Missing…
外はもう空が白み始めていた。始発の動き出す時間だと彼がごそごそと支度を始めたとき、僕はわざとまだ眠い振りをしながら毛布を頭の上まで引き上げ、決して寝台を下りようとはしなかった。
泊まる筈じゃなかったのに、とでも言いたげな彼の裸の背中にぽっこりと浮かび上がる肩甲骨を見ながら、心の中で悪かったなと彼にこっそり詫びる。
帰るという彼を、昨夜無理矢理に引き止めたのは僕だった。力では到底敵わないと早々に諦めて眼を伏せた彼の白い顔――あの表情は諦めか、それとも――少しは求められることへの歓びの色が混じっていただろうか、と僕はそのときの彼の顔を必死で思い出そうとして――あまりの馬鹿馬鹿しさに笑い出しそうになった。
全ては思い込みだ。人の気持ちなど、直接本人に尋ねなければ決して分かりはしないだろう。
そして例え尋ねたとしても――相手が真意を語るという確証はないのだ。
嘘、ではないのだろう
決して、嘘ではないとは思う。
それでも――語られる言葉の全てが彼の思いそのままのカタチを為すかと言われれば――
僕は首を横に振らざるを得ない。
相手を思いやるが故に言い淀む彼の―――伏せられた眼差し
彼は僕に対して、今までどれほどの言葉をその胸に飲み込んできたというのだろう
「榎さん…」
すっかり支度を済ませた彼が、寝台の傍らに立ち僕を見下ろす。
「そろそろ帰るね」淡々としたその口調に、思わず毛布を払いのけ彼の腕を捕らえて抱き寄せたくなる衝動を僕は必死で押さえ込んだ。
折角着込んだ着衣を剥ぎ取り、再びその口唇を己のそれで塞いで抗議の声を押し込め、力づくでその身体を開かせ―――
固く固く抱き合い、夜明けを共に迎える――幻想。
「……ああ」
僕はわざと眠たがり、わかったわかったというように片手だけを毛布の外に出して軽く振ってみせた。
「おやすみ」何故だかくすりと彼は笑って、そのまま踵を返すと足早に部屋を出て行った。
玄関の扉が開いて閉じる音がする。僕は漸く起き上がり、脱ぎ散らかしたシャツやズボンを床から拾って身に付けた。
そして窓辺に立ち、このビルの入口を見下ろす。
間もなく彼は現れた。ビルの扉をそっと開いて、軽く周囲を見回し外へ出る。こんな早朝に勿論人通りなどなくて、そのことにほっとしたように一瞬立ち止まったあと、彼は足早に駅の方へと歩いてゆく。
少し右肩が下がっているその後姿に昨夜の情事の名残が少しも滲んでいないことに僕は少しだけ傷つきながら、いつまでもその小さな背中を見つめていた。
彼が道を急ぐことを責めることなど、僕には出来ない。
彼の家には、おそらく一睡も出来ずに彼の帰りを待っているであろうあのひとがいる。
僕の脳裏に、昨夜『帰さない』と抱き締めたときに彼が見せた諦めに似た表情が不意に浮かんだ。
伏せられた睫の影がその頬に落ちて震える。そのとき彼は――何を思っていたのだろうと。
『おやすみ』
何故別れ際に彼は笑ったのだろう――
ふとそれに考えが至ったときには、もう彼の後姿は遠く小さく朝靄の中に紛れてしまっていた。
あの微笑みは、離れがたい僕のこの思いを感じての嬉しさからか、
それとも僕の我侭に付き合わされた諦めが生んだ苦笑なのか―――
そういえば彼は一度もこちらを振り返らなかったな、ということに唐突に僕は気付いて、少なからずショックを受けているセンチメンタルな自分を持て余し、こつんと額で窓ガラスを軽く叩いた。
額に感じた無機質の冷たさが、外を歩く彼の吐く息の白さを呼び起こし――さぞかし寒いだろうななどと、ついその身を思いやる自分の女々しさを、僕は我ながら愛しくさえ感じ始めていた。
彼が消えていった遠い車道を車横切る。そろそろ街が起きだす時間なのだろう。
それでも――
『おやすみ』
別れ際に彼が言ったその言葉に縛られるかのように僕は一旦袖を通したシャツを脱ぎ捨て、再び寝台へと潜り込んで毛布をかぶった。
とぼとぼと歩き去ってゆくあの小さな背中――僅かに右肩が下がったあの愛しい背中を夢の中で再び抱き締めるために。
明け方の街を歩く彼の胸に去来する思いが僕と同じであることを何より祈りながら、僕は昇り来る太陽に背を向けるように身体を丸め、まだ彼の臭いの残る敷布へと顔を埋めた。
<終>