理 由
言葉で文章を綴ることを生業としているのに、一番大切なときに役に立たないのはどうしたことか。
関口は大きく溜息をつき、空を見上げた。凍てつくような寒さの中、満天の星がその各々の輝きをくっきりと際立たせていて、文字通りの「降るような星空」に思わず圧倒される。
神保町の古本屋街はすっかり店仕舞いを済ませており、往来を歩く者は既にいない。遠くを走る都電の音に関口はふと我に帰り、再び駅へと足を進めた。
『関はどうしてここにいる?』
榎木津の声が甦る。
――そのとき彼はどんな顔をしていたのだろうか。
* * *
夕方榎木津の事務所を訪ね、今まで彼の部屋にいた。
別に用があったわけではない。白い原稿用紙を前にごろごろとしている関口に、雪絵が気分転換を勧めてくれたからだった。単に掃除の邪魔だったのかもしれない。
京極堂を訪ねようかとも思ったが、少し足を伸ばして神保町の古本屋街を冷やかしながら、久々に榎木津の事務所を覗いてみようと思い立ち電車に乗った。古本屋を数軒周り、たいした収穫もないまま陽が殆ど沈んだ頃に榎木津ビルヂングを訪ねると、榎木津は一人退屈そうにしていた。聞けば和寅は実家の方へ使いに出されているらしい。
「そうか……」途端に居心地が悪くなるのを関口は感じた。榎木津が一人でいると知っていれば訪ねはしなかったのに――そんな思いが顔に出たのかのだろうか、榎木津は
「別に何もしやしないさ」と少し拗ねた口調でそう言うとそっぽを向いた。
榎木津と身体の関係をもつようになって数ヶ月たつ。切欠は何であったか――ともかく榎木津は、学生時代から関口のことが好きだったらしい。そういう眼で見られていたという事実に関口はうろたえ、拒むことも忘れてそのまま流れに飲みこまれていってしまったようなものであった。身体を合わせることに対する不快感や嫌悪感はなかった。疼痛にもやがて慣れ、今まで感じたことのない快楽の芽生えすら感じはじめていたのだが、常に払拭しきれない罪悪感から逃れることは出来なかった。
同性であるとはいえ、言わば妻を裏切っている行為なのであるからそれは当然の気持ちなのかもしれないが、何というかもっと観念的なものに対する贖罪の気持ちの現れなのかもしれない。が、相手の榎木津にそういうじめじめした思いに捕らわれているような様子がまるで感じられないのが関口自身の救いにもなっていた。彼なら例え犬を娶ったとしても堂々と頭を上げて生きていくのだろう。それはそれで羨ましくもあったが、自分には到底達し得ない域であるということも関口は充分承知していた。
だから関口は、榎木津と二人になることに少し躊躇いを感じるのである。榎木津の求めるままに身体を重ねながら、自分は一体何をしているのだろうという気持ちになってくる。希臘の彫像のような榎木津の美しい肢体に羨望の眼差しを向けることは出来ても、その下に組み敷かれる自分の貧相な肉体からは眼を逸らしてしまう。榎木津の与えてくれる快楽には溺れるが常に頭の何処かで『これでいいのか』と囁く己の声を聞いているのである。
幸いなことに榎木津宅には常に和寅が、関口宅には雪絵がいることから、二人きりになる機会――行為に及ぶ機会はそうなかった。二人きりになると榎木津は常に関口を求める。まるで学生時代からの十何年を埋めようとするかの如く、近く近く身を寄せようとするかの如く――それに対する嫌悪感はないにしろ、関口はやはり戸惑わずにはいられないのであった。
「別に……そういう意味じゃあないよ」拗ねられるとどう返していいのかわからない。関口とて、決して「嫌や」ではないのである。それがどうにも上手く伝わらない。
「じゃあどういう意味なんだ?」珍しく探偵は絡んできた。余程退屈しているのか、はたまた機嫌が悪いのか――関口はなんとなく嫌な予感を覚えながら
「僕は何も言ってやしないじゃないか」と口の中でぼそぼそと呟いた。榎木津は何も言わない。沈黙が妙に重い。
「関はどうしてここにいる?」榎木津のこの不意の問い掛けに、関口は思わず言葉を失い、その場に立ち尽くした。
「どうして今日ここに来たんだ?」何も言わない関口に更に榎木津は問いを重ねる。
再び沈黙が彼らを襲った。
『どうして』――
自分はどうしてここにいるのだろう?
