「行こう」不意に榎木津の口から言葉が漏れた。
「・・・・・・」中禅寺は無言で彼の目を見上げ――立ち上がった。
腕は榎木津にとられたままである。手首に食い込む榎木津の細い指の感触すら、もう感じられなくなるほど血の気が引けていた。
「あら、お出かけですの?」廊下を進む二人に、何も知らない千鶴子が台所から声をかける。
「ああ…」低く答える中禅寺の声にかぶせるように榎木津は
「千鶴ちゃん、すまないがこの馬鹿亭主を暫く借りるぞっ」と明るい声色で叫ぶと、見送りに出ようとする千鶴子を振り返ってにっこりと笑った――ようだった。
中禅寺は振り返ることが出来ず、ただ
「行ってくるよ」と呟く。
「お気をつけて」千鶴子はいつものように、何も聞かずにただそう言って、彼らを送り出してくれた。きっと微笑んでいるであろう彼女の顔を思い、中禅寺の胸は少し痛んだ。
榎木津は、中禅寺の腕を掴んだまま、眩暈坂を早足で降りてゆく。手を離してくれ、という当然の要求をするでもなく、中禅寺は榎木津の歩調に合わせるのに必死になって足を運ぶ。一体彼は今、どんな顔をしているのだろうとぼんやりと思いながら、中禅寺はいつもの習慣で自分の足元だけを見つめて歩きつづけた。
不意に榎木津の足が止まる。その背につきあたりそうになって、中禅寺ははっと顔を上げた。
「車をつかまえよう」振り返った榎木津が、いつもと寸分変わらぬ調子でそう中禅寺を見る。その鳶色の瞳が硝子のように何処か虚ろに光って見えたのは、陽の光を受けたからだけではないように中禅寺には思えた。
「・・・・・・」中禅寺が無言で頷くのを待たずに、榎木津はまたふいと前を向くと、大通り目指して歩き始める。相変わらず腕をとられたままの中禅寺はただそれにならうよりなかった。
中野から神保町は車では近い。車(タクシィ)の中でも、榎木津の腕が中禅寺の腕より離れることはなかった。まるで自分は拉致される犯罪者のようだと中禅寺はふと思い――犯した罪の重さを、榎木津の心に与えた打撃を改めて感じた。
贖罪を求めて自分に縋り付いて来た関口を、中禅寺は抱いた。関口が求める贖罪に意味のないことを知っていながら、機に乗じて彼を己のものとした。関口は罪の意識など感じる必要はなかったのだ。彼が自らの欲情の対象として選んだ相手も、同じく彼を求めていたのだということを自分は知り得ていたのにも関わらず、関口の心を救うためという大義名分のもと、彼の求めるままに彼を鞭打ち、その身体を抱いたのである。
関口が己の思いで汚すことを恐れ、己の思いを恥じ、決して当人には知られぬことを望んだ「神」もまた、関口をその手に抱きたいと思い、共に迸る悦びを謳歌することを望みながらも、彼を傷つけまいとして手を差し伸べることが出来ないでいたということを、誰よりも彼らの近くにいつづけた自分だけは知っていた。
互いを思う気持ちの強さに、いつの日にか彼らは互いを求め合い、抱きあうようになるのだろうと半ば諦め、それでも己の気持ちに愛しい者が振り向いてくれる日も来るのではないかという、望みのない夢を捨て切ることが出来ず、いつまでも彼らの傍を去ることが出来なかった自分。関口の瞳が追うのは常に神々しい光を放つがごとき榎木津の姿だけであることを、嫌になるほど見つづけてきた自分。
そんな自分の思いが、関口の身体と心を傷つけた。否、心の傷を守るために身体を引き裂いてしまった。
そんな必要はなかったというのに――己の欲望の為に、傷つけなくてもいい彼を傷つけてしまった罪はあまりにも重い。
そして、榎木津に対しては――全てを隠し切れなかったことが罪なのだ、と中禅寺は小さく溜息をついた。
