲しみに耐えられずに―――さぞ痛かっただろう。弟の身体は千切れてあちこちに散ばった。ばらばらになったその手を、脚を、身体を―――私がどんな思いで見たか、君にはわかるか?何故か顔だけは、眠るように綺麗な状態のまま、切れ切れの身体をそれなりに並べられた警察の霊安室で、私がどんな思いで弟に縋りついたか……君にわかるか?」
優の頬は益々紅潮し、その瞳は怖いくらいに煌いていた。上擦る声でそう叫びながら、彼は蹲る総一郎の肩に手をかけ、激しく二、三度揺すぶると勢い良く彼をソファへと突き倒した。
「君は葬式にも来なかったね。とても来ることが出来なかったんだろう。そんな卑怯な君なんぞに惹かれた直哉は本当に哀れだ」
「やめろっ…」思わず庇うように中禅寺が彼の身体を支えようとするのを冷笑するように見下すと、優は言葉を続けた。
「弟を亡くした悲しみから少しでも逃れたくて私は海外に渡った。五年、私は彼を亡くした悲しみをこの胸で飼い殺すことに漸く慣れることが出来たと思っていた。が、こうして弟の思い出の溢れるこの家に帰ってきて、私は少しも彼を亡くした悲しみが癒えていないことを痛いほどに思い知らされた。考えてみれば当たり前だ。この世にたった一人の弟を殺されたようなものなのだからね」
優は室内を歩き回りながら何かに憑かれたように喋りつづけている。中禅寺はそんな彼の姿を、声を黙って受け止めることしか出来なかった。
「そんな私の耳に、君の――弟を死に追いやった君の弟が、今、一高に通っているという噂が飛び込んできた。君同様、いや、それ以上に一高で帝王のように君臨しているらしいとね。何かのついでにと立ち寄った学校で私は君の弟を見つけた。君と良く似た彼の姿を見ているうちに―――ひとときも忘れたことのない、弟の恨みがふつふつと私の心に甦ってきたんだ。……弟の直哉はこの世にはいないというのに、君の弟はこうしてまた君のように、堂々と学内を肩で風を切るようにして歩いている。こんな不公平なことがあるか?そのとき、私は君に――君の弟にも、私と同じ思いをさせてやろうと心に決めたんだ」
「同じ思い――?」中禅寺の口から思わず言葉が漏れる。
「そう、同じ思いだ。私は榎木津の弟に懸想している少年を探した。あまりにも簡単に見つかったことにまず驚き、彼を死に至らしめることがあまりにも容易かったことにも驚いたよ。だが、あの少年だけでは彼の弟を追い詰めるには足りないような気がして、私は次の犠牲者を――彼の弟を悔恨のあまり死に追いやる為の犠牲者を探しにまたあの高架へと行った。難なく次なる少年を手に出来たのはよかったが、まさかこうして私の存在に気付いて追って来るとは思わなかった。とんだ計算違いだったが、結果として一緒だ。こうして彼の罪を彼の弟へと知らしめ、彼に私と同じ思いをさせるために、彼の目の前でその弟を――」
「殺すとでも言うのか?」思わず鋭い口調で口を挟んだ中禅寺を、優は射るような眼で睨むと叫んだ。
「当然だろう?直哉は――弟はこの、榎木津のせいで死んだんだ!彼への恨みを胸に、遺書も残さず一人寂しく死んでいったんだぞ?何故私が同じ思いを彼に味合わせてはいけない?たった一人の弟を亡くす悲しみを、私の弟の命を奪ったその張本人に―――」
「待てっ」
優の興奮した怒声を遮ったのは、低いがよく響く中禅寺の一声だった。思わず総一郎も顔を上げ、そんな彼の顔を見上げる。
中禅寺はゆっくりと立ち上がると、燃えるような眼で彼を睨みつけていた優を真っ直ぐに見返し、やがて口を開いた。
「遺書は――ある」
「なに……?」
驚愕に眼を見開く優の顔に、はじめて人間らしい歪みが生じるのと、総一郎が思い出したかのようにポケットから遺書の封筒を出すのが同時だった。中禅寺は総一郎の手から遺書を取り上げると手早くそれを開き、
「これだ」と優へと突きつけた。優は震える手でそれを受け取ると
「うそだ……」と小さく何度も呟きながら読み始める。
