月の光




一体どちらが言い出したことだったのか――思い出せない。
ただ、月が――驚くほどに大きな月が、雲一つない東の空の低いところに、ぽっかりと浮かんでいたあの日の景色だけは、私の脳裏に鮮明に焼きついている。手の届きそうなところに浮かん
でいたあの月の仄白さが、私を狂気へと誘ったのかもしれない。


あの夜――


行為のあと、いつものようにぼんやりと私は、少し開け放された障子の間から夕闇が濃くなりつつある空を見上げていた。
片手を上げるのも億劫でごろり、と寝返りをうつと、既に身繕いを済ませた京極堂と眼があった。
「……どうした?」先ほどまで執拗な愛撫を続けていた男とはまるで別人のようなそっけない調子で、京極堂が声をかけてくる。
「いや……」特段話したいこともなかったので、私はそのまま頭を廻して再び外を見た。
「……そろそろ支度をした方がよくないかい?」千鶴子さんは今日は戻らないと言っていた。私の家で夕食の支度をしているだろう雪絵を思いやっての言葉だろうが、私はまるで『帰れ』と言わんばかりの彼のその言葉に少し傷ついた。
「そうだね……」それでも私は何も言い返すことをせず、のろのろと起きあがった。辺りに散乱していたシャツを拾い上げると、やはり我ながら緩慢な動作で袖を通す。
別にそこまで帰りたくないわけではなかったし、京極堂へのデモンストレーションをしているつもりもなかった。ただ全てが億劫で――

そんなとき、ふと見上げた空の、本当に手の届きそうな低いところに、大きく白い月が見えたのだった。


「月が――」
言葉として発したのか、はたまた心の中で思っただけか――覚えていない。
それで京極堂が私の方へと歩み寄ってきたのだろうから、多分声に出して言ったのだろう。
京極堂は、私の後ろに腰を落とすとやんわりと背中から私を抱き締めてきた。
なかなか支度をしない私が拗ねているとでも思ったのだろうか。私はその手に自分の手を重ねると、違うよ、という意味を込めて彼の手を押し戻そうとした。京極堂はそのままそれを無視して私を抱き締めようとする。無言の数秒の諍いのはずが、いつしか私は力づくで再び床へと押し倒されていた。
黙って見上げた京極堂の顔は影になってよく見えない。着かけたシャツの釦が背中に廻って圧迫された私の背に痛いほどに食い込んでいた。

「……痛いよ」

ぼんやりと、私はそう京極堂を見上げた。抑えつけられた肩も痛い。彼の細い、骨ばった指が更に力を込めて私を床へと押しつける。


「痛いよ……京極堂」私はもう一度、同じ言葉を繰り返した。


京極堂はただ黙って私を見下ろしている。相変わらずその表情は見えなかった。私を床へと押しつける彼の手に益々力が込められる。それがどういった彼の意思の表れなのか、私にはさっぱりわからなかった。
背中に押し付けられた釦が更に肌へと食い込み、その存在を、『痛み』として主張する。
抑えつけられた肩も痛い。
存在の主張――痛みを感じている部分だけが、己の存在の証のような錯覚に一瞬陥ったのは、何故だろう。
驚くほど低いところに浮かぶ白い月が、私の目を眩ませたのだろうか――茫洋とした月の光――気付けば少しもそれ自身は光を発していない白い月――そんな月の姿が己の存在を私に疑わせたのかもしれない。



縛って



どちらが先に言い出したのだろう。自分かもしれないし、言う前に彼が行動にうつしたのかもしれない。



縛ってもいいか



それとも彼が問いかけたのだったか――そして私は頷いたのか――?


気付けば半ば着かけていたシャツを剥ぎ取られ、そのまま両手首までそれを引き下ろされて、しっかりと後ろ手に縛られていた。身体が自然に抵抗するように動くのを、私は人ごとのように感じていた。腕を取られたせいで、今度はうつぶせになった身体を床へと押し付けられる。そのまま再び強く手首の縛めを引き上げられると、頬にあたった畳が少し擦れ、軽い痛みを感じた。途端に私は自分の顔を認識する。私は目を閉じ、不自然に歪められた腕の痛みに、食い込むほどに縛られた両手首に、己の意識を集中させた。


そこだけが私の中で――生きていた。



縛って



今度ははっきりと自分の声を聞いた。



縛ってくれ



痛みだけが――私の存在の証だった。
そしてそれは――歪んだ彼との関係の中で、唯一私が信じることが出来る――


京極堂の手が一瞬止まった。黙って私を見下ろしていた。
私はただ、ふたたびぼんやりと彼を見上げた。
自分の瞳にはぽっかりと穴があいているかのように彼には見えているだろう。


だってまだ瞳は痛くない。
私の瞳は存在していない――


そんな私の瞼を、京極堂の手のひらが覆って瞳を閉じさせた。
目を閉じる瞬間、月明かりの下、彼の表情が一瞬見えたような気がした。
何故かその顔は痛みに歪んでいるように見えた。


彼は存在しているのだ。痛みとともに――


羨望とともに、何故か私の胸も痛んだ。ああ、私も生きている――
身体の痛みはだんだんと麻痺してきているのか余り感じられなくなってきている。



縛って……



眼を塞がれたまま私はもう一度、そう彼に請うた。


私に痛みを与えるその腕を――私は何より欲していた。


京極堂の手が私の瞳から外された。そのまま私の後ろへと廻ると自分の帯を解きはじめたようだった。シュルシュルという音が室内にやけに大きく響いていた。彼が私の脚を掴む。
されるが侭になりながら、私は再び障子の間から空を見上げた。
月が――すっかり暮れきった空の高いところに、先ほどと同じものとは思えない月が、小さくくっきりと、その姿を見せている。


目を刺すような白い光――


私はじっとその月を見上げながら、京極堂が新たに私に与えてくれる痛みを、ただひたすらに待っていた。




K様へ


<終>