関口を抱いたことを「見られた」とき、関口は自分を選んだ、と榎木津に言えばよかったのである。彼は人の記憶は見るが、心情までもは読めない。関口が自分に身体を開いたのは事実なのであるから、その「事実」のみで榎木津に、関口への思いを断ち切らせることが出来たはずであったのに、自分は榎木津に事実を知らせてしまった。
それは何故か――中禅寺の頭に、榎木津の言葉が蘇る。
僕に贖罪を求めるのか
馬鹿な、と中禅寺はうつむき、かるく頭を振った。関口が己に罰されることで救いを求めたように、今度は自分が榎木津へ罰を求めているというのか。
そんなに自分は弱い人間ではない、と中禅寺は頭を少し上げた。己を罰するのは己の手だ。それなのに、何故自分は今、榎木津のなすがままにこうして彼の事務所へ向かっているというのだろう。
急に榎木津に取られたままであった腕の痛みの感覚が中禅寺の身体に蘇り、中禅寺は軽く眉を顰めて榎木津の顔を見上げた。
「ついたぞ」ずっと前を向いたままであった榎木津が、中禅寺の視線に気づいたのか、一瞬己の方を振り返ってそう告げる。中禅寺はまた取られた腕の痛みを一瞬忘れた。
榎木津の事務所に人の気配はなかった。薄暗い部屋の中、電気もつけずに中禅寺の手を引いたまま、榎木津は自分が寝室に使っている部屋へと足を進める。
「・・・・・・一人なのか」
人目を避けて、今、自分は何をしようと、否、されようとしているのか――そんな恥辱から眼を逸らせようと中禅寺はわざと普段と変わらぬ声でそう榎木津に問い掛けた。
「和寅は実家に戻っている。マスカマは地方でくだらない調査をしてる」榎木津も普段通りの口調でそう返す。そのまま二人で寝室へと入り、ばたんと己の背中でドアが閉められた瞬間、中禅寺の心に何か――恐怖心めいた思いが過ぎった。
「痛かったか」気づけば驚くほど近いところに榎木津の顔がある。問われたのはとられたままであった腕のことだろう。中禅寺はいや、と小さく呟くと、まだ榎木津の腕の中にある自分の白い手を見つめた。
「・・・・・・どうしてついてきた」榎木津の視線を痛いほどに感じる。何を見ているのかと中禅寺は顔を上げ――ああ、彼は自分の記憶を見ているのだと察した瞬間、榎木津が中禅寺の腕を離した。
「・・・・・・」理由など――口に出来る理由などなかった。榎木津への罪の意識か、それともやはり榎木津の言う通り自分は――
「服を脱げ」
救いを求めてここを訪れたのだろうか――
榎木津の瞳に魅入られたわけではなかった。が、その眼に促されるように、榎木津に言われるがままに帯を解く自分がいた。
何故、榎木津がそんな言葉を口にしたのか、何を求めてそう言ったのか、そんなことを思い図る余裕などなかった。
いや、頭の何処かではわかっていたのかもしれない。この驚く程の既視感(デジャビュ)がどこから来るのかを――
するり、と己の着物がまるで生き物のように肩を滑って床に落ちる。榎木津が身につけていたタイをシュルリ、と音を立てて引き抜いた。
「ひざまづけ」静かな口調。中禅寺は言われるがままに榎木津の前に膝をつく。
と、タイを持ったままの榎木津の手がのびてきて、中禅寺の眼をそれで覆った。身体を硬くしながら、自分の頭の後ろでタイが結ばれるのを待つ。視力を失い、中禅寺の心に小さく芽生えていた恐怖感は少しだけその大きさを増した。肌が粟立つような思いがする。榎木津が自分の前からその身体を動かしたのがわかった。ばたん、とドアが開き、彼が部屋を出て行く音がする。
「・・・・・・?」目隠しされ、膝まづかされた体制のまま、中禅寺はじっとその耳を澄ませた。やがてまたドアの開く音がし、榎木津が自分の後ろに立ったのがわかった。
