過 信




「あなた。榎木津さんからお電話よ」
千鶴子が座敷に顔を覗かせながらそう知らせてくれた時、彼女の微妙な表情から中禅寺は何となく嫌な予感を以ちつつ受話器を手にとった。
「もしもし」問いかけたが電話の向こうからは何も聞こえて来ない。
「榎さん?」名を呼んでも反応がないので中禅寺が諦めて電話を切ろうとしたとき、
「セキは...」
くぐもったような小さな声が置きかけた受話器の向こうから聞こえてきて、中禅寺は慌ててそれを耳に戻すと
「もしもし?」と大きな声でまた呼びかけた。
「セキは...来ていないか」
榎木津は半分呂律のまわらない口調でそう言うと
「来ていない…来ていないよな」と語尾を笑いで掻き消すような調子でそう続ける。
「酔っているのか?」千鶴子の表情もそこから来ているのだろう。榎木津がここまで泥酔して電話をしてきたことなどいまだかつてなかった。酔ってないさと何処か壊れたように榎木津は受話器の向こうで笑うと
「すまん。忘れてくれ」と電話を切ろうとした。
「関口君なら来ているよ」
何故そんな嘘を言う気になったのか――
受話器の向こうで榎木津が息を呑んだのがわかった。暫し二人何をも語らず、互いの呼吸する音だけに耳を澄ます。沈黙に先に耐えられなくなったのは中禅寺だった。
「…嘘だよ。一体何があった?」
榎木津が受話器の向こうで低く笑い始めた。中禅寺はじっとその声に耳を澄ます。ひとしきり笑った後、初めて自分が電話をしていたことに気付いたように榎木津は「すまない」と一言謝ると、セキがそっちへ行ったら宜しく伝えてくれと受話器にむかって囁くようにそう言って一方的に電話を切った。

「あなた?」後から千鶴子が問いかける。
「…ちょっと出てくるよ」中禅寺は半身だけ彼女の方へと振り返るとそう告げて玄関へと向かった。
「…神保町へいらっしゃるの?」珍しく千鶴子が彼の行き先を尋ねる。
「…いや…近所だ。夕飯までには戻るさ」と中禅寺はこれもまた珍しく千鶴子へと微笑を返し、それじゃあと引き戸を開けて外へ出た。
夕闇が迫る。――ああは言ったが夕食までに戻るのは無理かもしれないと中禅寺は思い、目眩坂を降りきると丁度来合わせた車(タクシー)に手を上げた。行き先を聞かれ、中禅寺は一瞬考えた後、高円寺の外れにある、川沿いのとある公園の名を告げた。

どうしてそこに「彼」がいると思ったのか――

確信は勿論なかった。それでも――車を適当なところで止め、公園内を通り抜けながら善福寺川のほとりまで足を進めるにつれ、自分の目の前に思い描いた通りに現れた「彼」の貧相な背中を認めるにあたり、中禅寺は誰ともなく感じた酷い苛つきを抑えるように深く息を吐いた。
その背中は、中禅寺が可也近づくまで少しも動くことはなかった。ぼんやりと川面を見つめているだろう「彼」が見ているものは何なのか――中禅寺は暫く無言で少し離れたところからじっと「彼」の背を見つめ続けた。

ここは――思い出の場所なんだ――

関口が、何ともいえないような――何処か嬉しげな、そして何故か泣き出しそうな顔で、ぽつりとそう呟いたのは――春

青葉がその芽を吹き始めたこの公園をいつもの通り散歩しながら、一体彼は何を思ったのか不意にそう囁いたのだった。『え?』と聞き返すと関口はなんでもないよとその頬を赤らめ首を竦めて、川面へとまた視線を移したのだったが――

その『思い出』には――きっとあの男が――電話をかけてきたあの男が関与しているのだろう。
あのとき関口はいつまでも――それこそ中禅寺が「そろそろ戻ろう」と声をかけるまで、じっと川面を見つめ続けていた。彼はそこに何を見ていたのだろうか。そして今、彼は同じ場所で一体何を見つめているのだろうか――

「…関口君」小さな声でその背に呼びかけると、びくりと彼は身体を震わせ――中禅寺の方を振り返った。
「……京極堂・・・・・・」ぼんやりとした眼差しのまま、関口は口の中でぼそぼそと呟くように、どうして君が…と言って下を向く。
「……何を見てるんだい」その問いには答えず、中禅寺はゆっくりと関口に近付くと、その隣に腰を下ろした。
「……京極堂・・・」関口はまたその名を呼んだが、もう彼のことは見てはいなかった。すっかり陽も落ちて暗くなりつつある川面へとまた視線を戻し、小さく溜息をつく。彼の身体からアルコホルの匂いが立ち昇っていることに中禅寺は気付いた。神保町で飲んできたのだろうか――二人は――何か諍いでもして、それで関口は「彼」のもとを飛び出した――横目でちらと見た関口のシャツは、だらしなく乱れているようにも見える。いつもは襟元まできっちりと止められているそのボタンが、胸元が深く覗けるほどに外されていた。
その襟の影になっている部分に、若しや榎木津の残した痕があるやもしれない――そんな考えが不意に中禅寺の頭に浮かぶ。関口の噛み締める口唇には血が滲んでいるやもしれない――実際彼は口唇など噛み締めてはいなかったし、風に揺れるそのシャツの下にも情欲の痕跡など少しも見られないのかもしれないのだけれど――馬鹿馬鹿しいと、中禅寺は軽く頭をふってそれらの考えから逃れようと試みた。
関口はそんな中禅寺をまたぼんやりと見やると、不意に
「……言葉は…儚いね」と乱暴とも思える口調でそう言い放った。
「…関口君?」いつにないその口調の強さに、中禅寺は思わずその名を呼ぶ。
「君は言葉を操るから……言葉は君の味方なのかもしれないけれど…僕には言葉は暴力しか運んでこない…それなのにそれはあまりにも儚くて…僕を殴ったかと思うとあっという間に消え去ってしまうんだ」
関口は随分酔っているようだった。彼は何かに怒りをぶつけるように見え――その全てが彼の内面に跳ねかえって酷く彼を傷つけているようにも見えた。
「君も――言葉を生業にしているじゃないか」
自分の冷静な物言いがまた彼を激昂させるかとも思いながら中禅寺が口にしたその言葉に、逆に関口は不意にがくりと肩を落とし、その顔を膝へと伏せてしまった。
「…関口君…」中禅寺はそっと自身の手を関口の背中へと伸ばす。
「……言葉は…意地悪だ…」関口は泣いているのだろうか――彼のくぐもった声に、榎木津の電話の声が重なる。


