Merry Christmas
「京極堂、いるかい?」
店が開いているから当然店の主人はいるだろう、と思いながらも関口がそう声をかけながら店へと入っていくと、意外にもいつも彼がいる帳台に座っていたのは榎木津であった。
「なんだ、サル、不景気な顔をして」
榎木津がこの場にいることだけでも驚いたのに、およそ本とは縁のなさそうな彼が帳台の上で本など開いていたものだから、関口は思わず
「一体どうした風のふきまわしだい?」と大声をあげながら彼の方へと歩み寄った。
「鯉のぼりみたいなヤツか?」
「それを言うなら『吹き流し』」
本気だかボケだかわからない彼の問いに愛想なく答えながら、なにを読んでいるのかと開かれたページを覗きこむ。
「写真集?」
榎木津が見ていたのは外国の街並みを映した建物の写真集のようだった。ちらと榎木津を見上げて、表紙を見ていいかい?と目で尋ねると、「うむ」というように彼が頷いたので、関口は帳台の上から本を取り上げ、ひっくり返してその表紙を見る。
「……?」知らない題名、知らない作者だった。ぺらぺらと捲ってみると、所々に書かれた文字はフランス語のようで、美しい風景写真が春夏秋冬の順に並んでいる。榎木津が見ていたのは丁度今頃、雪の積もるパリの街並みが綺麗なイルミネーションに彩られている写真だった。
「クリスマスか…」
大きなリボンのかかったツリー。ライトアップされた凱旋門。
「綺麗だね」はい、と本を返しながら関口がそう笑うと
「耶蘇の祭りは派手だな」と、榎木津は年寄りくさいことを言って本を受け取り、またその頁の写真に目を落した。
「最近は銀座でも電飾の飾り付けをしているらしいよ」関口もつられたように帳台の前に立ちながら、榎木津の見ている頁を逆さまに見下ろした。
「『戦後』は終わったんだな」榎木津が写真から目を離さず、それでも目を細めて微笑む。
「……平和はいいね」毎年少しずつ活気を取り戻してくる街々―――空襲の被害を受け、焼け野原にバラックが建っていた風景も都内では次第に減りつつある。今夜、クリスマスケーキを囲む家々の暖かい灯りはきっと街中に溢れるのだろう。
「……京極なら出掛けたぞ」榎木津が不意に目を上げ、ぼんやりと開いた本に見入っていた関口を見上げてそう言った。
「へぇ、珍しいこともあるものだね」
関口はそう言いながら、で、何故榎さんが店番を?と尋ね返した。
榎木津はうふふと笑うと
「朴念仁に家族サービスのやり方を教えてやったのさ」とまた本の頁へと目を戻す。
「家族サービス?」
聞き返しながら、あ、と関口は小さく声を上げた。暫しの沈黙が二人の上に流れる。
「お前もいつまでもこんなところで油を売ってないで、とっとと家に帰れ。」榎木津は本の頁を捲りながら、乱暴なくらいの口調でそう言った。
「…うん…」と答えながらも関口はそのままその場に佇んでいる。と、榎木津はそんな関口をまた見上げ、
「なんだ?」とその美しい鳶色の瞳を見開いてそう尋ねた。
「よかったら、榎さん、ウチに来ないか?」彼にしては珍しくも明瞭な発音で、榎木津の瞳を真っ直ぐに見つめながらそう言う関口の顔を、榎木津は暫し唖然として見つめていたが、やがて大きな声で笑い始めた。
「馬鹿だなあ、それじゃあ家族サービスにはならないじゃないか」
いいからとっとと帰れ、と榎木津は徐に関口の方へと手を延ばして来ると、その髪をくしゃくしゃと勢いよくかきまわした。
「や、やめてくれよ」慌てて身体を引いてその手から逃れようとする関口をいつものように深追いすることはせず、
「早く帰れ。そうだ、ケーキと花のひとつも買って帰るのを忘れるなよ」サルはそういうところに気が利かないからな、と榎木津は笑うと、また俯いて本の頁を捲る。
と、彼の手がふと止まった。開かれた頁は先ほど二人でみた、パリの街のクリスマスの風景―――