「手をついて…四つん這いに…」言われるままにその姿勢になった中禅寺の耳元で、ひゅん、と空気を切り裂く音がしたと思った瞬間、己の肌を打つ皮の音と、鋭い痛みを感じ、中禅寺は思わず口の中で小さくうめいた。
パシッ
呼吸を整える間もなく、二発目の鞭が中禅寺の背を打つ。益田か普段手にしている鞭を事務所に取りにいったのか、などと頭の何処かで妙に冷めている自分を感じ、小さく笑いそうになった中禅寺の背を、休みなく榎木津の振るう鞭が襲う。
肌が裂けるのを感じる。血が滲む、その熱さも感じる。痛みで意識が朦朧となる。
それでも中禅寺はひたすらに榎木津の下ろす次の鞭を待ちつづけた。
鞭打たれている間は――考えなければならない全ての思考が頭から消えるのだ。
かわりに頭に思い浮かぶのは、何故か自分に擦り寄る石榴の顔だったり、学生時代にすごした寮の硬いベッドの黴臭い匂いであったり、戦争中に身に付けていた白衣の袖口にいつのまにかついていた血のような染みのことだったり――あらたに鞭が振り下ろされる度に、中禅寺の頭にさまざまな画像が浮かび、瞬時消えてゆく。
榎木津の下ろされる鞭に、ある法則性を見出したのは偶然だった。朦朧とした意識の中、またもや自分を襲う驚くほどの既視感に、中禅寺はふと我に返る。
ああ、そうだ。これは――
榎木津は、自分が関口を鞭打ったその通りをなぞって、自分を鞭打ってるのだ。
気づいた瞬間、中禅寺の口から、初めて声が漏れた。痛みを訴えるようなそのうめき声は、あたかも嗚咽のように自分にも、そして鞭打つ榎木津の耳にも聞こえるのだろうと思いながら、中禅寺はまた硬く口唇を噛み締め、更に下ろされる鞭の痛みに耐えていた。
と、榎木津の鞭が不意に止んだ。あたりを静寂が埋めつくす。鞭打たれることのなくなった中禅寺は、改めて自分の背にひりつく痛みを感じ、小さく聞こえぬような声でうめいた。
榎木津が自分の後ろに膝をついたのを感じ、中禅寺は何故かまた説明のできない恐怖に煽られて、膝をついたまま前へと逃れようとした。その肩を榎木津の腕が掴む。と、その腕は少し驚いたように中禅寺の肩で一瞬止まった。
「・・・・・・京極…お前…」
榎木津は目が悪い。灯りもつけない部屋の中、ひざまづいていた自分の背ははっきりと見えなかったのだろう。
気づかれたか、と中禅寺は軽く口唇を噛んだ。
榎木津の腕が、中禅寺の肩を、背を慈愛に満ちたような優しさで以て撫でてゆく。そこには中禅寺が己の背を鞭打った傷跡が刻まれている筈であった。
関口を鞭打った、あの荊(いばら)でもって、関口を帰した後、中禅寺は己を罰するかのように、ひたすら自分の背を打ったのである。
不意に手のひらよりも暖かい温もりを背に感じ、中禅寺ははっと顔を上げた。榎木津が自分の口唇を背中の傷口へと這わせているのだ、ということに気づき、中禅寺はわけもわからず激しく抗った。
我に返ったかのように、榎木津も口唇を離したようだ。中禅寺はただ首を振って、見えぬままに身体を返し、後ろずさった。
自分には、そんな慈しみを受ける権利などないのだ――
榎木津には「このあと」、自分が関口にした「行為」が見えているはずだ。
自分は彼をこうして鞭打ったあと、うずくまるかれの背に乗り、欲情のままに猛る己自身を彼の身体へと打ち込んだのである。
榎木津は、暫く何も言わずに己を見下ろしているようだった。声は聞こえなくてもすぐ近くにいる彼の気配は感じる。と、いきなりその手が伸びてきて中禅寺の腰を捕らえ、あっという間にまた四つん這いのような形を取らされていた。手をつく暇もなかったために、床で頬が擦れる。
いきなり、だった。激痛が走った。中禅寺は思わず悲鳴をあげていた。何かが中禅寺の後ろに強い力で不意に差し込まれたのである。