「あなたの話を聞きながら、僕はどうしようもない違和感を感じずにはいられなかった。それが遺書であるのなら―――そして、宛先がここにいる榎木津総一郎さんであるのなら、あなたの弟は―――北大路直哉は、彼を恨んでなどいない。恨む記述など何処にも無い。最後の一文を見ればあんたにだってわかるだろう」
一言一言を噛んで含めるようにはっきりした口調で中禅寺は語る。遺書はあの言葉で締め括られている筈であった。
『あなたのことが好きでした』
「これは……何処に?」何処か呆然とした様子で、優は遺書から眼を上げずにそう中禅寺に尋ねた。
「本の間だ。松藤先輩の遺書に同封して隠してあった」
「本?」ゆるゆると視線を上げ、優が漸く中禅寺の方を見やる。と、そのとき、傍らでやはり呆然と彼の語るのを聞いていた総一郎が口を開いた。
「ヘッセの『車輪の下』―――彼が死ぬ直前、授業の課題で使っていた本だ。僕と二人組んで共に辞書をひき………」総一郎が本の頁を捲りながら感慨に耽っていたのはその為か、と中禅寺は納得しながら、また言葉を続けた。
「遺書はあった。それを挟んだ本は図書館の本であったから、あなたは気付かずにそれを学校へと返却してしまったんだろう。その遺書を読んでおかしいと思わないか?あなたは弟さんが総一郎さんを恨んでいると言った。彼を恨んで死んでいったのだと言った。が、その遺書からは彼への恨みは微塵にも感じられない。あるのは彼への謝罪と自分の身を責める後悔ばかりだ。一体彼の身になにがあったというんだ?本当に彼は、あなたに全てを告白して死んでいったのか?」
「煩いっ」
優は手の中の遺書を破り捨てようとした。が、一瞬早く総一郎が彼に駆けより、その手から遺書を取り上げ自分の内ポケットへと仕舞おうとした。その手を捕らえようと優は彼へと飛び掛って行き、弾みで二人して床へと倒れ込むと互いの襟首をつかみ合うようにしてごろごろと床の上を転がってゆく。
「やめろっ」加勢しようにも痛む足を引き摺ってでは彼らに近寄ることも出来ず、そう叫ぶだけの中禅寺の目の前で、総一郎の上に馬乗りになった優がその右手からかの遺書を取り上げようとしたそのとき―――
ダンっと物凄い音が背後から響き、驚いた皆の視線が一点へと集まった。彼らの眼に飛び込んで来たのは、蝶番が外れてだらしなく下がる納戸の戸と、勢い余って飛び出してきた二つの人影―――
「榎さんっ」
最初に我に返ったのは中禅寺だった。その名を呼ぶと,榎木津はにやりと笑って立ち上がり
「無事で何より」と言うと、傍らでわけのわからぬ顔をしながら辺りを見回している関口の頭を小突いて立ち上がらせた。
「それはこっちの台詞だ」あからさまにほっとした表情をその顔に浮かべながら中禅寺は微笑むと、傍らの関口を見やり
「関口君も無事か」とおどおどとした所作で立ち上がる友へと声をかける。
「ぶ、無事って…僕は一体?」言いながら自分が裸の上に榎木津の上着をひっかけているだけだということに改めて気付いたようで、泣き出しそうな顔をしながら、一体何が、と口の中でぶつぶつと呟いている彼の背を、榎木津は軽く叩きながら
「漸くセキが目覚めてくれたおかげで、二人力を合わせてなんとか戸を蹴破ることが出来たんだ。よく頑張ったぞ」とその背を強く押して中禅寺の方へと行くように促す。
よろよろと関口が中禅寺の方へと歩いていくのを見届けると、彼らの登場に争いを忘れたように動きを止めていた縺れ合う二人の方へと榎木津は大股に歩みより、兄の上に馬乗りになっていた優の襟首を掴むと無理矢理立ち上がらせた。
「何をするっ」そして正面から彼の顔を見据えると、眼を細めてその背後を――頭の上あたりをじっと見つめる。
「離せ」身体を捩って榎木津の手から逃れた優が、やはり憎しみに燃える眼で彼の顔を見返すのに、榎木津はその端正な顔を歪めて
「お前が殺したんじゃないか」
と吐き捨てるように言い放った。
