Clover
「あ、関口さん、いらっしゃい」
所用のついでに訪れた榎木津の事務所で彼を迎え入れてくれたのは、探偵助手の益田であった。
「やあ。…あれ?一人かい?」いつもは応対に出てくれる和寅の姿が見えない。益田は仕事中だったようで、右手に万年筆を手にしたまま、肘までワイシャツを捲り上げていた。少し長めの前髪が今かきあげられたばかりのように乱れている。報告書でも書いていたのだろうか。「産みの苦しみ」の最中の自分を見ているようで、関口はなんとなくシンパシィを感じ、益田に気付かれぬように小さく微笑んだ。
「ええ、榎木津さんは和寅さんをお供に実家へ里帰り中です。やだなあ、何笑ってるんですか」益田は何故か少し頬を赤らめながら関口に向かってそう頭をかいてみせる。
「ごめんごめん、仕事中だったのかい?邪魔したね」笑ったことに気付かれていたことに少し後ろめたさを感じながらも、関口は、別に用があったわけじゃないからと早々にその場を辞そうとしたが、
「邪魔なもんですか。なんだかさっきから煮詰まっちゃって苛々していたところなんですよ。よかったらどうぞどうぞ、コーヒーでも入れましょう」
何故か嬉々として益田はそう関口の背に手を廻すと、彼を事務所の奥へと導き入れた。
「忙しそうだねえ。商売繁盛で何よりだ」机の上に散乱している書類を見ながら、関口はからかい半分、羨望半分にそう益田を振り返る。
「商売繁盛も何も……関口さん、ほんとにあのおじさん…いや、榎木津さんに何とか言ってやって下さいよ」益田がコーヒー片手に戻ってきて、彼に椅子を勧めながらそう泣きついてきた。
「おじさんって…」益田にとっては自分も「おじさん」なのだろうなと苦笑しながら関口は「一体何を言えっていうんだい?」と差し出されたコーヒーを受け取る。
「探偵事務所の看板を掲げながら何にも動こうとしない。まあ、持ちこまれる事件があの人の好みに合う確率なんて一億分の一にも満たないことは僕だってわかっちゃいますが、それでも一応、断れない筋からの依頼とかはあるじゃあないですか。それだけじゃない、来る依頼来る依頼断っていちゃあ、こちとらおまんまの食い上げですよ。それで僕が依頼を受けるとこれまた怒る。怒った挙句に何一つ手を貸しちゃあくれないから、聞きこみから尾行から、事件解決後の報告書からかかった経費の計算まで、全部、ぜーんぶ僕の仕事になってしまうんですよ。警察じゃ随分報告書やら始末書やら書きましたけど」始末書は勿論冗談ですよ、とけけけといつもの笑いを挟みつつ
「ほんとにもう、僕はここんとこまるで休みなし、残業続きの毎日ですよ。その上、こんなに身を削って働いているにも関わらず、榎木津さんは僕を評価するどころか、具にもつかない依頼を受けたと詰る毎日です。ほんと、僕の苦労って何なんでしょうねえ」ほんと、浮かばれませんよ、と益田はオーバーに天を仰いで嘆いて見せる。
「そ、それは大変だねえ」益田は愚痴を言う相手を待ち構えていたのかもしれないと、関口は心の中で溜息をつきながら、おざなりかなと思いつつ合いの手を入れてやる。
「ほんと、なんとかしてくださいよう」と益田は机の上の書類を掴むと、ぽおん、と軽く放り投げた。ばさばさと書類が落ちる。余程ストレスがたまっているのかな、と関口は乱れ落ちる書類を見つめ――ふと色あせた紙片に気付いた。
「…?」思わず手に取る。益田もそれに気付いて、少し慌てたように同じくそれに手を伸ばしてきたが、それより前に関口は手にしたその紙片をまじまじと見つめていた。
「手帳から落ちたんですね」言い訳のように益田が関口の手からそれを取り上げようとする。
「これ……君のかい?」あまりにも益田に似合わないそれは、四葉のクローバーを押し花にして貼りつけたものだった。関口は求められるままにそれを益田へと返しながら思わずそう尋ねていた。
「……少女趣味と笑いますか?」益田はどうも、と軽く礼をしながらそれを受け取るとまた大事そうに手帳へと挟み込む。先ほどの饒舌とは打って変わった彼のその様子が気になって、関口はつい
「笑いはしないけれど……お守りかい?」と尋ねてしまった。
「お守り……そうですね。お守りといえばお守りかなあ。」益田が少し遠い目をしながら小さく微笑む。そして静かに語り始めた。それは関口に聞かせるというよりは、まるで大切な思い出を慈しむような、いとおしむような口調で――
* * *
あれはまだ僕が駆け出しの刑事だった頃、所轄で若い女性の殺人事件がおこったんですよ。容疑者はすぐあがりました。その女性と最近付き合いはじめたという、やはり若い男で、動機は痴情のもつれ――と、先輩刑事は睨んで、すぐ別件で彼を引張り、昼夜に渡るちょっと非情なくらいの取り調べを行っていました。