『セキが来たら…宜しく伝えてくれ』


中禅寺の伸び掛けた手が、宙に止まった。


「……言葉は確かに恐ろしい…でも、言葉にしなければ何もはじまらないよ」


他人の声のように――中禅寺は自分の声が川面へと流れていくのを聞いた。

関口がゆっくりと顔を上げる。
「……始まらない…?」
その頬に涙の跡を期待していなかったといえば嘘になる――中禅寺は痛々しいものを見るのを避けたいような、それでも敢えて確めたいような、そんな思いで彼の顔を見つめた。


関口の頬は――乾いていた。


「言葉にしなければ――何もわからないよ」
何故か中禅寺の胸は詰まり、今度は彼の方が乱暴とも思える口調で関口にそう言い捨てていた。

「……そうだね…」

関口は何故か、顔を歪めるようにして小さく微笑むと、一言そう呟いてまた何も見えない川面へと視線を戻した。

「一体何があったんだい?」静かな声で中禅寺がそう問いかける。
「……何も……」関口は――答えなかった。

言葉にしなければ何もわからないと――それを認めながらも――彼は中禅寺には何も語らなかった。


彼はもう――


もう――自分の手を欲してはいないのだろう。


榎木津も――そして自分も、過信していたのだ。
関口の救いの場は――他の何処でもない、己の――この胸にあると――

でも実際はどうだろう。何があったかは知る術もないが――そして敢えて知りたくも無いが――傷ついた関口が訪れたのは中野の我が家ではなく、この川辺――中禅寺ではない「誰か」との思い出を共有しているこの場だった。
関口の手は――もう自分へは伸ばされてはいないのだ。


『……何も……』


関口はもう――自分の前で泣くことはない。やりきれぬ思いをぶつけては来ても、もう自分の言葉で救われることもない――




『セキが来たら…宜しく伝えてくれ』



もう――彼は僕の元へは来ないよ



中禅寺も関口の視線を追い、黒い川面へと目をやった。
関口の見ているものは――当然ながら中禅寺の目には何も映らなかった。
替わりに彼は、幻の声を聞く。互いを思いやるあまりの諍いを――擦れ違う恋人同志の会話を、そして――

ぽちゃん、と何かが川面で撥ね、中禅寺は我にかえった。そしてふと来た方向を振返り――その影を認めると無言で立ちあがった。
「京極堂…?」その姿を目で追う様に関口もまた振返り――その人影に気付く。
「そろそろ夕食の時間だ…僕は家に帰るよ」
きっともう聞いてはいないだろう関口にそう言葉をかけると、中禅寺は徐(おもむろ)に踵をかえし、土手の方へと――彼の立つその方へと足を進めた。
関口の視線を背中に感じたが、その目は自分の背を追い越して、土手に佇む彼を見ているのだろうということは振返らなくてもわかっていた。中禅寺はすぐに土手の上に立つその男の元へと到達した。
「……京極」掠れたような声で彼に名を呼ばれ、中禅寺はふいと後を振り返るような素振りをすると
「遅かったな」とぶすりと呟く。
「お前が早いんだ」拗ねたような彼の口調――それでもその美しい鳶色の目は遠く川面へと座るその男に愛しげに注がれているに違いない。
「地の利さ…それ以上でもそれ以下でもない」
擦れ違いざま、そう言い捨てた中禅寺の腕を、不意に彼が――榎木津が掴んだ。思わず顔を上げると、自分を真っ直ぐに見つめる榎木津とかっちりと目があった。
「…なんて顔をしてるんだ」
薄闇の中――榎木津の瞳が何故か光って見える。
「……あんたにだけは言われたくない」
中禅寺は榎木津の手を振り払い、そのまま駆けるようにその場を立ち去った。

榎木津は当然追っては来なかった。中禅寺は空車を捜して土手沿いの道を早足で歩き続けた。こんなところに上手くタクシーが来るわけもなく、大通りまで息を切らせて走りながら、中禅寺は必死で何も考えまいとしている自分に気付き、自嘲の笑みを漏らした。
微笑みはやがて喉の奥からこみ上げる笑いになり、中禅寺は低く笑いながらひたすらに走りつづけた。

やがて――空車に手を上げそれに乗りこむと家までの道を告げる。運転手はミラー越しに中禅寺の顔を見、何か言いた気な顔をしながら何も語らず、黙々と車を走らせた。
その様子を不審気に見ながら中禅寺はふと己の頬に手をやり――自分が涙を流していることにはじめて気付く。


彼は――泣いてなどいなかったというのに


その乾いた頬をまた思い、中禅寺は両手に顔を埋めると、そのまま寝たふりをするように車窓へと身体を預けた。


<終>


あまりにも気の毒な京極堂を救え!
「レスキュー秋彦さん」ヴァージョンを読んでみる



速攻かえる