宵月の嘆き
どうしてこんなことになってしまったのかわからない−。
関口は寝転んだままぼんやりとした頭で、欄間から覗く明るくなりかけた空を見上げていた。すぐ傍らでまだ眠りの中にいる、十数年来の友人の寝息の音を聞きながら、関口は起き上がる事も−身体をうごかすことすら出来ず、ただぼんやりと訪れ来つつある朝を、新しい一日のはじまりを想い、空を見上げ続けていた。
昨夜京極堂を訪ねたのは、ほんの気紛れからだった。原稿に行き詰まり、何かネタはないかといつものようにふらりと店先を訪ねると、丁度千鶴子が出て行くところと鉢合わせた。
もごもごと口の中で挨拶をする関口に千鶴子は
「近くに住む親戚のお産の手伝いですの。うちのお地蔵さんでは何のおもてなしもできないけれど、どうかゆっくりなさっていってくださいな」と笑顔で言うと、汽車の時間でも迫っていたのだろう、足早にその場を立ち去っていった。その後姿を暫し見送った後、気を取りなおして関口は
「京極堂、いるかい?」といつものように薄暗い店の中を覗きこむ。
京極堂はいつものように店の奥で古書を読んでいたが、関口の姿を見とめると
「君はいつも『いるかい』と言いながら入ってくるが、店が開いている限り店主がそこにいるのは当たり前だろう」とぶすりと言ってまた本に目を落とした。
「店の前で千鶴子さんに会ったよ。お産の手伝いだってね」そんなことにはすっかり慣れっこになっている関口は少しも動じず京極堂の前に腰を下ろす。
京極堂は、ああ、と頷いてまだ本を読みつづけようとしていたが、関口が動かないのに根負けして
「上がって茶でも飲んでいくかい?」と、ぱたりと膝の上の本を閉じた。
「『骨休め』の札をかけてくるよ」と、関口は嬉々として立ちあがり、店の入口へと足を運んだのだった。
「茶」はいつもの出がらしの番茶であったが、京極堂自ら入れてくれたものであるから、ほとんど色だけになっているそれを文句も言わず関口はちびちびといつものように飲んでいた。
「今日は一体、何の用だい?」相変わらずの仏頂面で京極堂が問い掛ける。
「用がなくっちゃ来ちゃいけないかい?」関口は言いながら、京極堂の廻りに散ばる雑多な本の背表紙に目をやる。
「…なんらかの用事があって君がくることはついぞないがね。どうせまた原稿にでも行き詰まったんだろう。ネタを拾いにきたのかい?」
意地悪く言う京極堂に、それが図星であったこともあり、関口は黙って首を竦めるとまた一口茶を飲んだ。
「それでよく物書きを名乗っていられるものだね。君は年柄年中、書くことに詰まっては僕のところを訪ねてくるが、淀みなく文章が湧き出してくるなんて体験をしたことがないのかね」と、さらに皮肉な口調で畳み掛けてくる京極堂であったのだが
「…ないかもしれないな」ぽつり、と関口がそう呟くと、その様子が普段と違うのに気付き、口を閉ざして関口を見た。
いつもなら軽く受け流し、何か材料を強請る関口であるのだが、何故だか今日は京極堂の言葉が胸を刺した。…常に言われ続けていることであるのに、ふと、本当に自分は身体の中から溢れ出す言葉に筆が追いつかずもどかしい思いをしたことなどかつてなかったのではないか、という問いかけが頭に浮かび、今までの執筆活動を思い起こして不意にすとんとどこかに落とされてしまったような気がしたのだ。常に暗がりの中、言葉の糸口を捜して這い擦り回るようなことを繰り返してきた自分。やっと見つけた言葉の切れ端を捻くり回してなんとか形にするだけで、自ら渾身の作といえるような小説(もの)を書いたことがない自分。
大体何故に自分は大学での研究の職を捨て、小説家を志したというのだろう。どうしようもなく自分を駆り立てた何かがその時には確かにあった筈であるのに、いつから自分はその衝動を失ってしまったのだろうか。
「…口君、関口君!」
自分の名を呼ばれていることに、漸く気付き、関口ははっと顔を上げた。
「どうしたっていうんだい。君らしくもない」表情にはあまり表れないものの、どこか心配そうな京極堂の問い掛けに
「いや…」と関口は答えようとして、言葉を失ってしまった。
不意に胸に迫るものがこみ上げてきて、思わず口を押さえる。自分でもそれに愕然としながらも、こみ上げてきたのは嗚咽の声であった。同時に自分が涙を流していることに関口は気付いた。やり切れない痛みが胸に走り、関口は思わず両手に顔を埋めた。
「関口君?」動揺した京極堂の声が何処か遠いところで聞こえる。関口はただただ肩を震わせ咽び泣く自分を押さえることが出来なかった。何故自分が泣いているのか、それすらもわからない。京極堂の言葉がそれ程に自分を打ちのめしたわけではなかった。なんとも説明の出来ないやるせなさが次々と胸に込み上げてきて、関口は涙を流し続けた。
不意に自分の肩を掴まれ、関口はそのままその腕が引き寄せる方へと倒れこんだ。え?と思わず顔を上げると、すぐ側に京極堂の顔がある。そのまま背に腕を回され、関口はしっかりと彼の胸の中に抱きかかえられてしまった。
「…京極堂?」驚きのあまり止まってしまった涙の下で、小さく彼の名を呼ぶ。
