昏(くら)き薔薇
座敷で寝ていた榎木津が不意に眼を開けたものだから、何気にその顔を見下ろしていた中禅寺は視線の持って行き場を失って、彼の視線を真直ぐに受け止めざるを得なくなった。
暫しの沈黙。榎木津も中禅寺から視線を外さない。何処か緊迫した睨み合いに耐えかねて、先に目を逸らせたのは中禅寺だった。
「傷つけるなよ」榎木津の不機嫌な声が、そんな中禅寺の目線の先を追いかけ、立ちふさがるような調子で響く。
「……『見た』のか?」中禅寺は敢えて視線を逸らせたままでそう小さく呟いた。
「お前が何をしようと口を出すつもりはないが、関を傷つけることだけはこの僕が許さん」どんなに目を逸らしていても、そう言う榎木津の刺すような視線を痛いほどにその顔に感じて、中禅寺は小さく溜息をつくとあきらめたように彼に視線を戻した。
「傷つけたくて傷つけてるわけじゃないさ」
「……詭弁だ」己が傷ついたような顔をして、榎木津は中禅寺を見ていた。その表情に、中禅寺は益々追い込まれて行くような錯覚に陥り、再び彼から目を逸らせた。
「……詭弁といわれるほど、まだ何も語っちゃいない」傍らの本に手を伸ばし、適当な頁を広げる。榎木津の視線が外れたのを感じ、中禅寺はそのまま読みたくもないその本へと目を落した。
榎木津は黙って庭を見ているようだった。中禅寺の頭に昨夜の関口の肢体が浮かんだ。
昨夜、中禅寺は関口を抱いた。抱く前に千鶴子が買ってきていた薔薇で彼の背を打った。関口は――ただひたすらに痛みを求めていた。己が罪を罰する痛みを――
傷つけるのは僕が許さん
誰より傷ついているのは、目の前のこの男なのかもしれない。ふと浮かんだその思いが、中禅寺をいたたまれないような気持ちにさせ、思わず彼はぱたんと音を立てて膝の上の本を閉じていた。その音に少し驚いたように榎木津がまた中禅寺に視線を戻す。
「あんたが気にすることはない」榎木津の傷ついた顔を見たのは初めてだった。それが、ここまで自分が苛立つ理由であるかどうかは、中禅寺自身にもわかってはいなかったのだが――中禅寺は真直ぐに榎木津の瞳を見つめながらそうゆっくりと言い捨てた。
「……それは僕に口を出すなということか?」榎木津もただ真直ぐに中禅寺を見つめる。怒りの為か、少し上気している頬と潤んだような瞳の輝きに、中禅寺はこんなときであるのに暫し見惚れた。確かに彼は神であるのかもしれない。神が人並みに傷つく姿を自分は見たくないとでもいうのだろうか――そんな馬鹿馬鹿しい考えが一瞬中禅寺の頭に浮かび、それを馬鹿馬鹿しいと思う思考が彼を我に返させた。
「そうは言ってない。……関口君は望んで傷つきに来てるということさ」
出来るだけ素っ気無く言おうとしても、榎木津の痛いほどの視線に自然と声が震えそうになる。これから言うべき言葉が榎木津にどう響くのか――それを考えただけで、柄にもなく中禅寺は己が弱気になっていることに気付いて、また小さく一つ溜息をついた。
「関が…?」榎木津が美しい眉を寄せる。中禅寺はそんな彼から目線を逸らすと
「関口君は贖罪を求めてここに来る……彼の罪の意識の源がなんだかわかるかい?」
と、また榎木津の顔を見ようとして――何故か見ることが出来ずに、そのまま視線を彼の胸のあたりに落した。
榎木津は無言で中禅寺の顔を見つめているようだった。またもや訪れた静寂。中禅寺は一瞬躊躇し――やがて口を開いた。
「関口君の罪の意識の源は――あんただ。」
榎木津の頭が少し傾いだのを中禅寺は視界の片隅で捕らえながら、自分の言葉に制御がきかなくなっているのを感じていた。
「あんたに邪な想いを抱いてしまっていることに、関口君は何にも替え難い罪の意識を抱いているんだ。それを罰して欲しくて彼は僕のもとを訪れる。僕の手で傷つけられることで罪を購おうとする。……全てはあんたへの彼の…」
「やめろ」榎木津がはっきりと自分から目を逸らす。
「あんたにそんな想いを抱いてしまうことで、あんたを汚してしまうんじゃないかと関口君は…」
「やめろ」榎木津が立ち上がる。
「あんたは僕を攻めるか?あんたの気持ちを知りながら彼に何も告げなかった僕を?あんたも彼に同じ想いを抱いているということを隠して、いや、それに乗じて…」
「やめろと言っているだろう」榎木津が中禅寺の腕を掴んだ。中禅寺は息を呑んで彼を見上げる。
「……今度はお前が僕に贖罪を求めるのか」
「…………違う」中禅寺は力なく俯いた。取られた手がだらりと生気を失って榎木津の腕の中でぶら下がる。
「お前は悪くない……悪いのは僕だ」中禅寺の手を掴んだまま、榎木津がそう低く言った。その声の調子に思わず中禅寺が見上げた榎木津の顔は――やはりひどく傷ついているように見えた。
「僕を許すな」その榎木津の顔に益々追い詰められるような気持ちに陥って、思わず中禅寺は声を荒立て、榎木津の腕を振りほどこうとした。が何故か彼の手は緩められることなく、中禅寺の手首をより強い力で握り締めてくる。
「許すな…」無言で腕を締めつけてくる榎木津からまた目を逸らし、中禅寺は呟くように同じ言葉を繰り返した。
痛みが――取られた手首に感じる、榎木津から与えられる痛みが、何より自分を救ってくれるものに思え、中禅寺は思わず目を閉じた。
僕に贖罪を求めるのか
榎木津の言葉が甦る。
決して手にすることが出来ないと思っていた関口を、彼の苦しみに乗じてこの手に得てしまったことに対する罪の意識――榎木津の腕に彼を委ねることが出来なかったことに対する罪の意識を、その榎木津から与えられる痛みを以って自分は償おうとでもしているというのだろうか。
榎木津は気付いていたのかもしれない。彼の腕に尚一層力が篭められ、中禅寺はその痛みに眉を顰め、口唇を噛んだ。榎木津の腕が、言葉が、荊の蔓となって自分の身体を締め付け血を流させることを何より自分が望んでいることに愕然としながらも、中禅寺は目を閉じ、ただひたすらに榎木津が次に与えてくれる痛みを待った。
彼があの傷ついた表情(かお)をしていないことを心から祈りながら――