約 束
「ずっと一緒にいるから」
僕の手を握りながら、彼が小さな声でそう囁いた。夕陽が辺りを黄金色に染めていく校舎の裏の小高い丘の上で、僕はやはり黄金色に輝く彼の顔を見上げた。
「……ずっと?」
ずっとというのは、いつまでのことなのだろう、などと考えている僕の方が現実的じゃあないかと、ぼんやりそんなことを考えながら、僕は涙に濡れた瞳で彼に問い掛ける。
「ああ。ずっとだ」
彼はそう言って、握っていた手を離し、僕の頬を伝っていた涙をそっとその親指で拭ってくれた。
見詰め合うまま時は流れ―――彼からの口吻を予測して立ち尽くす僕の頬に手をやりながら僕を抱き寄せるでもなく、彼はじっと僕の顔を見下ろし続けた。
* * *
久し振りに学生時代の夢を見た。
僕はぼんやりした頭のまま、もう明るくなってしまった室内の、見慣れた天井の模様を見上げた。
隣に寝ていたはずの雪絵は当然もう起きだして食事の支度でもしているのだろう。今は何時なのだろうかと頭をめぐらせて柱時計に眼をやった。
午前九時―――よく寝たものだと我ながら思う。
昨夜、鳥口の社に依頼されたカストリ誌の原稿を書き上げたのが午後十時。締め切りを破りまくってしまったから、今日にでも届けてやろうと思っていたのだったと、僕は漸く体を布団から起こした。
記事の内容は、先日八王子近辺で起こった事件のあらまし―――陰惨な事件だったな、と取材する鳥口の後について関係者の話を聞いたときのことを思い起こし、僕は人知れず顔を顰めた。
幼い少女ばかりを狙い、悪戯して首を締める。死体は裏庭の焼却炉で焼いたり、近隣の山に埋めていたりしていたらしい。その犯人は、僕よりも若く、僕よりも普通に社会生活を営んでいるように見える、健康的な若者だった。
彼の嗜好を歪めてしまったのは何なのか―――もっともらしくその原因を言及する記事を書くために、鳥口は彼の友人や職場の同僚、はたまた親戚にまでインタビュウを試みた。
先生も宜しかったらご一緒に、という彼の言葉にそのまま乗せられついていってしまったことを、僕は後になって随分と後悔した。
何故なら―――
「あなた」
不意に呼びかけられ、僕はふと我にかえった。振り返ると入口のところに割烹着姿の雪絵がいた。
「…おはよう」ぼそぼそと挨拶をしてしまうのは、こんな時間まで寝ていたことに対する後ろめたさだったりするのだが、雪絵はまるでそのことに気付かぬようににっこりと笑って
「朝ご飯、召し上がるでしょう」と笑うと、お味噌汁を暖めますね、と踵を返して台所へと向かった。
雪絵の姿が視界から消えると、僕はまたぼんやりとあの事件へと思いを巡らす。もう起きださなければと思いながらもなかなか僕はその場から立ち上がることが出来なかった。
近所に住む犯人の親戚の家の玄関先で鳥口がその家の主婦から話を聞いていたそのとき―――喪服の老婆がその家を訪ねてきたのだった。
「あら」今までべらべらと犯人の青年の様子を離していた主婦はバツが悪そうな顔をして、その老婆に向かって頭を下げた。
「……ご迷惑かけちゃったわね。ごめんなさいね」老婆は僕達の姿など見えないような素振りで主婦に向かって頭を下げると、
「今、三十五日の法要を済ましてきたところなの。これ、宜しかったら召し上がってね」
と、多分葬式饅頭かなにかなのだろう。主婦に向かって小振りの箱を差し出した。
「……まあ…今日がそうだったの」主婦が複雑な顔をしながらその箱を受け取る。老婆は少しほっとしたような顔をして
「受け取ってくれてよかったわ。それじゃ、ごめんくださいませね」と頭を下げると、とぼとぼとした足取りで外へと出て行ったのだった。
無言でその後姿を見送っていた僕達に
「今のがね、お母さん」と主婦は声を潜めて僕達にそう囁いた。
「え…?」思わず僕の口から声が漏れる。と、主婦は僕に向かって
