Waiting
何にしろ、待つことは僕は好きではない。
心の中で呟きながら、榎木津は、今自分がまさにその好きではない『待つ』行為をしている矛盾をあらためて感じていた。
別に時間をはっきりと約束していたわけではない。が、「今日の午後行きますね」と言った関口が来るのは午後2時のような気がなんとなくしていたので、その2時を回るととても「待たされた」気分になってしまっていたのだ。
なぜ自分は「2時」なんて思ってしまったんだろう。そして、なぜ関口は来ないのだ?午後というのは12時から始まっている。おおまけにまけて2時と思ってやったのに、いったいあの猿はなにを愚図愚図しているというのだろう…
もしかして途中で事故にでもあったのではないか?それともどこぞで倒れているのではないか…と、ここで榎木津はふと我に返って…自分でも笑ってしまった。
大の大人が、たかが中野から神保町までの道のりを自力で来れないわけはない。そして、ここ神保町といえば、関口を引き付ける古書の街である。
どうせ買いもしない古本をあちこちで眺めることに夢中になっているに違いない。
午後といえば確かに12時から始まっているが、24時までは『午後』と言えないことはない。まあ、6時くらいからは「夜」だろうから、あと4時間は「午後」の猶予はあるわけだ。
それでも何となく思っていた「2時」という時間に関口が来ないのは面白くなかった。和寅はずいぶん前に使いに出している。久々の逢瀬であるのに、一分でも一秒でも早く、そして長く自分は会いたいのに。
…関口はそうではないというのだろうか。
そうではないわけではないことは、何より自分がわかっているはずであるのに、時々心臓を掴まれるような不安に苛まれるのは何故なのだろう。
関口の何処か淡白な物言いのせいか−淡白といえば、体を重ねる行為自体も関口は淡白だ。恥ずかしがっているだけなのかもしれないが、余韻を楽しむ間もなくすぐに体を離そうとする。快楽を追求させてやろうと深い行為に入ろうとすると本気で嫌がって逃げようとする。どうしてだ?と一度聞いたことがあるが、そのとき関口は「怖いから」と一言呟いたのだった。何が怖いのかと重ねて尋ねると、少し考えてから「自分が怖い」と言って、それ以上の追求を避けるように自分に背を向けてしまったのだった。快楽に溺れてしまう自分が怖いという意味なのだろうか。単に自分を失うのが怖いのか…。榎木津とて、自分と関口の関係を「普通」とは思っていない。堂々と世間に公表できる種類のものではないことくらいは自覚がある。その上関口は妻帯している。世間体と、自分との関係と−そして何より妻である雪絵の目と−危ういバランスの上に彼の日常は築き上げられているのかもしれない。
そして中禅寺の存在。もしかすると、関口が一番恐れているのは雪絵に自分たちの関係が露呈することではなく、中禅寺にそれを知られることかもしれない。榎木津は中禅寺の全てを見通すようなあの眼差しを思い出していた。
とうに彼には気づかれていることを、榎木津は知っていた、というか、自分自身が宣言したのであったが、関口は未だに彼には何も知られていないと思っている。
関口が何より恐れているのは、それを知った中禅寺が自分を捨てるのではないかということだろう。冷ややかな侮蔑の目線を一瞬浴びた後、二度とその目は自分を映すことはないのではないかということに対する恐怖。関口にとって中禅寺はこの世と自分を繋ぐ礎であるのだから、彼に見捨てられてしまうということは、まさに自分のアイデンティティの崩壊を意味するのであろう。
自分には関口をこの世に繋ぎとめる力が、何故無いのだろう。
そして、何故関口は自分となら何処までも堕ちてしまってもいいとは思ってはくれないのだろうか。自分は関口さえいれば、全世界から背を向けられてしまっても十分生きていけるというのに…。
「やはり待つのは嫌いだ」
榎木津は声に出してそう呟いた。
一緒の時間を過ごしているときには決して思いもつかないような不安が自分の胸を締め付ける。どうして神である自分がそんな感情を持余し、痛いほどに椅子の肘掛を握り締めなければいけないというのだ!
と、その時、彼の耳に階段を駆け上がってくる足音が聞こえた。
あのちょっと調子の外れたような不規則な足音は…
「ごめん、遅くなっちゃって」勢いよく開かれる事務所の扉、飛び込んできたのは肩で息をしながら真っ赤になっているかの想い人であった。
その姿を見た瞬間榎木津は、自分に憑いていた何かが突然に落ちたのを感じた。
「遅い!今何時だと思ってるんだ?!下僕の分際で神を待たせるとは何事だっ!」勢いよく立ち上がり、関口の前まで大股で歩み寄る。
「ご、ごめん。都電が何かで止まってしまって…2時にはつけるはずだったんだけど…」本当に申し訳無さそうにぼそぼそと関口はそう言って、榎木津を見た。
「…え?」榎木津は思わず言葉を失ってそんな関口を見下ろした。
「いや、別に何時と言ってなかったとは思ってたんだけど…」まだぼそぼそと言い訳を続けようとする関口を榎木津は力一杯抱きしめた。
「え、榎さん?」
「何も言うな!以心伝心だなっ!」
一気に自分の気持ちが上昇していくのが自分でも可笑しかった。
2時。
同じ時間を目指していたことが何よりも嬉しい。その為にこんなに息を切らせて来た関口が、榎木津にはたまらなく愛しかった。
「?榎さん?」何が以心伝心なんだい?と問い掛けようとするその口を、榎木津は甘い口吻で塞いだ。
待つのもたまには悪くない。
その反動で会えたときの、この喜びはどうだ?
少し汗ばむ関口の背を抱きしめながら、榎木津は現金にそんなことを思っている自分がまた可笑しくて、ますます激しく関口に口吻たのだった。
<終>