シルクの海




「……ロッ!おいっ……!」
遠くで誰かの叫ぶ声が聞こえる。何だろうと思う自分の意識は何処か深い処にある。
「起きロッ!おいっ!マスカマっ」
ああ、僕のことを呼んでいるのか、とぼんやりと気付いたと同時に、そういう呼び名で僕を呼ぶのは彼しかいないと思いつく。
はい、と返事をしようとするのに、僕の意識はなかなか覚醒してくれず、ぽかりと頭を殴られて、漸く僕は伏せていた机から顔を上げることが出来た。
「何でこんな処で寝てるんだ?」茶色の皮の短袗(ジャケット)を着込んだ榎木津が僕の傍らに立っていて、目を開けた僕の頭をもう一度ぽかりと小突いた。
「…ああ、榎木津さん…」我ながら寝ぼけた声でそう返すと、榎木津は
「とっくの昔に帰ったのかと思ったぞ。もう夜中じゃないか」とその美しい飴色の瞳を少し見開いてそう尋ねてきた。
「夜中…」慌てて腕時計を見ると既に2時30分を差している。外のこの暗さから考えるとやはり―――午後二時半ってことは・・・・・・ないのだろうなあ。
僕は深く溜息をついてしまった。またタクシー帰りだ。明朝十時に結果を聞きに来る依頼人に渡す報告書の作成にこの2日殆ど深夜まで追われていたのだ。
実際『探偵』の看板を掲げてはいても、榎木津は滅多にその重い腰を上げることはない。
大抵は話も聞かずに断ることになるのだが、どうしても断れない筋からの紹介状などを持参されると、そのお鉢は全部僕のところに廻ってくるというわけだ。
そうした場合、全て僕一人の手で張り込みから書類作りまでやらなければならないわけで―――この1週間の僕の就労時間は一日平均18時間を越えていたのではないだろうか。
だから漸く全ての処理が終わる目処がついたと思った途端、突然の睡魔に襲われてしまったのだ。最後に時計を見たのが11時だから―――3時間半ほど寝てしまったということか。
「何をぼんやりしている!またくだらない仕事をしてるな?」榎木津が、僕の苦労の結晶の報告書を手にとると、ぺらりとその表紙を捲っただけでまたぽんと僕の机にそれを放り投げた。
「くだらない…って……まあくだらない仕事でしたがね」
僕は苦々しい思いを勤めて隠しながらそう榎木津の端正な顔を見上げた。
確かにくだらない依頼だった。妻の不貞を突き止めて欲しいというその依頼は、実は依頼人本人が離婚したい妻に対して仕組んだ罠だったのだ。証拠の写真があれば慰謝料は必要ないという浅知恵に付き合わされたのがわかった瞬間、僕はキレてしまった。なので報告書にはありのまま、依頼人と妻の不貞の相手が仲良く談笑している写真をトップにもってきている。
………まあ、『紹介状』をしたためた人の顔を潰すことにはなるのだろうが―――それはそれ、榎木津の探偵事務所に依頼をしにきたこと自体が先方の選択ミスなのだから、というより、実際榎木津が動いたとしたらもっと凄い展開になっただろうから、このくらいの傷で済んでよかったと思って欲しいというか………まあ全ては言い訳で、自分のちゃちな正義感を満足させたいが為の行動なのかもしれないけれども。

「くだらないとわかっていながらこんなに夜遅くまで働くお前はほんと、馬鹿だな」
榎木津がそう笑うと、何を思ったか僕の髪にその手を伸ばして来、くしゃ、と軽くかき混ぜた。僕は妙にどきりとしてしまって、ちらとそんな榎木津の顔を見上げ――更に胸の鼓動が高まるのを感じた。