痛みと恐怖から、中禅寺は思わず身体を擦り上げて逃れようとした。弾みでされていた目隠しが外れ、不意に視界が露になる。まず最初に眼に入ったのは、榎木津の足だった。綺麗に折り目のついたスーツに覆われた足。中禅寺は痛みに遠のきそうになる意識の中で、視線を上へと上らせていった。
榎木津が――少しも着衣が乱れていない榎木津が、自分を見下ろしていた。目隠しが外れたことに気づいた榎木津が、ゆっくりと近寄ってきて、中禅寺の傍らに膝をつく。
神々しい
いきなり目隠しが外れたからか、薄暗いはずの部屋の中も自棄に明るく感じたからかもしれない。そのとき、中禅寺の眼には、榎木津の周囲を照らす淡い光が確かに見えたのである。
榎木津は黙って中禅寺を見つめたまま、彼の後ろへと手を伸ばした。そのまま、勢いよく自分の後ろから引き抜かれたのは、先程まで己の背を打っていた鞭の柄であった。中禅寺の意識は、ついにそのとき加えられたその耐え切れぬ痛みの為に遠のいていった。
己を陵辱した物質を手にしながらにして、榎木津の顔が尚も神々しく輝いていることに、何処か心の中で安堵の溜息をつきながら、深く深く、中禅寺は何かに引き込まれるかのように気を失っていったのだった。
中禅寺の意識が戻ったとき、部屋には灯りがともっていた。ああ、夜なのか、と中禅寺はあたりを見回し――自分を見下ろす鳶色の瞳に気づいた。
「・・・・・・大丈夫か」その瞳の色に、心配や慈しみ以外の感情を見出せないことに中禅寺は酷くいらつくような思いがし、不機嫌に眼をそらすと、口のなかで
「大丈夫だ」と呟き、身体を起こそうとした。が、全身を覆う痛みのために半身を起こすことすらままならない。ふと目に入った床の絨毯が自分の血で汚れていることに気づき、中禅寺は
「部屋を汚してしまって…すまない」と慌てたように自分を支えるべく手を伸ばしてきた榎木津に向かって詫びた。
「…気にするな」中禅寺の言葉に少し驚いたように目を見開いたあと、榎木津は微笑むと中禅寺をまた寝台へと押し戻し
「2、3日ゆっくり寝ていけ・・・・・・その疵跡が消えるまで…」と言いながら、寝台を照らすスタンドの明かりを絞った。
「・・・・・・」中禅寺は黙って眼を閉じる。
「少し出てくる、鍵はかけていくから気にするな。ゆっくり眠れ」榎木津はそう言いながら、何事もなかったかのように、それでも普段よりは何千倍も静かな調子で部屋を出て行った。
中禅寺はなんとなく耳を澄ます。玄関を施錠する榎木津の立てる音はあまりにも静かで、中禅寺はその音を聞き終わるとそろそろと布団から己の手を抜き出し、顔を覆った。
榎木津は、きっと――関口のもとを訪れるのだろう――
不意に嗚咽の声がこみ上げてきて、中禅寺は慌てて口を押さえた。部屋には誰もいないというのに――ふとそれに気づいて苦笑しようとしたその頬を、止め処もなく涙が流れ落ちる。
何故自分が泣いているのか――そんなことを考えることすら出来ないほど、中禅寺はただひたすらに嗚咽の声を押さえ、涙を流しつづけていた。
叫び出すくらいに大声で泣けるのであれば、この胸につかえた切なき思いも何処かへ流れていくかもしれないと思いながらもどうしても声を上げることが出来ず、中禅寺は敷布に顔を埋め、肩を震わせ泣き続けた。
* * *
玄関の開き戸を叩く音が続いている。雪絵は買い物に出ているのだろうか。気づけば部屋の中がすっかり暗くなっていた。関口は小さく溜息をつくと、痛む背中を庇いながら立ち上がり、玄関へと向かった。
昨日京極堂を訪れ――その場でこの身に受けたことは、出来れば忘れてしまいたかった。どうしてあんなことになってしまったのだろう――だが、一方で関口は、自分が敢えてそれを望んで、京極堂のもとを訪れたのだということもわかっていた。
