お年始
「タツさん、支度はできまして?」
晴れ着に身をつつんだ雪絵が、関口が着替えをしていた居間へと入ってきた。
「あらあら、もっとしゃきっとお召しなさいな。せっかくお正月用に仕立てたんですから」
雪絵は苦笑しながら関口の着付けを直してやる。今日はきちんと化粧をしているからだろうか、いつもの疲れたような様子はなく、彼女の少し紅潮しているような頬に、黒く輝く瞳に、思わず関口は見惚れた。
「いやあねぇ、何をぼんやりしてるんです?早く出かけましょう。」ぱんぱんと関口の背中を叩くと、雪絵はそう笑う。
「う、うん」本当ならば、「綺麗だよ」の一言でも言ってやったらどんなに喜ぶだろうかとも思うのだが、どうにもそういうことが苦手な関口は、いつものように胡乱な返事をすると、雪絵の後について玄関へと向かった。既に卸立ての下駄も三和土(たたき)に揃えてある。隣の雪絵の草履は、去年の年始の挨拶に履いたものと同じなのではないだろうか。
身につけている晴れ着ももう何年も前に仕立てたものであろう。関口は下駄を履きながら自分の卸立ての着物を見た。今朝、目が醒めたとき、枕元にあったこの着物。びっくりして台所で雑煮をつくっている雪絵のもとに走ると、雪絵は
「安く反物が手に入りましたの。タツさんに似合う色だなあと思って」とにっこり笑い、「今年も宜しくおねがいしますね」とぺこりと頭をさげたものだから、関口はきちんと礼を言うきっかけを逸してしまい、
「こちらこそよろしく」とぼそぼそ口の中で言うと、同じようにぺこりとお辞儀をするという間抜け振りを晒したのであった。
玄関を出てふと振り返ると、門柱にきちんと松も括り付けられていて、それも昨日自分が原稿用紙を前にごろごろしている間に雪絵がやってくれたのだろうと思うと、関口は申し訳なさのあまりいたたまれないような気持ちになってくる。思わず
「雪絵」とその背中に呼びかけたが、雪絵がくるりと振り返り自分を見て小首を傾げると、うまく言葉が出て来ずに、「すまない」と聞こえないような声でつぶやくことしか出来なかった。
「いやあねえ。元旦から謝るものじゃあないですよ?この一年、謝りっぱなしになりますよ」と雪絵は声を上げて笑うと、さあさ、急ぎましょう、と関口を促した。二人はこれから京極堂に年始の挨拶に行くのである。毎年自宅でお屠蘇をすませると、いの一番に京極堂へと向かう。そこで店主とその細君と4人で連れ立って、初詣へと向かうのがここ数年来の習わしとなっていた。今年も彼はあの仏頂面で出迎えてくれるのだろう。また正月早々小言のひとつも貰うかもしれない。が、関口は毎年のこの行事を可也気にいっていた。仲の良い細君同志のはしゃぐ様を見るのが楽しいというのも勿論その理由ではあったのだけれど、何より京極堂に会わずしては、新年を迎えたという気がしないのである。
目眩坂を息を切らせないようにゆっくり昇ると京極堂はすぐそこであった。と、雪絵は急に関口の後ろへと回ると、
「タツさん、先に行って下さいな」と笑いを堪えたような声でその背中を軽く押した。
「急にどうしたんだい?」不審がる関口を、
「お年始の挨拶は旦那様がするものだもの」と、雪絵は強引に納得させると、参りましょうよ、と関口の背を再度押した。何だか符に落ちないままに、関口は京極堂の玄関の引き戸を
「ごめん下さい」と開く。はあい、という細君の声がし、さあ、あなた、早く早く、と急き立てている様子が聞こえてくる。と、部屋から出てきた京極堂の姿をみて、関口は唖然として立ち尽くした。京極堂もまた唖然とした顔で関口を見ている。なんと、彼の身につけている着物は関口のそれとまるでお揃いなのであった。
「な……」年始の挨拶も忘れて関口が絶句する。と、後ろで堪え切れないといった感で、雪絵が笑い始めた。京極堂の後ろにいた千鶴子も笑い転げている。
「なんだ。示し合わせたのか」先に口を開いたのは京極堂だった。
「な……?」まだ失語中の関口が、笑い転げる細君達をかわるがわる見たあと、京極堂へと目をやると、彼は相変わらずの仏頂面で
「君とお揃いの着物を着ての正月とはね。先が思いやられるな」とぶすりと言い、さっさと上がったらどうだね、とくるりと関口に背を向けた。
慌てて関口は下駄を脱ぐ。雪絵と千鶴子は、「あの顔、見まして?」「うちのお地蔵さんのあんな顔、久々に見ましたわ」と、まだけらけらと笑っていたが、関口が「お邪魔します」とぼそぼそと言いながらあがろうとすると、千鶴子は