僕は別にモラリストというわけじゃあないんですが、そういう前時代的っていうか、憲兵みたいな取り調べに反発したってこともあって、たいした証拠もないのに、はじめから犯人を決めつけるのも…と、まあ表立っては意見することも出来なかったんですが、なんていうか犯人は別にいるんじゃあないかと、こっそり一人で捜査しようかなと思ってたときに、容疑者のアリバイを証明するという、別の若い女性が現れたんですよ。
それがガイ者と容疑者の「痴情のもつれ」の原因とされていた女性だったんです。
彼女は、少し前まで容疑者と付き合っていた女性でした。容疑者がガイ者と付き合うようになったので別れたと言うんですが、色々周りで聞きこんでみると、容疑者が女を乗り換えたのは金絡み――金持ちのガイ者と結婚するので、前に付き合っていた女との中を清算したってことにしながら、まだその女とは切れていなかった。それをガイ者に最近気付かれて、所謂「修羅場」を演じていたっていうんです。
まあ、僕も実際ガイ者の写真と、影から見ていたそのアリバイを主張してきた女の顔を見比べて、皆がそう言うのも無理ないなあと思わないでもなかったんですが……なんて言うと、フェミニストの肩書きを返上しなけりゃいけないかな。ガイ者はなんていうか、まあ、美人じゃないっていうこともあるんですが、大分態度も横柄、性格も自分勝手だったようで、周りの評判はすこぶる悪かったんですよ。それに比べて容疑者の前の恋人は、清楚で可憐な雰囲気で――あ、別に人は見た目じゃないとは僕だってしっかりわかっているつもりでしたけど、なんていうか、あの思い詰めたような潤んだ瞳で、緊張に声を震わせながら、それでも容疑者を救いたい一心で、あの日、容疑者は自分の家にいたと訴え続ける姿は、なんていうか――僕の心を打ったんですよねえ。なんかこういうと、とてつもなく偽者くさく感じちゃうんですが、応対したのは先輩刑事で、僕は後ろでその様子を見ていただけなんですけど、彼女の必死さがひしひしと伝わってきて、何とか捜査方針が変わらないかとそればかりを願っていましたねえ。
結局、彼女が「アリバイ」と主張するのが、二人で彼女の部屋にいた、ということだけで、他にそれを証明できる人間がいなかったものだから、先輩刑事はすっかり頭からそれを彼女の嘘と決めつけて、早々に話しを切り上げさせて追い返していました。それでも彼女は何度も警察を訪れ彼の無実を訴え続けたんですが、誰にも相手にされずに、やがて肩を落としてとぼとぼと帰っていくんです。もともと容疑者の犯行に疑問を持ってた僕は、そんな彼女を見ていられなくなって、ある日彼女の跡を追ったんです。せめて、何か一言、
「元気を出してください」でも何でも、なにか一言を彼女にかけてあげたくて。
でも実際声をかけようと思うと、何と言っていいのかわからなくて、僕は躊躇したまま、暫く彼女の跡をついて歩いていました。彼女から見たら僕も「警察の人間」なわけです。しかも彼女には僕が刑事になりたてで、ひとつも発言権がないなんてことはわからないわけだから、僕が何か言葉をかけることで、逆に期待をさせてしまうかもしれない。もしそれで事態に何の好転も見せられなかったら、期待した分落胆も大きいだろう、そんなことを考えながら暫く歩いていくと、ふいと彼女は道をそれ、空地へと入って行きました。新しく家でも建つのか、綺麗に整地されているのに、それからしばらくたつからか一面に草が生えている、その叢にどんどん彼女は入って行ったかと思うと、急に蹲(うずくま)りました。僕は慌てて彼女の後ろへと駈けより、思わず
「大丈夫ですか?」と声をかけていました。気分が悪くなったのか、それとも連日の報われない警察通いで精も根も尽き果てたのかと心配になったんです。彼女はびっくりしたように振り返りました。僕の顔を見て不審そうに形の良い眉を顰めましたが、すぐに僕が警察の人間とわかったようで、
「……はい?」と僕を見上げてきました。
「い、いえ…気分でも悪いんじゃないかと」彼女の真っ直ぐな視線に僕は妙に緊張してしまって、丁度関口さんみたいにちょっとどもってしまったりして。彼女はああ、と納得したように微笑むと
「大丈夫です……ずっと後を追っていらしたのですか?」と逆に問いかけてきました。その様子に咎めるような気配はなかったので僕はなんとなくほっとしながら
「すみません。お声をかけようと思っているうちにずるずると…」と頭をかくと、彼女はまた微笑んで
「随分躊躇されていたんですね」と言ったかと思うと、また俯いて叢をじっと見つめました。
