いつかのメリークリスマス
                             (
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 「……あ……雪……?」

 窓越しに空を見上げ、僕は口の中でそう呟いた。僕を窓際へと追いやって部屋の掃除をしてくれて

 いた雪絵が、タツさん、なにか言いました?と背中越しに尋ねてくる。
 
 「いや……」僕は何故だか口篭もり、窓の外、ちらちらと舞い降りる雪を見つめていた。

 雪絵はちょっと首を傾げたが、僕の独り言に付き合っている暇はないと思ったのか、そのまま手早く
 
 箒を動かし、
 
 「さ、終わりました。どうぞお仕事お続けになってね」とにっこり微笑むと、お邪魔しました、と部屋を

 出て行こうとした。

 そんな彼女の姿は僕の見つめる窓ガラスに映っていたのだが、僕は漸く「あ……うん。有難う」とふ

 りかえると、そんな雪絵の姿を直視する。

 「……いやあねえ」雪絵は何故だか、くすり、と笑って頭を包んでいた手拭を外し、また僕へと微笑

 みかけた。

 「なに?」戸惑いながらもそう尋ねると、何でもありませんよ、と笑って、それじゃ、買い物に行ってき

 ますね、と部屋の襖をするすると閉めたのだった。



 僕はまた、窓の方へとふりかえると、じっと空を見上げた。


 雪、か


 買い物に行くと言っていたが、雪が降ってることを教えてあげた方がいいかもしれない。そう思って

 見上げた空は曇っていたが、先程僕が見た筈の雪はちらりともその姿を見せなかった。



 こんなに短時間に止んだのか。

 いや、最初から雪など降っていなかったというのだろうか。

 どちらにしろ、出掛ける雪絵にとってはよかったな、と僕は人知れず小さく微笑むと、飽きもせずに

 また空を見上げた。


 雪、か


 なんだ、僕は雪を待っているみたいじゃあないか、と僕は苦笑すると窓ガラスにコツンと額をぶつけ

 た。

 外はさぞ寒いのだろう。窓の近くにいるだけで嫌になるくらいに外気の冷たさが伝わってくる。



 雪、か



 僕の頭に、ふとあの日のことが浮かんだ。

 あれも―――こんな風に寒い日だった。空からはちらちらと細かい雪が舞い降りていた。

 彼と肩を並べて歩いたあの道は―――今は綺麗に整地された、住宅街の中にある。




 何故あんな寒い日に遠出をしようと思ったのだったか。

 どうせ彼の―――榎木津の気紛れからだったに違いない。僕たちは昼食をとったあと、午後の授業

 をサボって学校を抜け出し、丁度来たバスに乗って街の方へと繰出したのだ。

 榎木津は酷く浮かれていた。いつでも躁状態の彼ではあったけれど、その日は本当にテンションが

 高く、車内の乗客が何事か、とふりかえるほど騒ぎまくっていた。

 「静かにしようよ」周囲の視線に耐えかねて僕がそう小声で囁き彼の袖を引いても、彼は少しも動じ
 
 ずに歌まで歌い出す始末だった。

 そして―――

 街につくはずのそのバスは、「○○営業所」という車庫のようなところで止まり、終点です、と僕たち

 はバスを下ろされた。途方にくれる僕に運転手は20分もすれば街行きのバスが来るでしょう、と親

 切にも教えてくれたのだが、榎木津は「20分も待っていられるか」とゴネにゴネ、とうとう根負けした

 僕が、彼の言うように「歩いて」街まで行くことになったのだった。

 大分距離がありそうだ、ということはなんとなく僕らにもわかった。榎木津が思いついたように、バス

 通りから分かれる所謂「抜け道」を行こう、と言い出したときについついそれに乗ってしまったのは、

 寒い中歩くのに飽きていたためだろう。

