夢の逢瀬
〜かーこ様に捧ぐ〜


抱き締めてしまえばよかったのかもしれない−。中禅寺は、ぼんやりと、客人が帰った後に残された、不細工に曲がった座布団とその前の飲み干された湯呑み茶碗を見つめながら、そう心の中で呟いた。
客と言っても、先ほどまで目の前に座っていたのは榎木津であった。いつものように、何の前触れもなく店に現れた彼は、中禅寺の仏頂面に臆することなく、話があるから座敷へ通せ、どうせ客なんぞ来ないのだから「骨休め」にしろ、などと好きなことを抜かしていたのだったが、渋々ながらも中禅寺が言われた通りにして、実際に座敷で向かい合うと、急に榎木津の口は重くなった。
「さっきから茶ばかり飲んでるが、話というのは何だい?」
しびれを切らせた中禅寺であったが、同時に心のどこかで、聞かないほうが身のためだ、という声をも聞いていた。必要以上にいらついているのはその為だ。
果たして榎木津は、何杯目かの出がらしの茶を飲み干すと、中禅寺が最も聞きたくなかった言葉を口にした。
「関を抱いた」
一瞬言葉の意味がわからなかった。次の瞬間、文字通り血の気が全身から引いていた。思わず彼は、読むでもなく膝に置いたままにしていた本の背表紙を掴んだ。
榎木津は、もう一度、ゆっくり同じ言葉を繰り返した。
「昨日、関を抱いた…無理矢理じゃないぞ。関もそれを望んでいた」
「なぜ…」中禅寺は震える声を必死で押さえようとしたが、あまり旨くはいかなかった。
「なぜそれを…わざわざここに言いに…」
自然と視線が下へと落ちる。榎木津の表情を見る余裕が中禅寺にはなかった。
「…わかっているはずだ。理由など」榎木津の声も硬かった。二人は暫し無言で、決して目を合わせることなく対座していた。
最初に沈黙を破ったのは中禅寺の方だった。
「榎さん、あんたや、関口君が何をしようが僕の知るところじゃあない…大体、関口君は承知しちゃいないだろう。僕に…」榎木津に抱かれたことを知られることを−と続けようとして、流石に言葉に詰まった。榎木津に抱かれる−関口の細い肩が中禅寺の頭にふと浮かんだ。いつも斜め後ろから見下ろしていたその肩を、榎木津の力強い腕が抱きしめたというのか−。脆く崩れ落ちそうな関口の俯いた項に口吻ける榎木津の姿を想像し、中禅寺は言いようのない憤りを感じている自分に愕然としていた。
「…関には黙ってきた。お前にだけは知られたくないだろうからな」榎木津が自分を見つめているのを、俯きながら中禅寺は感じていた。が、どうしても顔を上げることはできなかった。関口を抱いたというその顔を、今は絶対に見たくはなかった。
「…用がすんだら帰ってくれ。何にしろ、僕には関係のないことだ」
拳が白くなるほどに、膝の上の本を握り締めていることに気づいた。中禅寺は、榎木津に気付かれないようにそっとその手を外し、震えそうになるのを押さえながらゆっくりと本を開いた。そのままその本に視線を落とす。
「一応、義理は通しておこうと思っただけだ…永年のな」そう言うと、榎木津は立ちあがった。
「それに、僕はこそこそするのは好きじゃないんだ」去りしなに振り返りそう言うと、榎木津は部屋を出て行った。

