Interval


『後日』



「お前は本当に馬鹿だな」
今まで寝ていたと思っていた榎木津が不意にそう言って起き上がり、中禅寺の方を見やった。
「……何の話だ」その鳶色の瞳に文字通り全てを見透かされるような気がして中禅寺は敢えて顔も上げずにそう尋ね返す。
「最近、セキが来ないな」榎木津はそういうとふいと視線を庭の方へとうつした。中禅寺は無言で手にした本を読み続ける。
「何を言った?」庭を見ながら榎木津が何でもないことを聞くような調子でそう尋ねてきた。
「・・・・・・別に」あんたには関係ない、と言おうとして中禅寺は口を閉ざした。あの日の関口の顔が不意に鮮明に彼の脳裏に蘇り、中禅寺はその残像を振り払おうと目を閉じ軽く頭を振る。
「馬鹿だよ。お前は」榎木津がゆっくりと振り返り、中禅寺を見つめた。
「馬鹿で結構」彼の目に映っているであろう己の記憶はどんな像を結んでいるのだろうか。ふとそんなことを考えながらも口をついて出た言葉はいつもにまして愛想のないもので、中禅寺は何故かそのことに安心しながらまた手にした本へと目を落とした。
「どんなに嘘をついてもお前の頭の中はセキでいっぱいだ」榎木津の口調が己を攻めるように聞こえてしまうのは何故なのだろう。
「嘘なんかついちゃあいないさ」自然と声が荒立ってくる。これでは榎木津の思う壺かもしれない、と中禅寺はつとめて冷静さを保とうと試みる。
「お前がそれでいいならいいさ」言い捨てるように榎木津はそう言うと、また庭へとその視線を移した。
なんだか彼に見捨てられてしまったような妙な喪失感が中禅寺をおそう。
「・・・・・・仕方がないじゃないか。」言い訳のような言葉が口をついて出てしまうのは何故なのだろう。榎木津は黙って庭を見つめていた。
「・・・・・・この先に何があると言うんだ」そんな彼の背中に向かって中禅寺は独り言のようにそう呟く。彼の脳裏に関口の呆然とした顔が浮かんだ。何を言われているのか分からないといった表情。どうして、という当然の問い掛けが彼から発せられることはなかった。彼は黙って中禅寺が一方的に告げた別れを受け入れた。

理由を聞かれたら、自分は何と答えるつもりだったのだろう。

日に日に彼に惹かれてゆく自分が怖かった。この先二人の前にあるのは破滅しかないように思えた。その破滅すら望んでいる己に気づいたとき、中禅寺は思わず彼に別れを告げていた。

「先のことまで考えるお前は本当に馬鹿だ」榎木津は相変わらず庭を眺めながら、静かな調子でそう言った。
「普通は考えるんだよ」中禅寺も静かにそう答え、やはり庭を眺める。
「先に何があると思った?」榎木津の静かな問い掛けは続く。
「・・・・・・それを知りたくなかったのさ」ぽつり、と中禅寺が答えたその言葉に、榎木津は
「ほんとにお前は馬鹿か!」といきなり大声を出して彼を振り返った。流石の中禅寺も驚愕して彼を見つめる。
「それなら何故はじめた?先が怖くてやめるくらいなら、最初からはじめなければいいんだ」榎木津の頬が紅潮している。鳶色の瞳がいつにも増して輝いている。中禅寺はそのあまりの美貌に圧倒され、瞬時言葉を失った。
「それでもはじめてしまったものを、お前が途中で降りてどうする?」本当に勝手な男だな、と榎木津は中禅寺を睨んで、更に続けた。
「だいたい、この先何が起こるって言うんだ?心中でもする気か?馬鹿馬鹿しい」呆然と自分を見詰める中禅寺に向かって榎木津は不意にその激しい口調を改めると
「心中したくなったら僕に言え。それこそ死ぬ気でとめてやる」と鮮やかに笑った。

「・・・・・・ご免だな」中禅寺は憎憎しくそう呟きながら、漸く榎木津から目をそらした。こみ上げる涙に震えそうになる声を必死で押さえて。
榎木津は、ふんと鼻を鳴らすと立ち上がり、縁側から庭の方へと降りていく。そこで大きく伸びをするその広い背中を見ながら、中禅寺は明日関口を訪ねる自分の姿を思った。