何より自分が欲していたのは、いつまでも続くこの背中の痛みであると――
そして
穢れたこの身に相応しい、穢れた行為なのであると。
それでも――関口は、眩暈坂を降りながら、何度も嘔吐を堪え、帰宅してすぐ心配する雪絵に何も言わずに布団へと潜り込んだ。
友人から与えられた屈辱的な痛みは、関口のアイデンティティを揺さぶり、ともすれば暗き深淵に彼を落としこみそうになるが、その痛みが逆に彼を此岸へとつなぎとめているという事実も、関口は同時に理解していた。
京極堂に抱かれなければ――きっと自分は狂っていたに違いない。
それほどまでに関口の劣情を煽る、あの鳶色の瞳を思い、関口はまた己の身体を抱きしめた。着衣に擦れてまた背中の疵が痛む。この痛みが、崩れ落ちそうになる彼を何とか立たせ、歩かせていてくれるという不条理。唯一関口が悔いているのは、京極堂を自分の居るところまで引きずり落としてしまったのではないかということだった。
どうして彼は何も言わずに僕を抱いたのだろうか
玄関の戸を叩く音がまた一段と高くなる。関口ははっと我に返って足を進めた。
何も考えず、引き戸を開いたその場に立っていたのは
「・・・・・・!」思わず言葉を失い、そのまま戸を閉めそうになる関口の手を、力強く制したのは榎木津であった。
夕映えの空を背に受け、その場に佇む榎木津の顔は、殆ど金色に輝き、関口はその美貌に声もなく見惚れる。
「関…」整いすぎるほどに美しいその口唇から自分の名が漏れると、途端に関口は己の卑小さを恥じ、赤面して榎木津から眼を反らせた。
「関…」榎木津がそんな関口の背に自分の腕を回す。抱き合うような格好になったことに関口は戸惑い、一体己の身に何が起こったのかと榎木津の顔を見上げた。
「愛している」
囁かれた言葉を――はじめ関口は理解出来なかった。
「愛している」
榎木津はもう一度、今まで聴いたこともない優しい声の響きを以て関口にそう囁く。関口の足が震え始めた。
「愛している。…僕にはお前しかいない」
「うそだ・・・・・・」関口は思わず榎木津の腕から逃れようと少し抗った。これは夢か。願望が見せる幻想か。彼だけは汚したくないと思いながら、僕は想像の中ではこうして彼を冒涜してしまうというのだろうか――
「嘘なもんか…お前を愛している」榎木津は関口を逃すまいと、彼を抱く腕に力を込めてきた。その力強い腕が関口の背に触れ、疵が擦れて痛みが走った。
「・・・・・・」思わず眉を顰めてその痛みに耐え――関口は漸く悟ったのである。
「榎さん・・・・・・」
夢ではないのだと。この場にいる榎木津は、己に愛を囁くこの榎木津は――
「榎さん……」
「愛している」
現実なのである、と――。
関口はゆっくりと榎木津の背に腕を回した。しっかりと自分が捕らえる榎木津の身体の暖かさが、己の心を満たしてゆく。
夢ではない、現実の榎木津が、関口にまたあの言葉を囁いた。
「愛している」
関口は黙って榎木津の肩に顔を埋める。涙が零れ落ちそうになるのを必死で堪えながら、関口は榎木津が優しく己の髪を梳くその手に頭を預け、この至福の時が永遠に続くことをひたすらに願っていた。
* * *
中禅寺が榎木津の事務所を辞したのは、彼がそこを訪れて3日の後のことだった。
あの日の夜遅く帰ってきた榎木津は何も言わなかったが、中禅寺は彼の胸から関口の匂いを感じたような気がした。
もう――僕の出る幕はない
一番最初に思い浮かんだのはそんな言葉だったが、はじめから出る幕などなかったという必然に眼を背けている自分が可笑しくなり、何となく気分も浮上した。