「お気の毒にねえ……この辺りには親戚が集まっているのだけど、もうすっかり村八分状態よ。息子さんがあんな事件を起こしたんじゃあ仕方がないけどねえ」と言いながら、手にした饅頭を僕へと差し出してきた。
「あの…」口篭もる僕に
「何だか嫌(げん)が悪いから、どうか貰ってやって」とその箱を押し付け、そろそろ夕食の支度をしなきゃいけないからと、僕達はその家を追い出されたのだった。
「親戚でしょ?ひどい話だ」傍らで憤慨したようにそう言う鳥口に
「仕方がないよ。血が繋がってるというだけで嫌がらせをされたりするのかもしれない」
と僕は心にもないことを言いながら、手にした箱をどうしようかと見下ろした。
「僕が貰いましょう。社に持って帰りますよ」『嫌が悪い』などと言われたものを押し付けられた僕を気の毒に思ったのだろう。鳥口が僕の手から饅頭の箱を取り上げた。
「……すまないね」僕は小さな声でそう詫びると、はあと深く溜息をついた。
結局のところ―――誰から何を聞いても、あの青年があのような凶行に至った理由などわかりはしなかった。
職場での彼は多少大人しくはあったけれども、人付き合いもそう悪くない、ごくごく『普通』の青年であったという。近所の評判も「どうしてあの人が…人は見かけにはよらないわね」といった調子で、少しも「おかしい」という兆しはなかったというのであった。
カストリ紙に載った彼の写真を僕はふと思い浮かべた。刑事たちに連行されていくところを撮られたその写真は、ギラギラと眼ばかりが光る暗い顔の表情であったけれども、それはカメラのフラッシュのせいであったのかもしれない。僕の脳裏に先ほどの老婆の顔が浮かんだ。あの青年の母親にしては年をとっていたなと思いながら、もしかしたらこの事件のおかげで急に老け込んでしまったのかもしれないなどと余計なことを考える。
彼女の顔と、カストリ紙でみたあの青年の顔を重ねようとして―――僕はそのあまりに意味のない行為に一人頭をふって二人の顔をこの頭の中から追い出そうとした。
「あ…」鳥口が小さくそう呟きながら足を止める。つられたように僕も立ち止まり前方を見ると、先ほどのあの喪服の老婆がふらふらと僕達の前を歩いていくのが見えた。
僕達は暫く立ち止まったまま、彼女が歩いてゆくその後姿を見送っていた。どうやら近所の寺の方へと向かっているらしいということに気付いた鳥口が、
「一緒に行ってみましょう」と僕に小さな声で囁いた。
老婆はとぼとぼと寺の階段を登り始める。僕達は可也後ろからその後姿について歩き始めた。どうやら墓地の方へと向かっているらしい。老婆がすっかり階段を上りきると、鳥口は、僕達も、というように眼で僕を促し、先に立って歩き始めた。
他の記者ならともかく、鳥口ならきっと、誰よりも傷心であろうその母親から無理に話を聞き出すことなどないだろう、と僕は彼の人間性を信じて、黙って彼の跡をついていった。
老婆はやはり墓地へと入ってゆき、まだ新しい卒塔婆の建っている墓の前に座り込んだ。
老婆の息子は―――犯人の青年は、逮捕後すぐに、獄中で自殺したのである。
一言「申し訳ありませんでした」と書置きを残し、手拭を繋いだ紐で首を括った。自分の犯した罪を全て告白し、始末した遺体の場所を全て自白した後の死だったという。
老婆はじっと墓の前に座り込んでいた。きっと寂しい法要であったのだろうと思う。一人納骨を済ませ、手を合わせたばかりであろうその墓の前にまた座り、老婆はいつまでもいつまでもその墓を見つめていた。
鳥口と僕は互いに顔を見合わせた。ここまでついてきたはいいが、これから為すべきことを僕達は少しも思いつかなかったからだ。
と、そのとき―――不意に前方の老婆の肩が震え始めた。僕は思わず彼女の方へと駆け寄りそうになる己の足を踏み留め、彼女の方をじっと見つめた。