京極堂は何も言わず、関口を抱き締める手に力を込めた。
「京極堂?」おずおずと関口は再び彼の名を口にする。それに誘われたように、京極堂は関口の頭に手をやり自分の方を向かせると、何も言わずに関口の顔を見つめた。
その瞳の中にいつもと違う光をみとめ、関口は魅入られたように彼の顔から目が離せなくなってしまう。そんな関口の頬に手をやると、京極堂はゆっくりとその口唇を、彼の口唇へと落としてきた。
「……」
一体何が起こっているというのか−関口はまったく動けなかった。言葉を発することも目を閉じることも出来ず、ただ唖然として視界を塞ぐ京極堂の顔を見つめていた。
不思議と嫌な感じはしなかった。−驚愕で思考が止まってしまったのだろうか−京極堂はゆっくりとその口唇を離した。
「……」関口はただただ京極堂の顔を見上げる。
「…目は、閉じたまえ」少し掠れた声で京極堂はそう関口に囁いた。その言葉に誘われたかのように関口は目を閉じる。京極堂の口唇がまた関口のそれを塞いだ。深い深い口吻−先程は触れるだけであった口唇が激しく関口の口唇を捕らえ、息苦しさから少し開いた口から京極堂の舌が入りこみ関口の舌を激しく求める。それに応えながら関口は自分の身体が熱を持ってくるのを他人事のように感じていた。一体何が起こっているというのか、全く実感が持てなかった。京極堂の手が、関口の開襟シャツのボタンを一つ一つ外していく。その冷たい手が直に自分の胸に触れたとき、関口の背を悪寒に似た何かが走った。口吻けながら器用に京極堂は関口のシャツを剥ぎ取ると今度はその下半身へと手を伸ばしてきた。服の上からやんわりと自身を握られると、流石に関口の意識は現実に引き戻され、少し京極堂の腕の中で抗った。が、京極堂は全くそれを意に介さず、関口のベルトを緩め前釦を外すと一気に下履きごと関口の膝の辺りまで衣類を引き下ろした。いきなり裸の下半身が外気に晒されたことに、関口は強い恥じらいを覚えて身体を捩った。京極堂の手はそんな彼の動きを阻んでからだの内側へと入りこみ、彼自身を捕らえるとその冷たい指を絡ませ愛撫する。その巧みな指の動きと冷たい感触に、思わず声が漏れそうになるのを関口は必死で堪えた。
京極堂はその口唇を関口の首筋から胸へと時々強くその肌を吸いながら下ろしてくる。少しも乱れていない彼の着物のざらりとした感触が、更に関口の息を上がらせる。胸の突起をきつく吸われると、京極堂の手の中にある関口自身がびくん、と大きく脈打った。羞恥の思いから関口は京極堂の腕から逃れようと必死で抗うが、京極堂その抵抗を軽々と抑え込むと、尚執拗に関口をその指で、舌で攻め続ける。
「や…っ」やめてくれ、と叫びたいのに声にならず、思わず関口は自分の顔を両手で覆った。自分の意思とは関係なく高まる鼓動とあがる息と、そして出口を求めて猛る衝動とに関口はただ身を任せ、しっかりと目を閉じたまま京極堂の手の中で果てた。
* * *
それから−関口は今夜自分の身に起こったことをぼんやりと思い出していた。気の遠くなるような、快楽と苦痛と、そして−関口の口から溜息が漏れる。
京極堂は、何を考えていたのだろう−
最後に気を失う瞬間まで、関口は両手で目を覆い続け、京極堂の顔を見ることをしなかった。というより、出来なかった。
彼はどんな顔をして自分を見下ろしていたのだろうか−
ぼんやりと空を見上げながら、関口は自分の頬を熱いものが伝わり落ちるのを感じ、手をやった。自分が涙を流していることに、初めて気付いた。
失ってしまったものはあまりにも大きく−嗚咽がこみ上げてきて、関口は再び両手で自分の顔を覆った。
咽び泣くその声に気付いたのか、横で京極堂が身体を起こす気配がし、関口の肩にその手が触れた。関口は何も言わずに顔を覆ったまま、そんな彼に背を向けた。
「関口君」京極堂が小さな声で呼びかける。
その声はいつものように、低いながらも凛としていて関口の耳に優しく響き、二人の間に起こったことなど何一つなかったかのような錯覚に関口は陥りそうになる。
関口はしっかりと眼を閉じ、両手で耳を塞いだ。
「関口君」
いくら耳を塞いでも、その指の間から京極堂の声は関口に届き関口の心を掻き乱す。
「愛しているんだ」
ぽつり、と呟かれた言葉。
「嘘だ!」
関口は思わず叫んだ。と同時に今まで堪えていたものが一気に途切れ、関口は文字通り号泣していた。泣きながら関口の脳裏に浮かんでくるのは、二人出会った頃のこと、共に語らい時間を忘れた学生時代、学徒出陣する前の日の別れの夜に酌み交わした杯、戦後再会して何も言えずにお互いに立ち尽くしたこと、そして−
数々の京極堂との思い出が途切れ途切れに浮かんでは消え、関口はいつまでもいつまでも激しく泣き続けた。
自分を見下ろす京極堂の視線を痛いほどに感じたが、関口はどうしても彼を見上げることが出来なかった。
何故だか彼も涙を流しているような気がしていた。
京極堂を許せない思いよりも、彼の涙を見たくない思いが、関口の眼を閉ざし耳を塞がせていた。
自分を陵辱した男だと言うのに−関口は彼の悲しむ顔だけは何故か見たくなかった。