 その道が、曲がりも曲がった「悪道」であることに漸く気付いたころには、もう自分たちが何処らへん

 を、どちらに向かって歩いているのかすらもわからなくなってしまっていた。

 秋の陽は釣瓶落としの如しというけれど、冬の陽は更に短い。空は厚い雲に覆われていたこともあ

 って、4時だというのに周囲は薄闇に包まれ始めた。

 「……榎さん」僕は途方にくれたような声を、前を歩く彼の背中に投げかけた。

 「……腹が減ったなあ」榎木津は振り向きもせずにそう言いながら、それでも少し歩く歩調を緩めて

 くれる。

 「……なんか、山道っぽくなってきてないか?」もうその道は舗装されてさえいないものになってい

 た。周囲は木と草ばかりが乱雑に生える、空き地というよりは「荒地」の様相を呈している。

 「……都内にもこんなところがあるんだな」

 呑気にそう言いながら、榎津は漸く立ち止まって僕の方を振り返ってくれた。そして寒そうにしてい

 る僕の姿を見て

 「大丈夫か?」とその端正な顔を少し傾けて尋ねて来た。

 学校を出るとき榎木津にせかされたあまり、僕は外套を着るのを忘れてきたのだ。バスを降りたと

 きは流石に「寒い」と思ったが、必死になって歩いているうちに少し汗ばんでくるほどにこの身体は

 温まった。が、陽がおちかけている今、また身体はすっかり冷え切って、さっきかいた汗が冷たく全

 身を包み、僕はさっきからガタガタと実は震えていたのだ。

 寒さは体力も奪うのか、何だか僕は疲れ果ててしまって、一度立ち止まってしまうともう一歩も動け

 ないような気になってきてしまった。見知らぬ土地。少しも見えぬ街の灯り。靴を汚す土埃。そして

 さっき榎木津が言った通り、僕ももうはらぺこだった。

 「大丈夫じゃないよ」

 思わずそう溜息混じりに答えてしまった僕の顔を、榎木津は暫くじっと見つめていた。

 当然「軟弱モン」とか「馬鹿者」という罵声を覚悟していた僕には、彼の沈黙がなんだかとても居心

 地悪くて、思わず空咳なんぞをしてみる。と、彼は

 「寒いのか」と自分のコートを脱いで僕に渡してくれようとした。

 「いいよ。榎さん、風邪ひくよ」コートの下はシャツ一枚で、僕なんかよりよっぽど寒そうだと、僕は首

 を横に激しくふりながら、榎木津にコートを押し戻した。

 「僕は風邪なぞ引かないのさ」神だからな、と榎木津は笑って更に僕にコートを押し付けようとする。

 「なんとかは風邪引かないっていうあれかい?」僕はわざと彼を怒らせるようなことをいいながら、尚

 も彼の手にそのコートを押し戻した。

 「サルは馬鹿でも風邪をひくじゃないか」迷信迷信、と榎木津はもっと失礼なことを言いながら、無理

 矢理僕にコートを着せようとした。肩にかけられた榎木津のコートは余りに暖かく、思わずそのまま

 着ていたい誘惑に負けそうになりながらも、この寒空に流石にシャツ一枚では辛かろうと、強引にコ

 ートを脱ぎ、榎木津の手にまた押し付けた。

 「素直じゃないな」憮然とした榎木津の表情。怒ったかな、と僕は少しだけどきりとする。怒られたと

 しても、やはりその好意に甘えるわけにはいかないし、と僕もまるで意地をはるように

 「榎さんこそ」と口を尖らせ彼を睨んだ。

 「サルがタコになってどうする」榎木津は僕の顔を見てにやりと笑うと、酷いな、とますます口を尖ら

 せる僕の頭を軽く小突いた。そして、仕方がないなあ、と諦めたような顔をしてまたコートを着込むと、

 ほっとしている僕の前に背中を向けて肩膝をついたのだった。

 「……?」何をやってるんだろう?と僕は無言で彼の背中を見下ろしていた。