「ごめんなさいね。さあ、どうぞ」と笑いすぎて涙の滲んだ眼のままに彼を座敷へと誘った。
いつまでもくすくすと笑っている細君達は、おせちの支度をしますね、と台所へと引っ込んだ。関口は正月だというのにいつもと変わらず火鉢の前で本を読んでいる京極堂の前に一人、ぽつんと座ることを余儀なくされた。
それにしても――まるでお揃いの藍色の着物。あの悪戯っぽい雪絵の瞳を思い出し、やられた、と関口は思いながらもこうして2人対座しているとやはり笑いがこみ上げてくる。
思わずくすり、と笑うと京極堂は読んでいた本から眼を上げ
「何が可笑しいんだい?」と関口を見た。
「いや、さっき僕を見たときの君の顔を思い出して…」京極堂が唖然としているところなど、滅多に見られるものではない。流石は我が細君達である。関口はどうにも笑いを抑えることが出来ず、そこでまた吹き出した。
「ふん、おかしいと思ったさ。千鶴子がいやに今朝からそわそわしていたからね」照れ臭いのか、ぶすりとそう言うと京極堂はまた本に視線を戻した。が、ふと関口に眼を止めると、
「相変わらず君は着付けが下手だな。もう着くずしている」と関口の方に身を乗り出してきた。
京極堂の手が関口の襟元に触れる。京極堂の袂と関口の袷、まるで同じ生地が関口の胸の上で一瞬重なった。新しい反物の匂い。どきり、と関口の胸が高鳴った。
「しかしお揃いとはね」京極堂の眼がいつもより優しい光を湛えて関口を見る。関口の鼓動は更にあがった。
「…ごめん」つい呟く関口に
「君が謝ることじゃないだろう」と京極堂は微笑むと、関口の耳に口を寄せて
「着物の取り違いにだけは気をつけなければいけないな」と囁いた。
耳にかかる京極堂の息が関口をますます赤面させる。と、ここで関口は京極堂の言葉の意味に気がついた。
「な…なんてことを!正月早々君は…」思わず声がひっくり返りそうになる関口を
「一体君は何を考えているんだい?」と意地悪い眼で眺めながらも、京極堂は関口の頭を軽く引き寄せると、掠める様な口吻をその口唇へと落とした。
「……」関口は赤面したまま、呆然として京極堂を眺めている。
「今年も宜しく」京極堂はそう微笑むと、再び自席へと身体を戻した。
「…今年も宜しく」関口が小さな声でそう返したそのとき、
「あけましておめでとうっっ」玄関の引き戸を思いっきり開けきる音がした。あの声は…
…京極堂と関口が顔を見合わす。
ぱたぱたと廊下を走る千鶴子と雪絵の足音がする、と、それを待たずに座敷の襖がばたんと開いた。
「……なんだ?」立ち尽くすのは、藍色の着物を身に纏った榎木津である。京極堂も関口もその姿に言葉を失った。なんと、彼の着物もまた
「お、お揃い?」関口が唖然としてそう呟く。
榎木津の後ろで、再び千鶴子と雪絵が弾けたように笑い出した。
「なんだなんだ、千鶴ちゃんがプレゼントしてくれた着物は馬鹿本屋と猿君とお揃いだったのか?」榎木津がそんな2人を振りかえりながらそう尋ねる。千鶴子は笑って答えることが出来ない。ごめんなさい、と笑いながら、また雪絵と連れ立って台所へと消えた。
「なんだか漫才師みたいだなっ」とつられて笑いながら榎木津は関口の顔を見る。と、急に顔色を変え
「ずるいぞっ」と叫ぶと京極堂に目線を移した。
え?と関口が問いただす間もなく
「今年の『初めて』は僕だって狙っていたんだぞっ!」関口を指差す。
もしや『見られた』のか、と関口は真っ赤になって榎木津と京極堂をかわるがわる見ることしか出来ない。
「何を馬鹿なことを言ってるんです」少しも慌てず京極堂が榎木津を見上げた。
「……『姫はじめ』は渡さんぞ」関口を指差したまま、榎木津は不適に笑って京極堂を見返す。
「……!」意味わかって言ってるんですか、と関口は思わず大声を上げそうになったが、そのとき、千鶴子と雪絵がおせちを手に座敷へと入って来てしまったので、慌てて言葉を飲みこんだのだった。
「おお、千鶴ちゃん手作りのおせちだなっ」それに気付いた榎木津が、嬉しげに声を上げる。なんだかほっとして、関口はちらと京極堂を見た。京極堂は、やれやれ、といった表情で関口を見返すと、少し肩をすくめて見せたのだった。
「ほんと、壮観ですわ。ああ、可笑しい」
おせちを並べ終え各々の席へとついたあと、千鶴子がお揃いの着物に身を包んだ3人を見渡してそう笑う。雪絵もまだくすくすと笑っている。
こんな正月もたまにはいいか
楽しげな細君達の様子も嬉しくて、関口は心の中でそう呟きながら、あの唖然とした京極堂と榎木津の顔を思い出し、一人笑いを噛み締めていた。
<終>