やがて―――まるで地を這うような低い声が、老婆の方から聞こえ始めた。始め何の音なのか、僕には少しもわからなかった。やがてそれが、老婆の嗚咽の声だということに気付いたときには、老婆は冷たいであろう墓石に縋り、大きな声で泣き叫び始めた。僕は身動きをとることも敵わず、食い入るようにそんな老婆の後姿を見詰め続けた。
「ごめんね……何もしてあげられなくて…ごめんねえ…」老婆は泣きながら何度も何度もそう詫び、墓石を愛しそうに擦っていた。
「ごめんね…」
老婆は―――何を一体詫びているのだろう。逆縁の不幸を為した己の息子に、救いの手を差し伸べてやることが出来なかった、そのことを、なのだろうか。
「行きましょう」
鳥口が喉に何かが絡まったような声で僕の腕を掴んだ。それに救われたかのように、僕は漸く体を動かすことが出来るようになり、小さく頷いたあと、そっとその場を後にしたのだった。
そうして出来た記事は―――
面白おかしく彼の性癖を書いた、下品なものになった。
生まれついての性質だったとだけは、僕は書きたくはなかった。戦後の何処か淀んだような暗澹たる世情のせいだと、わかったような事を書いて記事を結んだ。
『ごめんね』
老婆のあの、地を這うような嗚咽の声が、記事を書いている最中に何度も何度も僕の耳に甦った。僕はその声に耳を塞ぐようにして、思い切りやっつけでその記事を書き上げたのだった。
これを例え鳥口に渡してしまっても―――あの事件が僕の手から離れたということにはならないのだろう。
彼を歪めた何ものかは、永遠に僕には分かる日は来ないのだろうけれど、あの墓石に縋り泣き詫びる老婆の姿は当分は僕の脳裏からは消え落ちそうにはなかった。
「あなた」
台所から雪絵の声がする。
「今行くよ」僕はそう声を返すと、何も考えないようにしながらよいしょと声をあげて立ち上がったのだった。
京極堂を訪ねてみようと思ったのは、ほんの気紛れからだった。結局原稿を取りにきてくれた鳥口を玄関先まで見送ったあと、やっぱりそこまで送って行こうと彼の後を追った。
二人肩を並べて暫く歩いたが、何故だか会話は途切れがちだった。この事件に関しては鳥口も少なからずショックを受けたのかもしれない、と少し年上の余裕で以って、僕は彼の肩を叩き、
「あまり気にするなよ」と笑ってやった。
「先生こそ」鳥口がべそをかくような顔で笑い返し、都電の駅につくと、それじゃあと僕に片手を上げて立ち去っていった。
このまま家に帰るよりは―――僕の足は、中野へと向かった。何故だかとても、あの仏頂面に会いたくなってしまったからである。
今日見た夢のせいかもしれない。と僕はあの夕陽の中で立ち尽くす、黄金色に染まった若き日の彼の姿を思い浮かべた。
あのとき、決して僕に触れることのなかった彼の手は―――今は時折、なんともいえない愛しさを以て僕の体を抱き締める。
二人の『関係』が生まれたのは、互いに妻帯をした後だった。そのとき僕は―――初めて彼と出会ったときから、彼に惹かれていたという事実に改めて気付いたのだった。
彼も、十数年前から僕のことが好きだったと言った。僕達は互いに思いあっていながらにして、それを告げあう勇気を持てず、十数年の回り道をしてきたというわけだ。
そして僕らは互いに伴侶を持ち、益々己に架せられる罪を重くして―――その罪深さ故に益々深く、互いを求め、抱きあった。
だから、今日の夢は本当は少し脚色がされているのだ。あの頃、僕は何を悩んでいたのだったか―――そのこと自体は忘れたが、そんな僕に向かって、彼がこの手を握りながら
「安心しろ。僕はずっと君と一緒にいてやる」と言ったことは事実だった。
『ずっと』というのはいつまでだろうと僕が思ったのも事実である。が、そのとき目を閉じて口吻を待ったというのは、今の僕が夢の中で為した脚色である。