「え?」立ち上がりながら総一郎が、そして中禅寺が、関口までもが、優の方を見る。
「何を言う!」
怒りで顔を紅潮させながら、歪んだ顔のまま優がそう殴りかかろうとするのを交わしながら、榎木津は彼の目の前に指を突きつけ
「お前が嫌がるお前の弟を、この家で犯したんじゃないかっ」と更に大きな声で怒鳴りつけたのだった。
「なんだって?」
信じられない、というように総一郎が榎木津の背後に立ちながら優の顔を見つめる。
「うそだ……」
よろよろと後ろへと下がりながら、口の中でそう呟く優は、最早『血の通わぬ』者ではない。脂汗をその顔に滲ませながら、血走ったような目で榎木津を見つめるその姿には、今まで彼がその身に纏っていた優雅さも冷徹さも、気品も知性も何も感じられない。手負いの獣そのものに変貌した彼に向かい、榎木津はそれでも容赦なく
「嘘なものか。僕には見えるぞ?お前に無理矢理羽交い絞めにされた弟の泣き叫ぶ顔が。全裸で蹲る小さな背中が。弟は泣いて嫌がってるじゃないか。それがショックで飛び降りたんじゃあないのか?」
と彼に詰め寄りながら彼を糾弾し続けた。
「うそだ……」弱々しく首を振り尚も後ずさる彼に
「嘘ではない。彼には『見える』んだ。あなたの記憶が」と駄目押しをするように中禅寺も榎木津の横へと並ぶと、総一郎と三人で彼を囲むようにしてそう言い放つ。
「それで全てがわかった。あの遺書の意味が―――彼は、あなたの弟は、実の兄に陵辱されたことで絶望し、全てをその心に収めて自ら命を絶つことにしたのだ。死ぬ決意を固めても尚まだ気持ちを総一郎さんに残していた彼は、自分の気持ちを拒絶されたために死ぬのではないと、それだけは誤解しないようにと遺書を残し、穢されたと思った我が身を悔いて死んだのだ。あなたの弟さんを死へと追いやったのは総一郎さんなどではない。あなた自身、あなたの歪んだ行為が、繊細な弟さんをあの高架へと走らせたんじゃあないか」
「違う!」
優はその場に崩れ落ち、両手で顔を覆った。
「違う……私は……わたしはそんなつもりではなかった……」
がっくりと落とされた肩。すすり泣くような声がその口唇から漏れるのを、榎木津を真中に中禅寺と総一郎は無言のまま見下ろしていた。
「弟は……直哉は私にとってはそれこそ宝だった。彼の望むことは何でもかなえてやりたいと思っていた。この背を見ながら私と同じ道を歩もうとしている彼を誰より愛しく思っていた……あの日……何の前触れもなく彼が家へと戻って来、いつまでも部屋から出ようとしなかったあの日に―――彼から思いもよらない告白を受ける、あの時までは、この気持ちは世間一般の兄弟愛と等しいものだと……私はそう思い込んでいた……」
項垂れたままぽつぽつと、優は誰にともなく話し始めた。中禅寺が僅かによろける。榎木津がその背に腕を廻して支えると、大丈夫か、というようにちらと彼の顔を見た。小さく頷きながらも中禅寺はまた前に蹲る優へと視線を戻した。
「直哉は―――はじめ何をも語ろうとしなかった。ただ泣くばかりで、取り返しのつかないことをしてしまったと僕の肩に縋り付いて泣き続けた。僕はその背を擦りながら、辛抱強く彼が話してくれるのを待った。待った挙句に聞いたのは―――君に告白したという、あまりにも意外な言葉だった」
ゆるゆると優はその顔を上げると、真っ直ぐに総一郎を見た。総一郎もそんな彼の顔を無言のまま見返す。先に眼をそらせたのは優であった。彼は再び俯くと、話を続けた。
「……それを聞いた瞬間、私は…………わけがわからない衝動にかられた。弟が―――弟が、同性に恋をしていると…………信じられない、という気持ちと、何故だか許せないと言う気持ちが同時に芽生え、私は思い切り弟を殴り倒していた。私は何度も何度も弟を殴った。弟は私に謝りつづけながら、決して抵抗しようとはしなかった。ごめんなさい、ごめんなさいと両手を合わせて私に殴られるままになっている弟を見ているうちに―――」
