思い出の場所




君は忘れてしまっていたね


ここは――僕にとっては何処より愛すべき場所――そして何処より厭うべき場所だった。



関口はぼんやりとその身体を傍らの恋人へと預けながら、まだ川面を見ていた。
誰より愛しいはずの恋人も何も言わずに関口と同じ方向を見ているようである。
ためしに彼の顔にちらと目をやると、やはり彼は真っ直ぐに川面を見つめていて、関口の視線に気付くことはなかった。関口はまた視線を川面へと戻す。
辺りはすっかり暗くなり、もう自分が何を見つめているのかわからなくなっていた。どうしてこの場を動けないのかもわからない。
ただ彼の胸に浮かぶのは――あの日の――あの声


『一人で立てないのであれば――縋り付けばいい』


そう言って伸ばされた細い腕――


女のように華奢な手だと、そのとき関口は思ったのだった。静脈が浮き出ているような白い腕――
それなのに、崩れ落ちそうになる自分を誰より強い力で支えるであろうその手の持ち主は、関口へと手を差し伸べたままもう一度


『縋り付けばいいんだ』と繰り返したのだった。


そのとき――自分は何と答えたのだったか――
川面より吹き寄せる風はもう秋の気配を感じさせる。肌寒いような気がして己を抱き締めると、傍らより腕が伸びてきて関口の肩を抱いた。

その温かさに思わず関口は小さく息を吐き、彼を支えるその胸へと身体を預ける。

そしてふと思い出す。あのとき――差し出された腕を擦りぬけ、僕は彼の胸へと縋りつき――声が枯れるまで泣いたのだったと。

そして――

途端に記憶が曖昧になる。彼は僕を持て余し、この耳元でくどくどとことの道理を説いたのだったか、それとも僕の泣き終わるのを辛抱強く待ちながら、その骨ばった手で僕の背を撫でてくれたのだったか――



『ここは――思い出の場所なんだ――』


彼は――覚えていなかったな、と関口は過ぎし日を思い起こす。そしてその瞬間、ここは僕にとって何処よりも厭うべき場所になったのだと小さく微笑んだ。口の端にも上らないほどの僅かな笑みであったから、傍らの彼に気付かれることはなかっただろうと、何故かそのことに安堵しながら関口はまた、真っ暗な川面を見つめる。


僕を救ってくれた、あの白い手――


「寒くはないか?」囁かれたその声に、関口の意識はふと戻った。頬に当たる吐息の暖かさが逆に周囲の風の冷たさを感じさせ、関口は「大丈夫」というように頷きながらも漸く立ち上がろうと試みた。
関口の肩を抱いた彼も、関口を支えるようにゆっくりと立ち上がる。その感触の生々しさに、関口の頭の中で何かがかちりと光った。


あの日、この川辺で――


『縋り付けばいいんだ』


伸ばされた腕の白さが――縋りついた彼の胸の感触が――


『……関口君』
己の名を呼ぶその声が





がらがらと関口の中で崩れ落ちてゆく。



あのあと彼は――


否、僕は――




不意に自室の天井のいびつな模様が、関口の目の前に甦った。





あれは――夢か





何故だかとてつもなく不安な気持ちが沸き起こり、関口は己を支える愛しい男の顔を見上げる。
「どうした?」少し驚いたように彼がその美しい鳶色の瞳を見開き関口の顔を覗き込んできた。
「……どうしよう」関口は――泣き笑いのような表情を浮かべ、彼を――榎木津を見返す。



夢――


全てが――夢?



それなのに何故自分がこの場所にいるのか、関口は激しく混乱した。
そして――何故彼は――夢の中でその白い腕を伸ばしてくれた彼はこの場にやってきたのかと――あれも夢かと、関口は榎木津の腕に強い力で縋りつく。
「…おい?」美しい眉を寄せながらも榎木津はしっかりと関口を抱き締め、幼子をあやすかのようにその背を優しく摩ってくれた。
そのあまりにも心地よい感触に、関口の脳裏にまたあの日の夢が甦る。


こんな暖かさは確かにあのとき感じることはなかったと――



夢、か――



「榎さん」ぼんやりとした頭のまま、関口はその名を呼んだ。
「何だ?」何処までも優し気な榎木津の声――
「どうして…ここに…?」榎木津が何故この場所を知り得たのだろう。彼は人の夢の中の風景をも見通すことが出来るというのだろうか。関口はその理由を――確固たるその理由を求めた。「彼」がこの場を知り得た理由を得たいが為に――
「雪ちゃんに……聞いたのさ」己の心を見透かしたように――否、その事実自体の切なさゆえか、何処か傷ついたような声で榎木津がそう呟くように応えてくれる。まだ家に戻らないかと関口の家に電話を架けたときに、応対に出た彼の妻がこの場所を告げてくれたのだという。
『タツさんは…あの人は何か考え事をしたいときに、よくあの川辺でぼんやりしているようですよ』
淡々とそう続けながらも、榎木津の表情に苦々しい色が見え隠れするのは、自分にはわかり得なかった関口の「その場所」を妻である彼女が知っていたという事実が彼を傷つけた為だろう。そのことに気付きながらも、妻にまで知れるほどに自分がこの場所を何かにつれ訪れていたという事実に関口は半ば愕然としていた。

それほどまでにこの場所は――僕にとっては特別の場所である筈なのに――


『縋りつけばいい』



その全てが――夢、なのか――



不意に涙がこみ上げて来て、関口は榎木津の胸に顔を埋めた。じっと己を見下ろしている彼の視線を痛いほどに感じながら、関口はそれでもこみ上げる嗚咽の声を抑えることが出来ず、榎木津の胸のなかで激しく泣きじゃくった。


どうして自分が泣いているのか――関口にはわからなかった。
それでも、自分のその行為があの日――何にも替え難い思い出として捉えていたあの夢の行為に重なることをぼんやりと何処かで意識しながら、関口は声を上げて泣きつづけた。


声が枯れるまで――泣かなければいけないような気がしていた。


『僕に…縋り付けばいい』


榎木津の体温はあまりにも暖かく、己の背に廻る腕はあまりにも優しく、この耳に囁く声はあまりにも甘く――

それでも関口の頭に浮かぶのは、あの細い――血管が浮くほどに白い腕――

現実には決して伸ばされたことのない、幻のあの腕――


偽りでしかなかったこの場所――幻でしかなかった思い出のこの場所を、きっと自分は何より厭い、そして何より愛しく思い出すのだろう。
激しく泣きじゃくりながら、あたかも夢で見たあの日の光景をなぞるかのような行為を続ける自分の卑怯さを関口は厭いながらも益々強い力で榎木津の胸へと縋りついていった。
この暖かな胸の持ち主が己の思いに気付かぬことを何よりも祈りながら、関口はいつまでも――それこそ声の枯れるまで、彼の胸の中で泣き続けた。

<終>