 「ほら、早く乗んなさい」榎木津が肩越しに僕を見ると、目で自分の背中に乗るよう促す。

 「…え?」おぶってくれると言っているのだ。そのままその言葉に甘えていいのかどうか、僕は悩ん

 でその場に立ち尽くしていた。

 「愚図愚図するな。ほら」榎木津が僕を睨むようにしてそうせかす。僕はおずおずとその肩に手を

 廻し、彼の背中に乗った。榎木津は直ぐに立ち上がり、よいしょ、というように背中の上でおぶいや

 すいように僕の身体を一度揺すると

 「ほんとにセキは軽いなあ。もうちょっと食べて太らなきゃ駄目だぞ」と母親のようなことを言って僕

 の方をちらと振り返り、

 「まあ、背負うには有り難い軽さだ」と笑うと、行くぞと独り言のように呟いて足早に歩き始めた。


 僕は申し訳なく思いながらも、心底ほっとしていた。榎木津の背の温もりが服越しに伝わってきて

 寒さを忘れさせてくれている。相変わらず空腹ではあったけれど、榎木津が歩くたびに伝わる心地

 好い振動は、眠気すら誘った。

 僕はなんだか、このままいつまでも榎木津の背で揺られていたいような気持ちになっていた。街の

 灯りなぞこの先に見えなければいい。いつまでもこの荒れ果てた野原が続けばいい。

 何故そんなことを思ったのだろう。僕は榎木津の首に回した手に少しだけ力をこめた。

 「どうした?」榎木津が気付いてそう問いかけてきたが、何を言っていいのかわからなかったので、

 僕はただ無言でまたぎゅっと彼に抱きつくようにこの手に力を入れた。

 「……大丈夫。そのうち着くさ」僕が不安になったとでも思ったのだろう。榎木津はいかにもといった

 呑気な声でそういうと、セキはあったかいなあ、湯たんぽいらずだ、とふざけた調子で上を向いて笑

 った。

 暖かいのは榎さんの方だ。榎木津が上を向いたために、僕はそんな彼の背から滑り落ちまいと益々

 彼にしがみついたのだったが

 「あ」

 榎木津はそう一声発すると、上を向いたまま固まってしまった。

 「……?」僕は彼に必死でしがみつきながら、彼は何を見てるのだろうと同じように空を見上げた。

 真っ暗い空。星ひとつない闇。一体―――

 「雪だ」榎木津はそう言うと、僕の方をふりかえって心底嬉しそうに笑った。

 「雪?」慌てて僕もじっと空を見上げる。真っ暗い空から、ちらちらと白い粉が舞い降り、僕の頬にあ

 たった。すっかり冷たくなってしまっていた頬に、頭を寄せた榎木津の髪に、ちらちらと舞い降り、一

 瞬その姿を晒したあとすぐに溶けて消えてしまう、細かい、細かい雪―――

 「ほんとだ……」僕はそう答えながら、榎木津は何を一体そんなに喜んでいるのだろう、と彼の顔を

 覗きこむように首をのばした。

 「やっぱり日頃の行いがいいと、こういういいこともあるというものだ」榎木津は得意げにそう言うと、

 また僕の方を振り返ってにっと笑う。

 近い―――本当に近いところに榎木津の飴色の瞳があった。僕は思わずその目の輝きに見惚れた。

 榎木津は、「な?」というように僕の顔を覗きこみ、その美しい瞳を細めて微笑んだ。

 「……え?」僕は呆けたような顔をしていたに違いない。何が「な?」なのだろうとぼんやり彼の顔を

 見つめる僕に、榎木津は

 「なんだ、セキは今日が何の日だか忘れてるわけじゃないだろう?」と意外そうな顔をして僕を見返

 した。

 「今日?」そう答えながら、僕は、あ、と思わず声をあげた。


 今日は―――12月24日


 「クリスマスにはやっぱり雪だろう」

 榎木津がまた空を見上げてそう大きな声をあげた。僕はまた滑り落ちないように彼の背にしがみつ

 きながら、やっぱり彼と同じように黒い空を見上げた。