優はここで言葉を途切り、嗚咽のような声を喉から絞り出した。
「…………犯したのか」
ぽつり、と呟いたのは榎木津だった。彼には『見えた』のだろう。優は更に深く項垂れながら、ああ、と小さな声で肯定した。
「わからなかった。何故自分が弟の肩を掴んで彼を立ち上がらせるのか……俯いたまま謝り続ける彼のシャツを行き成り引き裂こうと思ったのか……嫌がる彼の身体を組み敷き、その口唇を奪おうとしているのか……殴られているときは少しも抵抗しなかった彼が、私の腕の中から逃れようと必死になって抗っていた、そのことが益々私を何かへと駆り立て、私は嫌がる彼を無理矢理――――――」
「もういい……」
総一郎が彼の言葉を途中で制した。中禅寺は彼の方を見やると、彼はあの遺書を再び開き、じっとそれに見入っていた。
「…………」榎木津も横からその紙を見下ろす。
『あなたのことが好きでした』
「弟が死んだあと……私は己の行為を悔いた。悔いても悔いても追いつかぬほどの悔恨を胸に抱きながら、弟が二度と戻ってこないという現実を必死に受け入れまいとしていた。私の為した行為が――彼を死に追いやったとだけは思いたくなかった。弟の死の原因を私は他へと必死で探そうとし―――彼の思いを跳ねつけたという、君のことを思い出した。全てを君のせいにしようと……君が弟の葬儀に顔を出さなかったことも、君を恨むこの心に拍車をかけた。弟の思いを踏みにじる酷い男だと素直に思えた」
「兄さんは行こうとしていた」
ぽつり、と榎木津が口を挟んだ。え?というように優が、そして中禅寺がそんな榎木津を見やった。
「よく覚えている。前の日からやはり何故か家に帰っていた兄は高熱を出して倒れたんだ。熱を押して、学友の葬式に出ようとするのを、寝台にぐるぐる巻きに縛り付けて行かせなかったのはウチの馬鹿親父だ。人の葬式に行ってお前が死んだらどうすると、熱が下がったあとも暫く縛り付けてた、あのときだろう?」
「……ああ…」総一郎は苦々しい思いをその表情に滲ませながら小さくそう頷いた。
「北大路の死の知らせを受けたことが余程ショックだったのか…それほど自分の神経が柔だとは思わなかったが、僕はあの夜高熱を出した。父が悪性のインフルエンザと疑って僕を隔離し、家から一歩も出してもらえなかったのだ。……今となっては言い訳に過ぎないが……」
「…………」優はそんな総一郎の顔を呆然と見詰めていた。が、やがてくしゃくしゃと顔を歪めると、床に両手をついてがっくりとその頭を垂れた。
「ふ…ふふ…ふふふ…ふ…」僅かに肩を震わせながら、その口唇から漏れるのは、自嘲の笑みか、それとも己を悔いる嗚咽の声か―――
と、そのとき遠慮気味に部屋のドアが叩かれ、執事姿の男が顔を覗かせた。
「榎木津様、運転手の方がお迎えにあがりましたが……」男はそう告げると、蹲る彼の主人の姿に気付き僅かに顔色を変える。
「……帰ろう」
総一郎は弟と中禅寺、そして呆然と長椅子に座っていた関口の顔を見回し、低くそう呟いた。
「……やっぱり怪我してたか……歩けるか?」榎木津が中禅寺の脚へと眼をやりながらそう尋ねる。
「僕はいい。関口君を頼む」そう言って榎木津の背を押すと中禅寺は自力で脚を引き摺りながら歩き始めた。と、総一郎がその肩へと手をやり、何?と振り向いた彼をそのまま抱きかかえるようにすると
「帰るぞ」と半ば唖然としてそんな二人の姿を見つめていた榎木津と関口に向かってそう笑いかけた。そして
「歩けます」憮然とする中禅寺に
「無理はよくない」立っているのもつらそうだったじゃないか、と有無を言わせず、自分の歩きいいように彼の身体を抱き直すと、慇懃に頭を下げたまま扉を開き続けている執事の横をすり抜け、弟と関口を伴い北大路の屋敷をあとにしたのだった。

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