榎木津は―――僕に微笑みかけていたのだ。あまりにも優しげなその表情を、今まで僕は見たことがなかった。

「……なんだ?」僕があまりにもぽかんとした顔で、彼を見上げつづけていたからだろう、榎木津が不審そうな顔をしてそう僕に問い掛けた。
「……いや…確かに僕は馬鹿だと思って…」
自分でも何を言っているのかわからない。何故だかすっかり動揺してしまった僕が呟くようにそう言うと
「お前がそんなに素直だと気味が悪いぞっ」と榎木津は笑って、ぽんぽん、と僕の頭を叩いた。
「いつも僕ぁ素直じゃないですか」漸く落ち着きを取り戻して僕がそういい返すと
「何処が素直だ。お前が素直なら京極の家の石榴の方がよっぽど素直だ」
と榎木津も『いつもの』表情(かお)に戻って、また僕の頭をぽかりと小突いた。
「石榴?」聞き返しながら僕の胸は何故か少し痛む。
「猫だ。猫。あれは主の言うことしか聞かない畏れを知らない猫なんだ」手の甲をひっかかれたことでもあるのか、榎木津が心底面白くなさそうな顔をしながら僕に向かってそう言い捨てる。
「僕は猫以下ですか」ひどいな、といつものように言い返しながら、何故今自分の胸が痛んだのだろうと僕は我ながら不思議に思った。
「以上以下の問題じゃない。お前はマスカマであってそれ以外の何者でもないだろう」
榎木津はそんなわけのわからないことをいいながら、さて、というように視線を入り口の方へと移した。
「……これからお出かけですか?」そういえばこんな時間であるというのに、榎木津はジャケットなどを着ている。
「ちょっとな」少し困ったような顔をして榎木津は笑うと、そうだ、と今思いついたように
「どうせもう電車などないのだろう?今日はここに泊まっていくといい」と僕の肩をばんばんと叩いた。
「泊まるって…」悪戯でも思いついたように煌く彼の飴色の瞳に僕は思わず惹きこまれそうになりながらそう呟く。
「毎晩タクシー帰りじゃあ、お前の貧しい食生活が益々貧しくなる。餓死でもされた日にはたまらないからなっ」と榎木津は一段と強く僕の背を叩くと
「今日は特別に僕の寝台を貸してやる」と言ってにっと笑った。
「……はい?」僕はまたもや言葉を失い、榎木津の顔を見上げる。
「神のベッドを貸してやると言っているんだ。遠慮しないでとっとと寝るといい」
榎木津はそう言うとくるりと踵を返し、
「有り難く思うようにな」と声高にそう言い捨てて、すたすたと部屋を出て行ってしまった。
僕は呆然と、彼の出て行ったドアを見つめた。
『神の寝台を貸してやる』―――ということは―――彼は今日は、ここへは戻って来ないのだろう。
チリリ、と再び僕の胸は小さく痛み―――その胸の痛みから逃れようとでもするかのように、僕は軽く頭を振ると、榎木津の言葉に甘えて彼のベッドを借りることにしたのだった。

榎木津の寝室の扉を開けると、少し淀んだような濃厚な空気の匂いがした。アルコホルか?と薄暗い部屋を、電灯のスウィッチを探しながら見回すと、ベッドの足元にワインの瓶らしきものが転がってるのが見えた。榎木津の様子がいつもと違ったのは酒を飲んでいたからか、と初めて僕はそのことに気付いた。
酒を飲んで―――彼は何を思い、何処へ出かけていったというのだろう。
一度ぱちりと部屋の明かりを灯したが、またベッドに入ってから入口まで電気を消しに来なければならないということに気付いて、また僕は明かりを消し、今つけた目測で寝台までそろそろと足を進めた。賭け布団をはがして、そのままその中へと自分の身体を滑り込ませる。服を脱ごうかなとも思ったが面倒なので靴下だけ脱いだ。明日よれた服で依頼人に応対するのか、と少し憂鬱にはなったがいざとなったら早めに起きて一度家に帰ればいいかと思い直す。
ベッドに身体を埋めると、周囲から一斉に榎木津の香りがたちこめ、僕は息を大きく吸いながら、この香りは一体何に一番近いだろうかなどと馬鹿げたことを考えていた。