『夢違え』



『夢違え』…悪い夢をみたときそれが現実の災難とならないようにまじないをすること



『関口君』
庭先の植え込みの向こうに中禅寺が立っている。縁先でぼうっとしていた僕はいつの間に彼が現れたのだろうと、自分の注意力のなさにうんざりしている。
『関口君』中禅寺がもう一度僕の名を呼び、手招きをした。玄関先に回り入ってくればいいのに、と思いながら、庭履きの下駄に足をかける。

中禅寺――夏服の開襟シャツの白さが目に眩しい。

違和感に気づきはじめる。ここは雪絵と僕の家だ。それなのに何故彼はまだ学生の姿をしているというのだろう。

一歩一歩近づいてゆく。彼は僕に向かって手を伸ばし、僕の腕を掴もうとする。
つかまれる僕の腕に彼の手のもつ若さはない。くたびれてくすんだ肌。彼の白い手が陽に透けて見える。

『関口君』

中禅寺が僕の目の前で三度僕の名を呼んだ。僕はそんな彼の黒い瞳を見つめつづける。彼の口唇がゆっくりと開き、少し掠れたような低い声で僕の名をまた呼んだ。

『関口君』

『なんだい?』間抜けなまでの僕の問い掛け。中禅寺はふと僕から目をそらすと一言
『すまなかった』と詫びた。
『何のことだい?』頭の中で自分の声がまわりはじめる。
『嘘だ。』中禅寺の声は益々小さくなる。
『何が?』
『あの日、言った事は嘘だ』ああ、と漸く僕は気づき始める。違和感の正体を。
『あの日?』それでも僕は中禅寺への問い掛けを続ける。中禅寺は不意に目を上げ僕をまっすぐに見つめると、低い、けれどもしっかりした声でこう言った。
『君が好きだ』
黒い瞳が少し潤んでいた。彼がこんなに綺麗な目をしていることに僕は気づかなかったな、と見当違いのことを考えている。

『好きだ』

嘘だ、と僕は思った。だって君は――




ぽっかりと目が覚めた。

夢か。と汗ばむ寝床から身を起こし、障子の向こうの月明かりを見つめる。
雪絵を起こさぬようにそろそろと寝床から抜け出し、台所に行って水を飲んだ。

あの日から僕は何度も何度も同じ夢を見る。
京極堂に別れを告げられたあの日から――

夢の中の彼はいつも学生時代の彼だった。きっと僕はあの頃に戻りたいと無意識に思っているのかもしれない。

いや――戻りたいのは本当は――

夢の中で彼はいつも僕に『好きだ』と告げる。思いつめたような顔で。

思えば彼に『好きだ』と直接その言葉を告げられたことはなかった。僕から彼にも言った事はなかったが――

『好きだ』

若き日の京極堂の黒い瞳がふと頭に過ぎった。僕はコップに残っていた水を一気に飲み干しその残像から逃れようとする。

忘れなければいけないと思いながら、何度も何度も同じ夢を見る。
それにしても、何度も同じ夢を見ることが出来るなんて我ながら器用だなとふと思い、何だか可笑しくて笑ってしまった。その笑みは自嘲に歪んで頬の端にのぼっただけであったけれども。
そしてまたあの夢に思いを馳せる。

同じ夢を見るのならば――あの瞬間からまた全てが始まる夢を見ることが出来ればいいのに。

夢のなかでもうひとつの物語が始まる。
彼とまた一から、新しい物語をはじめる。

今度は同じ過ちを繰り返さないように。そう、彼から別れを告げられないように――




馬鹿馬鹿しい。

僕は声をあげて笑っていた。
何度繰り返しても「そのとき」は来るだろう。
それより、過ぎてしまった過去を現実には繰り返せるはずなどないということに何故自分は気づかずにこんな馬鹿げたことを考えつづけているというのだろうか。

未練がましい。もう全ては終わったというのに――

『全ては終わった』
自分の言葉が不意に僕の胸を突いた。震える手で蛇口を開き、空になったコップに水を溢れさせる。
泣きたいのに泣けなかった。涙の代わりに水道を溢れさせようとでもしているのだろうか。

雪絵がこの音に目覚めてしまう

そう思いながらも僕はどうしても水道の蛇口をひねることが出来なかった。
全てが流れ去ってしまえばいいと――そんな馬鹿げたことを思っていたのかもしれない。

いつまでも、過去から脱却できない愚かな自分を厭いながらも、僕はそんな自分を抱き締め、感傷に浸り、追憶へと流れ去りそうになる思い出の欠片を必死で拾い集めようとしている矛盾を愛しいと思っていた。