榎木津は甲斐甲斐しく中禅寺の世話を焼いてくれた。罪の意識からかもしれない。薬を塗られながら、その優しい手つきにまた中禅寺は傷つく思いがし、そんな自分を馬鹿だと思った。傷つくのは、これから榎木津の優しき手が触れるのは、この手に抱きたかった彼の背なのだと嫌でも実感してしまうからに他ならない。
それがあるべき姿だというのに、己の割り込みが彼らを必要以上に傷つけたと後悔すらしているのに――それでも、榎木津の手が己の背に触れる度に、中禅寺の頭に己が鞭打った関口の小さな背が浮かび、どうしようもなくやりきれない思いにさせられるのだった。
そういう理由もあり、中禅寺はまだ傷も完全に癒えてはいなかったが、千鶴子が心配しているからと、無理矢理榎木津の事務所を辞することにしたのだった。
「・・・・・・大丈夫か」珍しく玄関口まで見送りに出てきた榎木津が、心配気に中禅寺の顔を覗き込む。
「・・・・・・大丈夫さ」その鳶色の瞳の輝きに躍動するほどの「生」を感じ、羨望と嫉妬の入り混じったような気持ちを抱えながら中禅寺は小さく微笑んだ。
自分を鞭打つ彼の姿を、目隠しされた自分は見てはいない。が、どんなことをしていても、彼は堂々と、己を恥じることなく振舞いつづけるのであろう。
彼が自分を神にたとえるのは、あながち間違えではないのかもしれない。目隠しが一瞬外れたときのあの神々しいまでに輝いているように見えた、榎木津の凛々しい顔が忘れられなかった。
「・・・・・・すまなかった」そんな中禅寺の記憶を『見た』のだろうか――榎木津が低い声で詫びた。
「あんたにはかなわない…それだけだ」謝らなければならないのは自分なのかもしれない。それがわかっていながらにして、どうしても榎木津に謝罪することは出来なかった。
最後の抵抗だったのかもしれない。たとえそれが無意味だとしても、ここで謝ってしまったとしたら、二度と榎木津と同じ目線でものが見られなくなるような気がした。あの夜、中禅寺が自らを鞭打ったことに気付いた榎木津は、この背に口唇を落としてきた。その慈しむような行為は――己が背中が力一杯榎木津という「神」に自らの贖罪を求め、叫んでいたからこそ与えられた行為に他ならないであろう。その優しさに――神たる榎木津の優しさに溺れていきそうな自分が怖かった。彼に詫び、彼に許されることで、全てが昇華されるが如き自己満足に陥ることを、何より中禅寺は恐れたのである。
無言で自分を見つめる榎木津に軽く頭を下げると、中禅寺はそのまま一度も振り返らずに彼の事務所を後にした。
眩暈坂を登りながら、まだ身体が軋むような痛みに中禅寺は苦しんだ。息が切れ、珍しく『眩暈』の感覚が彼を襲う。俯いてひたすらに自分の足元を見ながら、中禅寺はこの傷を千鶴子に気づかれぬようにするにはどうしたらいいか、ぼんやりと考えながら店へのこの道を登り続けた。
額に薄く汗が滲む。疵から来るのだろうか、少し発熱しているのかもしれない。もう少しで家に着く。ふうっと大きく息を吐き、坂の上を見上げたとき――中禅寺の周囲で時が止まった。
「・・・・・・」
店の前に佇む影が、彼の姿を認め、ゆっくりと坂を降りてくる。
夢か、と中禅寺は己の身体が崩れ落ちそうになるのを必死で抱きしめて支えた。
「京極堂・・・・・・」
ゆっくりと、その影は中禅寺の目の前までその坂を降りて来る。中禅寺は信じ難いものを見るように、ただただ黙ってその顔を――誰よりも愛しいその顔を見上げ、呟いた。
「関口君…」
そして、彼の瞳の中に、あの日と同じ、影を見つける。
己に贖罪を求めるあの影を――
「京極堂」関口が中禅寺の目の前に立った。中禅寺は何も言わず、その腕を、彼が一瞬顔を顰めるほどの強い力で掴んだのだった。
<終>