あの頃は、彼と口唇を重ねるということなど、思い浮かびもしなかった。それでも彼なしには、あの頃の僕は生きることすら出来なかったように思う。
常に僕の傍らにいてくれた彼―――自分ひとりの世界に引き篭もりそうになる僕の腕を掴んで外界を見せてくれた彼―――彼を通して僕は世界を見、彼を通して呼吸していたようにすら思う。あのときも僕は何かに酷く落ち込んでしまって、ただただあの丘の上で呆然と涙を流しつづけていた。彼はそっと僕の後ろから近づいてきて、振り返った僕の手を握り、
「大丈夫」とあの低くよく響く声で僕に囁いたのだった。
なにが、というように顔を上げた僕の目を覗き込むようにして、彼は僕に言ったのだ。
「安心しろ、僕はずっと君と一緒にいてやる」
『ずっと』か
ぼんやりそのときのことを思い出しながら、ぼくはだらだらとした坂を登った。坂の上に彼の店がその姿を現してくる。
『ずっと』、か
店の戸を潜っていつものように奥の方に座している店主に向かって、僕は「やあ」と声をかける。町内中が死に絶えたような仏頂面をした彼は、僕の顔を見ると一言
「上がり給えよ」と愛想の欠片もない調子でそう言って立ち上がった。
彼の妻は不在にしているようだった。僕は案内も乞わずに奥座敷へと上がりこみ、いつもの席に腰を下ろして彼が来るのを待った。
『骨休め』の札をかけてきた彼は、いつものように出涸らしの茶を手にすぐにやってきた。
「有難う」といってそれを受け取り一口飲んだところで、目の前に座る京極堂の大きな溜息に僕は何、というように彼の方を見やった。
「何があったんだ」
ぶすりと京極堂は僕に向かってそう呟くように言う。
「……え?」
「ひどい顔をしている」
そう言われて、どんな顔をしてるというのだろう、と僕は自分の頬に思わず手をやった。
「馬鹿。ものの例えだよ」京極堂の手が僕の手を追いかけてきて、僕の頬にそのまま触れる。その骨ばった手の感触が何故だかとても懐かしいような気がして、僕はそのままそっとこの目を閉じた。
「誘うなよ」京極堂がくすりと笑って、その口唇で僕の口唇を軽く塞いだ。温かいな、と僕は薄く目を開いて、目の前にいる彼の顔を見やった。
「言っただろう。ずっと一緒にいてやるって」
彼の漆黒の瞳が驚くほど近い処にある。彼の低い、よく響く声がそう僕に告げたとき、僕はその瞳に魅入られたかのように呆然と彼を見上げた。
「京極堂……」
思わず彼の名を呼ぶと、彼はその瞳を細めた。笑ったのだ、ということに気付かないほど、僕達は近く顔を寄せていた。
「何があっても、僕は君の傍にいる。安心しろ」
彼の瞳に、僕の顔が―――歪んだ僕の顔が映っている。何かいいたげに口を開きかけたその顔―――僕は彼に何を言おうというのだろう。
「京極堂」
自分で自分の思いを持て余し、僕はただただ彼の名を呼ぶと、その胸へと顔を埋めた。
『ごめんね』
あの老婆の嗚咽の声が僕の脳裏に甦る。
「安心しろ。ずっと一緒にいるから」京極堂はあの日と同じ言葉を繰り返し、僕の背を痛いほどの力で抱き締めた。僕も腕を伸ばして、骨ばった彼の背を力いっぱい抱き締める。
「だからね、関口君。君も何処へも行くな」京極堂がそう言いながら、僕の髪に顔を埋めた。
うん、と僕は小さく彼に頷き、彼を抱く腕にまた少し力をこめた。
あの老婆の後姿のイメエジが、遠く何処かへと落ち込んでいく。
彼女の嗚咽の声はもう、僕の耳には届かなかった。ただ、僕を抱き締める京極堂の胸の鼓動の音だけが、僕の耳へと響き、僕は益々その音に包まれようと彼の胸に顔を埋めたのだった。
「ずっと」というのは、「ずっと」なのだろうなと心の中で呟きながら―――
<終>
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