それはただ、彼を忘れてしまいたくなかっただけなのかもしれないけれども――




ぼんやりと僕は縁先で庭を見つめていた。
雪絵は買い物に出かけている。
あれからあまり眠ることが出来ず、僕はぼんやりした頭のままで朝飯を食い、靄がかかったような頭でぼんやりと次に書こうとしている小説のことなどを考えていた。
夢の話を書いてみようかな、とふと思った。
夢の中の虚構の世界が現実に追いつき追い越す、現実がやがて虚構になる――いや、夢と現実の境目がだんだんと曖昧になり互いの世界に互いの人物が融合し離脱しまざりあい――過去と現在を絡めるのもいいかもしれない、などとつらつらと考えていたそのとき――

「関口君」

不意に声をかけられ――あまりにも聞き覚えのある低いその声に、僕は呆然としながら顔を上げた。植え込みのところに佇む人影は――

「京極堂……」

おそろしいくらいの既視感――僕は――動けなかった。

「関口君」
京極堂が、夢の姿のままに手招きをする。それに操られるように僕は庭履きに足をかける。


このあと、言われる言葉を僕は知っている。だがそれは夢の中の話で――


「関口君」京極堂の手が僕の腕を掴んだ。


嘘だ。


はっとして目覚めた。
背中にびっしょりと冷や汗をかいていた。

いつのまにか縁先で転寝をしてしまっていたらしい。僕は大きく溜息をつくと、汗に濡れた前髪をかきあげた。



『関口君』




こうしてどんどん夢におかされてゆく現実を――僕は恐れながらも心待ちにしているのかもしれない。

「関口君」

庭先で声がする。僕はぼんやりとその方を見やる。


ああ、また虚構の彼の姿を僕は見ている。誰よりも愛しい彼の姿を――


着流しのその彼はすぐに消えた。僕は両手に顔を埋めると低く笑い続けた。
笑いながら手のひらに流れ落ちる涙を感じる。夢の中で生きたいと切実に願う僕がいる。


夢の中で、彼は僕に告げるのだ。
その瞳を潤ませて、今まで告げられたことのない、そして現実には決してこの先言われることのないあの言葉を――

『好きだ』


指の間から涙が滴り落ち、縁先を濡らした。笑っていたはずなのに、いつのまにか僕の喉から漏れる声は嗚咽の響きに震えている。

『好きだ』

このまま夢の中で、彼の黒い瞳にとらわれて生きていけるのであれば、僕は――




「関口君」

不意に肩を掴まれ、僕ははっとして顔をあげた。目の前には先ほど見たとおりの着流しの彼が立っている。

「鍵もかけずに無用心だぞ」不機嫌そうな声で彼はそう僕に告げた。僕はぼんやりとそんな彼の顔を見つめ続けた。


夢が――ついに動きはじめた。いや、これはもしかして――


「京極堂…」僕は彼の腕を着物の上から掴んだ。




京極堂はあまり多くを語らなかった。ただ一言
「すまなかった」と小さく詫びた。そして無言で彼を見つめつづける僕に向かって
「怖かったのだ」と言った。
何が、と尋ねようとした僕の口唇を彼のそれが塞いだ。


夢ではないのだ、と漸く気づいたときには僕は彼の腕の中にいた。


覚めない夢を見ているようだ、というと京極堂は馬鹿にしたように笑った。
ああ、いつもの彼だ――そう思った途端、僕はまた泣いてしまった。


彼は一体何を恐れていたのだろうか。
もしかすると僕が何より望んでいることを彼は厭い、彼が何より恐れているそのことを僕は切望しているのかもしれない。

そう思いながら触れた彼の口唇はあまりに温かかった。
僕の涙を拭うその細い指先はあまりにも優しかった。


僕達の間でまたときが流れ始めた。


その日以来、閉塞された空間のなかで漂い続けるかのように繰り返し見たあの夢を、僕は二度とみることはなかった。
僕が何より怖れていた忘却を食い止める手段のように、なにものかが見せていてくれたあの夢を、時折僕は懐かしく思い出し、夢の中の彼の黒い瞳の美しさを現実の彼に重ねてみたりした。



<終>