榎木津がゆっくりと近付いて来た。関口は動けなかった。榎木津の手が、関口の後ろ髪に伸びる。いつもと違う乱暴な調子で髪を掴まれ、上を向かされたかと思うと次の瞬間には口唇を奪われていた。
「……!」痛い、と思った。
口唇を重ねているだけであるのに。いつもより激しく口吻けられているだけであるのに、その口吻は何故か――痛かった。
思わず榎木津の胸に手をついて身体を離そうとする。と、思いの外簡単に榎木津は口唇を離した。
「……そんな目で見るな」少し掠れた榎木津の声。自分はどんな目で彼を見ていたというのだろう。見返す榎木津の顔は苦渋に歪んでいるように見える。
「榎さん……」思わずその名を呼ぶ関口に背を向けると、榎木津は
「……もう帰ったほうがいい。雪ちゃんが待ってるんだろう」と何事もなかったかのような声でそう言った。
そして――
何故、自分はそのまま彼の許を辞してしまったのだろうか。
関口はまたひとつ、溜息をついた。寒さは関口の外套を通り越してその貧相な身体に染み入ってくる。運ぶ足もおぼつかなくなってくるのはこの寒さによる為だけではなかった。堪らず関口は再度立ち止まった。
『関はどうしてここにいる?』
どうして――理由を考えたことなどなかった。
抱かれることを求めてか。いや、
どうして自分は榎木津に抱かれるのだろうか――
『好きだから』
心の中で自答しながら、余りにも嘘くさく感じることに唖然とした。
自分は榎木津を好きなのだろうか。
世間の常識に背を向け、人に知れたら禁忌と眉を潜められるような関係を持つほどに、自分は彼に惹かれているのだろうか。
好き、なのだろうか
今まで、まるでそんなことを考えていなかった自分に、関口は愕然としていた。
言い訳はいくらでも出来る。
榎木津が強引だったから
榎木津が十数年も自分を思いつづけていたと告げたから
榎木津が切な気に自分を見つめたから
榎木津が――
関口の頭に、ふと先程の榎木津の掠れた声と、苦しげに歪められたその顔が甦った。
榎木津が――
関口の背に一陣の風が吹きつける。
ぞくり、と関口の背に悪寒が走った。同時に胸を締め付けられるような痛みを感じる。
家に帰らなければ――風邪をひいてしまう。
ぼんやりとそんなことを思ったのは、本当に考えなければならないことから目を逸らしたかっただけにすぎない。関口は駅への一歩を踏み出そうとした。が、足は動かなかった。
榎木津の顔がまた浮かぶ。美しいその眉を苦し気に顰め、何かに耐えているかのようなその顔が――
ぽたり、と関口の足元になにか落ちた。
同時に頬に暖かいものを感じ、思わず外套のポケットから手を出し触れてみる。
自分が涙を流していることに、漸く関口は気付いた。
「榎さん……」心の中で呼びかけた筈なのに、関口の口からその名が声となって漏れる。
「榎さん……」自分に背を向けた榎木津の後姿が関口の脳裏に甦る。
何故自分が泣いているのか、関口にはわからなかった。
帰らなければ――
気付けば関口は踵を返していた。殆ど駆けるようにしてもと来た道を引き返す。冷気が肺に入って息苦しくなったが、構わず関口は駆け続けた。
『どうして――』
先程辞したばかりの榎木津の事務所が見えてきた。関口はそのままその中へと駆け込んだ。
階段を駆け上がり、勢い良くドアを開ける。
灯りもついていないその部屋の窓辺に佇んでいた榎木津が、その音に驚いたように振り返った。
「関……」
「……っ」言葉を発しようとしたのに、息が上がってしまって声にならない。ハアハアという自分の息遣いと、激しく脈打つ自分の心臓の音だけが関口の耳に響いていた。
「……どうした?大丈夫か?」榎木津が関口のいる入口のところまで歩み寄ってくる。
「……り、りゆうはわからないけれど」漸く声が出た。堰を切ったかのように言葉が口から零れ落ちる。
「関……?」
「ここにいたいからいるんだ。来たいから来たんだ……僕は……」あとはまた言葉にならなかった。息が苦しい――関口は肩で息をしながら、更に言葉を続けようとした。と、
「……喋るな」榎木津の腕がそんな関口を優しく抱き締める。
「……僕は……」それでも言葉を続けようとする関口に、榎木津は
「喋るな……もういい」と、微笑み、関口の呼吸を邪魔しないようにそっとその手を彼の背に廻した。少し潤んだような榎木津の声が関口の耳に、心に響く。
暖かい――関口は思わず眼を閉じた。
と、何故だかまた胸に迫る思いを感じて、関口は思わず絶句する。
いい年をして、何故に自分は泣いているのだろう
必死で涙を堪える関口の髪を、榎木津の細い指が優しく梳いた。
「理由などいらない……関がここにいればそれでいい」
榎木津の囁きがまた関口の涙を誘う。
こみ上げてくる涙を持て余しながら関口は、自分が榎木津が微笑んでいたことを何より安堵していることにだけは気付いていた。
その理由を自身に説明することすら、そのときの彼には叶わなかったのだけれど――
<終>