それからずっと、中禅寺はぼんやりと榎木津の残した湯呑みを見つめているのであった。
榎木津が関口を−なんと言うか、友人として以上に好いていることは、中禅寺にも見てとれた。関口が果たして榎木津を、榎木津が彼を想うように好いているかどうかということはわからなかったが−。
いや、わかっていたのかもしれない。関口が榎木津を見上げる眼差しに、憧憬以上の想いが篭っていることに、随分前から自分は気付いていたのではないだろうか。
気付きながらも、決して関口は「そちら側」の人間になることはないと、どこかで安心していたのかもしれない。常識の範疇から逸することを畏れ、ぎりぎりの縁で此岸に留まることで自分の存在を何とかこの世に繋ぎとめようとしているような弱さが関口にはある。
深淵たる闇に何度も落ち込みそうになる彼を、その度に引き摺り上げ、自分の足元に蹲る彼に、それ以上は決して手を貸すことなく自ら立ちあがるのを見下ろし続けていた自分。懇願の眼差しに気付きながらも、そこで手を差し伸べることで、彼が自分なしには生きていけなくなるのではないだろうかと畏れて、厳しくただ見下ろしていた自分−。
…のろのろと関口は立ちあがる。そして再び歩き始める。
昔から何度となく繰り返されてきた。その度に中禅寺は、蹲る関口を抱き締めてしまいそうになる自分を押さえてきた。関口が生きていく為に、自ら此岸との繋がりを模索させる為に−。

だが−

抱きしめてしまえばよかったのかもしれない。

畏れていたのは自分。関口を抱きしめることで、今まで以上に彼に溺れてしまう自分。関口の陥る深淵の闇に共に引き摺り込まれそうになる、というよりは、敢えて引き摺り込まれようとするであろう自分−

此岸に執着しているのは、まさに自分なのではないか。


ふと気づくと、中禅寺の前には何時の間にか関口が座っていた。いつものように案内も請わずに上がりこんできたのだろうか。中禅寺は少し狼狽した。
「…関口君」
「どうしたんだい?京極堂?ぼんやりして」
君がぼんやりするなんて、珍しいね、と関口は屈託なく笑う。
「誰か来ていたのかい?茶碗が出しっぱなしだ」
そんな関口を見ているうちに、残酷な想いが中禅寺の胸に沸起った。
「ああ。榎さんがね。さっきまで」
「え?」途端に関口の表情が少し強張る。その頬に朱が走るのを見て、中禅寺の気持ちの中で何かが切れた。
「君たちは昨日同衾したそうじゃないか」
「きょ、京極堂!」驚いて関口が中禅寺を見る。
「榎さんがわざわざ知らせに来たぜ。…個人の嗜好をどうこういう積もりはないが、驚いたね。君が男と、それも長年の友人の榎さんと…」
「やめてくれ!」関口は、中禅寺の言葉を遮ろうと彼に向って来た。その腕を中禅寺は捕らえ、関口の顔を見下ろした。
「離せ」目が合うと関口は羞恥のためか眉を寄せて下を向いた。その表情がまた中禅寺の征服欲を刺激する。
「…男に抱かれるというのはどんな気分だったかい?」
言いながら中禅寺は関口の身体を引き寄せた。
「離せ!」
「抱かれて君は、どう感じたんだい?苦痛かそれとも−」
「君がそんなことを言うなんて!」関口は真剣に中禅寺の腕を振り解こうと抗っている。そのことに必要以上に自分の胸が痛んでいることに気付いて、益々中禅寺の苛立ちは募った。
「君は僕がどんな人間だと思っていたと言うんだい?関口君。僕だって血の通った人間なんだぜ?」
「誰もそんなことを聞いちゃいない!手を離してくれ!」関口の声に恐怖が混じっていた。
「君を抱きたかったのは、榎さんだけじゃない」いいながら一層強い力で中禅寺は関口を抱き寄せ、抱きしめた。
「…京極堂?」関口の身体から一瞬力が抜ける。
中禅寺は何も言わずにただただ、初めて自分の腕の中に抱いたその愛しい身体を強く強く抱きしめた。
「…京極堂?」関口が、小さな声でまた自分の名前を呼ぶ。
「好きだ…関口君」


「あなた?」突然の声に、中禅寺は眼を開いた。
気付けば灯りなしには本も読めないほど、部屋は薄暗くなっている。自分を心配そうに見つめる千鶴子の顔と、目の前の出しっ放しの湯のみ茶碗とをかわるがわるに見つめ、中禅寺は溜息をついた。

