恋 情
もう少しだけ、このままでいさせてくれ
冬の海辺を二人して歩いた。
雪がちらちらと降っていた。少し荒れた海。白い波頭に雪が飲みこまれていくところを僕は初めて見た。
今朝、榎さんが僕の家を訪ねて来て、散歩に行かないか、と誘った。
寒かったから少しヘジろうかと思ったのだけど、榎さんの眼がいつもと違う光を宿しているような気がして、うん、いいよと必要以上に軽い調子で答えた。
散歩、と言いながら彼は車で来ていて、僕は外套を着る間もなく助手席へと押し込まれた。
どこへ行くんだい?と尋ねると、そうだな、と榎さんは少し考えていたようだったけれど、何も言わずに車を発進させた。
それから彼は一言も口をきかなかった。
何があったのだろう。その端正な横顔を時折ちらちらと眺めながら、僕は榎さんが何か言ってくれるのを待っていた。同時に、彼は何も言わないだろうな、ということもわかっていた。僕にはきっと彼を受けとめるだけの度量が無いと、彼は思っているに違いないから。
考えてみれば、榎さんが僕に泣きごとを言ってきたことは一度も無い。……破天荒な彼だけれども、落ち込む日が無いわけはないだろうに。
十数年の付き合いだけれど、今は身体すら重ねる間柄であるのだけれど、そういう意味では彼は僕をあてにしていないのかもしれない。そう思うことは僕にとっては可也寂しいことではあるのだけれど――。
雪がちらちらと降り始め、フロントガラスにぱちぱちとあたった。大分都心を離れてきたな、と思っていると目の前に海が開けた。ああ、海だ。と僕が小さく呟くと、榎さんは
「少し歩こうか」と車を止めたのだった。
誰もいない砂浜を、榎さんは無言で僕の前を歩いて行く。耳がちぎれるほど冷たい風が吹きつけてくる中、僕はその風に少しよろけながらも必死で榎さんのあとについていった。
榎さんの広い背中が今日は少し小さく見える。何があったんだい?尋ねたいのにどうしてもその背に声をかけることが出来なかった。
暫く二人無言で歩いていると、夏の間は海の家だったであろうあばら家の前に朽ちかけたベンチがあるところまで来た。と、榎さんは僕を振り返り、
「疲れたか?」と小さな声で尋ねた。僕が頷くと、座ろうか、とそのベンチへと腰を下ろした。榎さんはじっと海を見ている。僕も並んで座ろうとしたそのとき、榎さんが僕の身体を後ろから抱き締めてきたのだった。
「…榎さん?」いつもの力強い抱擁ではなかった。振り払おうと思えば軽く振り払えてしまえるような榎さんの腕。それだけに僕は動けなかった。本当は振り返って彼の顔を見たかった。
「榎さん?」応えのない彼に、僕がもう一度呼びかけたとき、彼は一言小さな声でこう言ったのだった。
「もう少しだけ、このままでいさせてくれ」
泣いているような声だった。勿論彼は泣いてなどいないのだろうけれど。
僕は動けなかった。彼の手に自分の手を重ねることすら出来なかった。
何故だか――涙がこみ上げて来た。
榎さんはまだ海を見ているのだろうか。それともその瞳は閉じられているのだろうか。
彼の腕のあるところだけ温かい。その温もりが彼にも届いていますように。
彼の心を少しでも和ませていてくれますように。
僕には、彼を受けとめるだけの度量がない。
こんなにも自分を情けなく思ったことはなかった。
「…ごめん」僕は呟いた。榎さんの耳に届かないように、小さな声で。
雪はだんだんと本降りになってきて、僕達の頭に、肩に降り積もってゆく。
それをはらうことすらせずに、僕は高い波が次々と砂浜へと打寄せてくるのを、いつまでもいつまでも見つめていた。
<終>