榎木津は―――今、何処へ向かっているのだろうか

またその考えが僕の頭に浮かび、酷く眠いはずの僕の意識を覚醒させてゆく。

僕は気付いてはいた。榎木津に無理矢理事務所を空けさせられるとき―――多くは和寅も僕同様家を追い出されるのだが―――この事務所には訪れる人がいるということに。

帰ってくると来客がお茶や珈琲を飲んだ名残があまりにも堂々とテエブルに残っていたりして、そのあからさまさが僕を何故か酷く傷つけていたのだった。

僕は―――傷ついていたのか

今、僕はまさにそのことをはっきりと自覚した。
身体を包む榎木津の匂いが僕にそれを気付かせたのか―――

榎木津はよく事務所をあけた。深夜近くまで残業をしていると、少し酔ったような榎木津が外から帰ってくる姿を見かけることがままあった。
少しだけ不機嫌に、そして何故か少しだけ楽しそうに、榎木津はふらふらと帰ってきては僕には目もくれずにこの寝室へと入ってゆく。

そのとき彼は―――誰とどんな時間を過ごしていたというのだろう



そして


今、榎木津は何処に向かっているのだろうか



『どうして昼寝のためだけに来るかね』
町内中が死に絶えたような仏頂面で心底嫌そうに言い捨てるあの男の処なのか

『やめてくれよ……どうしていつも僕にかまうんだ』
要領の悪さをいつもからかいの餌食にされている、あの小説家の処なのか、それとも

『長ェ付き合いだからって、何やっても許されると思ってやがるな?』
けっと言いながら思い切り本気で殴り合いをする、幼馴染のあの男の処か―――


何故、女の処と自分は思わないのだろう、と僕は思わず苦笑してしまった。彼らの友情は夫々に僕には到底敵わない歳月を経てきている。
それを何故僕は嫉妬するかのように、気にしてしまうというのだろう



僕には到底敵わない―――?
僕は一体何を考えているというのだろう。まるでこれでは本当に―――



嫉妬―――僕は嫉妬しているのだろうか


先ほど、古書肆の飼い猫の話をする榎木津を見てこの胸が少し痛んだのは―――その猫の性質に熟知するほどに飼い主の家へと通っていることへの嫉妬によるものか。


そんな馬鹿な


僕は笑おうとして―――どうしても笑うことが出来ず、敷布へと顔を埋めた。


『ちょっとな』
―――困ったような榎木津の微笑み

飲み干されたワインの空き瓶―――僕達を事務所から追い出し、招き入れる来客。

こんな夜中に―――会いに行く、彼の愛しい―――



いやだ



僕はきつく目を閉じ、彼の残り香を胸に一杯に吸い込むように益々敷布へと顔を埋める。
その肌触りがあまりにもすべらかであることに、何故か酷く傷つくような錯覚に陥りながら、僕はさらさらとこの指をすべるその布を力いっぱい握り締める。
どんなに握り締めようとしてもこの指の間を擦り抜ける―――愛しいシルクの感触


『馬鹿だな』


本当に―――僕は馬鹿だ。
彼を愛しいと思うこの気持ちに―――今頃になって気付くなんて。


僕は大きく溜息をつくと、ごろりと仰向けに寝返りを打った。
いつまでも敷布に顔を埋めていられなくなったからだ。
堪えても堪えても何故だかこみ上げてくる涙が彼のベッドを濡らさないように、僕は仰向いたまま両手で自分の目を覆った。それでも指の間から涙が零れ落ちそうになるので、仕方なく僕は半身を起こし、そのまま自分の膝へと顔を埋めた。

頬に触れた敷布の余りにも優しいその触感と、榎木津が僕の髪に触れたあの彼の指の感触をかわるがわるにぼんやりと思い出しながら、僕は彼の寝台の上で膝を抱え、嗚咽の声を押し殺し、いつまでも涙を流しつづけた。



<終>