 ちらちらとまばらに舞い落ちる、小さな―――ほんとうに小さな雪の結晶


 何故か不意に涙がこみ上げてきて、僕は榎木津の背にぎゅっとしがみつき、その肩口に顔を埋め

 た。

 「眠いのか?」仕方がないなあ、と榎木津は笑いながらそんな僕を振り返ると、もうすぐきっと街に

 行きつくさ、と安心させるように僕の身体を揺するようにして、さあ、行くぞと歩き始めた。

 僕は榎木津の肩に顔を埋めたまま、彼が脚を進めるその振動を身体に感じていた。榎木津は鼻歌

 でも歌いそうな勢いで、陽気に道を歩き続けている。



 『きっと街に行きつくさ』



 行きつかなければいいのに、とそのときの僕は何故だかそう思っていた。

 いつまでも彼の背の上で、彼の温もりを感じていたかった。



 「あ。灯りだ」榎木津がそう大きな声を上げる。その声につられたように僕も漸く彼の肩から顔を上

 げ、彼の指差す方向へと目をやった。何処をどう歩いてきたのか、小高い丘のようなところに佇む僕

 たち―――というか、佇む榎木津とその背におぶわれた僕の眼下に、一面に暖かな光りの海が広

 がっていた。

 「……綺麗だね」思わず僕の口から賛美の言葉が漏れる。街に溢れるネオンの明かりが、遠く離れ

 たこの丘からは、その文字の一つ一つをはっきりとは見せず、それこそ無数の星のように美しく煌い

 て見えたのである。

 「……メリークリスマス」

 榎木津が半分だけ顔を僕の方にむけ、囁くようにそう言った。



 街の灯りを目指して歩き続けていた僕たちは、運良く通りかかったトラックに拾われその荷台へと

 乗せてもらうことが出来た。運転手は、一体どういう歩き方をすれば、あの営業所からこんなところ

 まで来れるのか、と随分首を捻っていた。

 汚い幌の隙間から、僕はじっと外を見下ろした。街が近付いていくにつれ、ネオンの灯りはその形

 状を露にしはじめ、極彩色の光りとなって僕の目を差した。

 ふと気付いてふりかえると榎木津は膝を抱えるようにして眠っていた。無理もない。僕を背負って

 随分な距離を歩いたのだ。僕はそんな彼の寝顔を暫くじっと見つめていた。



 『今日が何の日だか忘れたわけじゃないだろう』



 「榎さん……」僕は小さな声でその名を呼んだ。が、彼が目覚める気配はなかった。


 「メリークリスマス」


 ますます小さな声で僕はそう囁くと、そっと彼の栗色の髪を撫ぜてみた。さらりとした髪の感触。

 そうだ、と僕は幌を持ち上げて外を、黒いその空を見上げた。彼の髪に降りかかっていた雪は、いつ

 のまにか止んでしまったらし
い。黒々としたその空と、その空を照らす街の灯りとを僕はなんとなく

 切ない思いで眺めながら、榎
木津は今日のこの日に何故僕を連れ出したのだろうと考えていた。






 そして月日は流れ―――






 ああ、今日は24日だ、と僕はぼんやりとそう思いながらまた空を見上げる。
 
 あの日に僕たちの上にちらちらと降りかかった、まばらな雪の姿を求めて―――




 『メリークリスマス』


 あのとき半分だけ僕の方を振り返ってそう囁いた若き日の彼の横顔が、今年も僕の心の中に甦る。

 あのとき彼に背負われて歩いたあの道も今はすっかり舗装され、かつての面影などまるで残してい

 ないというのに―――



 空を見上げ続ける僕の目に、幻の雪がまた舞い散った。

 いつまでも彼の背に揺られていたいと切に願ったあの日のままに、ちらちらと、まばらに舞い落ちる

 小さな雪の結晶を、幻とわかりつつも僕はいつまでも見つめ続けた。



                                                         <終>