先ほどその写真を見たときですら、今日がクリスマスイブだということを忘れていた。
「榎さん……」関口がそう声をかけると、榎木津は再び勢いよく本の頁を捲り始める。
「榎さん……」
「早く帰れ」もう一度その名を呼ぶと、榎木津は本から顔を上げ、美しい鳶色の瞳を細めるようにして微笑むと囁くようにそう言った。
関口はなにかそんな彼に言いかけて―――なにを言ったらいいのか自分でもわからず、仕方なく
「うん」は小さく頷くと、それじゃ、と軽く頭を下げるようにして踵を返し、出口の方へと向かった。
「セキ」
片足を往来に出そうとしたその瞬間、後で榎木津の声がした。思わず勢いよく振りかえった関口の目に飛び込んできたのは
「メリークリスマス!」
と大きな声で叫んで破顔している榎木津の笑顔だった。
「メリークリスマス」
関口もつられたように笑いながら、彼にそう言葉を返す。
「ケーキ、忘れるなよ」そう言って榎木津は軽く睨む真似をすると、また本へと視線を戻してしまった。
「わかってるよ」関口はわざとのように明るくそう答え、それじゃ、と今度こそ店を後にし、坂を下り始めた。
榎木津はこの聖なる夜を、誰とどうして過ごすというのだろう。
自分に、そして京極堂に、こんな夜は家族と過ごせと世話を焼く彼は今、なにを思い、なにを感じているのだろうか―――
そんなことをぼんやりと考えていた関口の目に、目眩坂を登ってくる見覚えのある人影が飛びこんできた。え?と思わず足を止めると、前方の二人も関口に気付いたようで、足早に関口の方へと近付いてくる。
「なんだ、ウチに来てたのか?」相変わらず町内中が死に絶えたような仏頂面で声をかけてきたのは京極堂だった。その後から、こんにちは、と微笑みかけるのは彼の賢妻の千鶴子である。
二人ともいつもより数段高そうな着物を着て、手には大きな包みを下げていた。
「う…うん」その様子を眺めながら、いつものように関口が胡乱な返事をしていると
「ああ、店に行ったのなら、榎木津に逢っただろう?どうだい?ちゃんと店番をしていたかい?」と問いかけてくる京極堂を
「そんな失礼なこと、言うもんじゃあありませんよ」と千鶴子は笑って制すると、関口に向かって、
「実は榎木津さんが二人で行くように、って帝劇の切符を持ってきてくれたんですの。いやがるこの人に無理矢理支度させて、夜まで自分が店番をやるからディナーを二人で楽しんで来いって…でもね」と千鶴子は笑うのに続けて
「いつまでもあれに店番をさせておくのは心配だから、夕食は家で取ろうとこうして帰ってきたのさ」店でも破壊されたらたまらないからね、と京極堂はぶすりと云った。
「そういうことにしておきましょう」と千鶴子は笑うと、関口に向かって小声で
「私たちに気を使ってくれた当の榎木津さんが、今夜一人じゃぁ気の毒だっていうんでしょう、帰ろう帰ろうってそりゃあもう煩かったのよ」と囁いたのに
「聞こえているぞ」と京極堂の不機嫌な声が重なり、思わず関口は千鶴子と顔を見合わせ微笑みあった。
それじゃ、と頭を下げて千鶴子が先を行く京極堂の後を追うのに、関口も手を振って応えると、自分も勢いよく坂を下り始めた。
ケーキを買うのを忘れないようにしよう。花のひとつも買うことにしよう
自然と顔が笑っていることに気付いて、関口は何となく照れ臭いような思いのままに歩調を緩める。ふと振りかえった先に見えた京極堂の店の明かりに、京極堂で繰り広げられるであろう今夜の暖かな夕餉を連想し、関口は自分の心までもが暖まるような気がしてまた微笑んだ。
「メリークリスマス」
そして小さくそう呟くと、花だけでなくたまにはなにか雪絵に買ってやろうかな、と関口は思い、また歩調を速めて家への道を急いだ。
<終>
Merry Christmas!