夢か−。

「こんなところで転寝なさるなんて…風邪をひきますよ?」笑いを含んだ千鶴子の声に、中禅寺は、ああ、と何事もなかったように頷いた。
「榎木津さんが来ていらしたんですね。夕食まで召し上がっていくと思って買い物にいったのだけれど、もうお帰りに?」
「ああ。毎度毎度、うちで飯を食われちゃあたまらない」
「まあ、まさかそれで追い返したわけじゃあないでしょうね?」笑う千鶴子と日常の会話を続けているのが苦痛になってきて、中禅寺は「ちょっと散歩に出てくる」と立ちあがった。
まもなく夕食ですよ、という千鶴子の声を背中で聞きながら、中禅寺は家を後にした。自然と足は眩暈坂を下って行く。

…夢か。

はっきりと腕の中に抱いたはずの関口の感触を、中禅寺は思い出そうとして−馬鹿馬鹿しい、と自嘲気味に笑った。
関口を抱きしめる、その勇気が自分にあれば、状況はかわっていたのだろうか−。
関口が自分を見つめる「懇願」の眼を思い出しながら、中禅寺はふとそう思った。
関口は自分の手を求めている。常に。世の中と自らを繋ぐ礎として−
その関口を抱きしめることは−自分には可能だったのではないだろうか。
どこまでも一緒に陥ちてゆく勇気さえ持ち合わせていたのなら−

ふと、前方に、坂を登ってくる人影を見とめて中禅寺は眉を寄せた。深い夕闇の仲、見覚えの有るシルエットが近づいてくる−。向こうは下を向いたままであるのでまだ中禅寺には気付いていないらしい。中禅寺の足が止まった。その様子に、やっと顔を上げたその人影は−
「京極堂じゃないか…今、君のところへ行こうとしていたんだぜ」
「関口君…」
坂を登ってきたために少しあがった息の下、先程夢に見た関口の声がする。
「出かけるところなのかい?」
「いや、散歩だ」動揺を隠して、中禅寺は関口の横に並んだ。
「こんな夕食時に散歩かい?」
「そういう君はなんだい?こんな時間に…」おうむ返すと、関口は少し困ったように下を向いた。その顔を横目で見ながら、足だけは今来た自宅へと引き返す。
「…君の顔が見たくなっただけだよ」小さな声で関口はそう呟くように言った。
「…」なにか皮肉めいたことを言おうとしたが、つい言葉を失ってしまった。
「家には寄らずに帰るよ。丁度夕飯だろ?」
「うちで食べて行けばいい」
「うちも雪絵が支度をしているから…」ぽつぽつと会話は続くが、肝心なことにはお互いに触れていないことが痛いほどにわかっていた。
「…何があったんだい」もうすぐ家につく、数メートル手前でやっと中禅寺はそう関口に問い掛けた。
関口の足が止まった。中善寺も歩くのをやめる。
関口がじっと中禅寺を見上げた。その眼差しに、中禅寺は見慣れた「懇願」の色を見た。
「僕を…救ってくれ」本当に関口がそう言ったのかはわからなかった。中禅寺は一歩関口に近づいた。
関口はその眼でじっと彼を見つめ続けている。中禅寺はゆっくりと、彼の身体を抱き締めた。
一瞬関口は身体を強張らせたが−やがてやはりゆっくりと、そのまま中禅寺の腕の中に身を預けてきた。
「ずっと…抱き締めて欲しかった」中禅寺の胸に顔を埋めている関口の声が、文字通り胸に響いて聞こえる。その背をますます力強く中禅寺は抱き締めた。
共に陥ちてもいい−こうして彼を腕の中に得た今となっては−
不思議と後悔はなかった。彼を失うことの方が恐かった。
彼を失う−?失ってしまったのではないのか…?
昼間訪ねてきた榎木津の姿が中禅寺の脳裏を過った。
そして−


「夢か…」
中禅寺は布団から身体を起こした。
重ねて夢を見たのか−せめて全てが夢であって欲しかった。
榎木津が訪ねてきたのは現実だ。その後めずらしく少し晩酌の酒が過ぎたのか、服も着がえずに布団に倒れこんでしまったらしい。

「夢か」思わず同じ言葉を呟いていた。
腕に残った、関口の体の感触と、胸に震動として響いてきた彼の言葉がまざまざと甦り−
中禅寺は両手に顔を埋めた。

涙は出なかった。いつまでも胸の痛みだけが彼の中に消えずに残っていた。

<終>