小夜曲(serenade)
コツン、と窓に何か当たる音を聞き、中禅寺は浅い眠りから目覚めた。
風かな、と暫し耳をすませると、もう一度コツン、と確かに窓を打つ小石の音がする。中禅寺は溜息をつきながら体を起こした。
榎木津が門限を過ぎても部屋にいないと、寝る前に関口が心配そうにしていたのを思い出したからである。横の寝台を見ると、その関口は起きる気配もなくぐっすりと寝入っている。中禅寺は音を立てぬようにして、自分の寝台から降りると、ゆっくりと窓を開け、下を見下ろした。果たしてそこに立っていたのは、我が一高の帝王、榎木津である。彼はゆっくりと敬礼をするように2階の窓に佇む中禅寺に手をふった。
「……」中禅寺はまた小さく溜息をつくと、身振りで『今、扉の鍵を開けにいくから待っていろ』と示したのだが、榎木津はそれを全く無視して窓辺に枝を伸ばす木に手をかけた。
「危ないじゃないか」小さく叫ぶ中禅寺の声に「大丈夫」とやはり小さく答えると、榎木津はするするとその木を登り、あっという間に中禅寺の立つ窓辺へと到達した。
「開けてやると言っているのに…」階下の榎木津の様子を見て、大分酒が入っているだろうとは思っていたが、実際彼が近くにくると顔を顰めるほどの酒気を感じる。
「舎監が起きる…大丈夫さ」榎木津はそう言うと、中禅寺の横を擦りぬけて、窓越しに部屋へと入って来た。すぐ横を通ったときに、中禅寺は酒の匂いだけではない、あまりにもあからさまな脂粉の匂いを感じ、今度ははっきりと顔を顰めた。そんな彼の表情には気付かぬように、榎木津はふらふらと中禅寺の寝台へと近付くと、そこに身体を沈めた。
「…ここで寝るつもりか?…おい?」一瞬あっけにとられ、中禅寺は榎木津の枕元へと移動し、彼を見下ろす。榎木津は聞こえないふりを決め込んで、ふうっと大きく溜息をつくと寝返りをひとつ打った。
「……寝てないだろ」あきれたような中禅寺の声に、榎木津は片目だけ開けると
「ちょっと休むくらいいいじゃあないか」と拗ねたように彼を見上げる。
「匂いがつくのが厭なんだ」中禅寺は酒が飲めない。匂いですら苦手であった。それを言ったつもりであったのに、榎木津は心にやましいところがあるからか
「匂いなんかつくもんか……朴念仁が偉いなんて法はないぞ」とむっとしたように声を荒立てた。
「しーっ」思わず中禅寺がそれを制する。
「……僕は犬か…」ふん、と鼻で笑う榎木津に
「関口君が起きるだろう…今日も随分あんたを心配していた。そんな姿は見られないほうがいいんじゃないか」と投げやりにすら聞こえるように言ってしまったのは何故なのか。
中禅寺がふとそんなことに気を取られていると、榎木津は小さく溜息をついて
「朴念仁は偉くなんかないぞ」と、呟くような小声でそう繰り返した。
「……酒の匂いが駄目なんだよ。僕は」漸く榎木津の意図に気付いて、中禅寺がそう言葉を足す。
「……酒は僕が金で買って飲んだものだ。女は僕が金で買って抱いたものだ。何の文句がある?」榎木津が珍しく絡んできた。中禅寺はそっと後を振り向き、関口を見た。彼が目覚める気配はない。
「……あんた、何をそんなに荒れているんだ?」
「荒れてなんかいないさ」榎木津はそう言うと、天井に向かって手を差し伸ばした。
「金で買った女が、僕に向かって言うんだ。坊ちゃん、好き。愛してる。大好き…何人も何人も、僕に向かってそう囁くのさ」
「そりゃ結構なことだ」榎木津が何を言いたいのかを掴めずに、中禅寺がそう言い捨ててしまったのは、彼の身体から立ち昇るアルコホルと脂粉の匂いのせいだったかもしれない。
中禅寺の知っている榎木津はこうではなかった。酒も飲むし女も好きだったが、こんな風にその匂いに塗れている自分を曝け出すような男ではなかった。酒も女も彼の、何といおうか、支配化にあって、彼をこんなにも支配しているようなケエスは今まで見たこともなかった。
彼は一体、何を求めて……いや、何から逃れようとしているのだろうか……
「そうさ、結構なことだ。愛してる、好き、愛してる……」自棄になったような声で榎木津がそう、女の嬌声を真似る。このままでは関口を起こしてしまう、と中禅寺が彼を制しようとその肩に手をかけようとしたそのとき
「……欲しいのはそんな言葉じゃない」急に力ない声で、榎木津はそう言うと、伸ばした手を下げ、己の顔を覆った。
「……」中禅寺の手が止まる。榎木津はその手で顔を覆ったまま小さく
「……欲しいのは…その言葉だ」とさっきと反対のことを口にした。
「……あんたは……」思わず中禅寺の口から言葉が漏れる。
「欲しいのは……その一言だ」榎木津は相変わらず顔を覆ったままである。小刻みにその手が震えているのは何故なのか――中禅寺はわかっているだけに、敢えてそんな彼から目を反らせた。
「どうかしている」他に言葉がなくて中禅寺はそう小さく呟くと、寝台から少し離れた。
「誰からでもない…僕が欲しいのはその一言だ」自嘲気味に笑うと。榎木津はふと手をその顔から退け、
「言っておくが、お前に言われたいわけじゃあないぞ」と中禅寺を見た。
その頬に泪がないことに中禅寺は心底ほっとして
「そんなことは猿でもわかるさ」とつい軽口を叩いてみる。
「サルにはわからないんだよ」榎木津はそう笑うと、またその手で己の顔を覆った。
そういうつもりで言ったわけではなかった、と中禅寺は言おうとして――何と言っていいのかがどうしても分からず、そのまま黙って榎木津を見下ろし続けた。
榎木津が何よりも欲するその一言を言うべき相手は今、彼のすぐ傍らで安らかな寝息をたてている。
榎木津がごろり、とそんな彼とは反対の方に寝返りを打った。中禅寺からもその顔を伺い見ることは出来なくなった。
押さえきれぬ想いに苦しんでいるのは、あんただけじゃあないんだ
中禅寺はそれを榎木津に伝えたい、と思ったが、伝えたところで互いの苦しみが相殺される筈もないこともわかりきっていたし、何より既に榎木津はそれを察しているのだろうと――だからこの窓辺に立ったのであろうと、思わぬでもなかったので、敢えて何も言わずにそんな彼の背中を見つめ続けた。
やがて榎木津の背が、規則正しく上下するのを見届けると、中禅寺は彼が目覚めたときにきっと何より欲するであろう、一杯の水を汲むためにそっと部屋を抜け出した。
欲しいのはその一言だ
臓腑を抉るような榎木津の言葉が、いつまでも中禅寺の耳について離れない。
発散する術を知っているだけに、それを仕損じたときの彼の心の痛みを思い、中禅寺は一人溜息をついた。
せめて目覚めたときには彼の身体に纏わりつく甘き脂粉の匂いだけでも消えていて欲しい――見ることがかなわなかった彼の寝顔を思いながら、中禅寺はそう祈らずにはいられなかった。
<終>