「いやあ…なんていうか…」僕は何と言い訳をしようと思いつつ、そんな彼女の様子を見てたんですが、やっぱり気になって
「何か探し物ですか?」と彼女に尋ねました。
「……ええ」彼女は少し困ったように笑うと、答えるのを躊躇うように一瞬黙り込み――やがて照れたような微笑を浮かべながら
「四葉のクローバーを……探そうと思って」と僕の方を見ました。
「四葉のクローバー?」そのまんまおうむ返す僕に
「ええ、幸せのお守り……前にここで見つけたことがありますの」と、叢を手で軽く書き分けながらそう答える彼女の細い指に僕の目は釘付けになりました。確かにその辺りには一面にクローバーが生えていました。彼女はまるで独り言のように
「なかなか見つかりませんのよ。……でも、それだけに、見つかれば願いが叶うような気がして……毎日帰り道、ここを通るたびについつい捜してしまうのですけれど…」と言いながらまた叢をかきまわしています。
僕はそんな彼女の手からその顔へと目を移し――その眼差しの余りの真剣さに思わず言葉を失ってしまいました。
彼女の『願い』――推測するまでもなく、その「願い」は一つでしょう。彼女の長い髪が風になびきます。少し強い日差しが、彼女の額にうっすらと汗を浮かべさせています。彼女がどんな思いで、そんな単なる「言い伝え」でしかない「幸福のお守り」を毎日毎日探しつづけているのか――それを思うと僕の胸はなんだかいっぱいになってしまって、思わずその場にひざまづき、叢をかきわけていました。
「…あの…」びっくりしたように目を見開いて、彼女が僕を見つめます。
「僕も捜しましょう」確かに彼女にしてみたら驚くでしょう。警察の人間が、自分のクローバー捜しに付き合うというのです。それでも僕は何かをせずにはいられなかった。勿論、彼女の願いをかなえるのはクローバーなんかじゃない。捜査方針を動かすほどの物証であろうし、説得力のある意見だろうということは勿論わかってはいるのだけれど、それが出来ない僕自身が悔しくて、自分の力の無さが情けなくて――せめて彼女に何か手を差し伸べたかった、そんな自己欺瞞の振舞いでしかなかったのですが、そのときの僕には何かをせずにはいられなかったのです。彼女は黙って暫く僕を見つめていましたが、やがてまた自分も俯いて、叢を捜し始めました。あまり人通りのある道ではなかったのですが、たまに往来を通る人々が僕たちを不審気に眺めて行きます。何か無くしものでもしたのかとでも思われているのかもしれません。僕はすぐに汗だくになり、手の甲で額を拭いながら、それでも「四葉」を探して叢をかきわけ続けました。彼女も無言で捜し続けているようです。3枚、3枚、と口の中でぶつぶつといいながら、捜し続けていた僕の目に、不意に周りのクローバーとは確かに違う形が飛びこんできました。
「あった!」思わず大声を上げると、彼女がびっくりしたように振り返りました。
「あった!ありましたよ!」思わずその茎を千切って彼女に向かって差し出しました。4枚の葉をつけた、クローバーを。
「…………」彼女はじっと僕の手を見詰めていました。その瞳に、大粒の涙が盛り上がり、一筋、ふた筋、その頬を涙が流れ落ちていきました。
「ありましたよ」他に言う言葉が思いつかずに、僕はそう言うと、はい、と彼女に向かって更に高くその四つ葉のクローバーを差し出しました。
「……ありがとうございます」彼女の瞳から、また一筋、涙が流れ落ちました。彼女は僕の手からそれを受け取ると大切そうに自分の胸の前でそれを抱き締めるように握り締め
「有難うございました」と小さな声でそう繰り返しました。
風が彼女の髪を、長めのスカアトをはためかせていきます。汗ばんだ肌にその風はとても心地良く――僕は無言でそんな彼女を見詰め続けていました。
「……あの人は犯人なんかじゃあありません」ぽつり、と彼女がそう呟くように僕にむかってそう言いました。
「あなたと彼とは、その――」周囲が言うようにまだ関係が続いていたのかと尋ねようとしたのですが、何と言っていいのか迷い、僕はぎこちなく言葉を切りました。
「……愛し合っていましたわ」僕の気持ちを察したかのように、彼女は小さく微笑んで僕を見ました。
「いえ…愛し合っているのですわ。でも…彼は私よりもあの人を選んだ…」そしてまた遠くを見つめる彼女の瞳は自棄に寂しそうでした。
「彼女のお金が目当てだったんでしょう?それが証拠にまだあなたたちの関係は切れていなかったんでしょう?」自分が何を言っているのか、僕は十分自覚していました。が、止めることは出来なかった。彼女の寂しげな瞳の色を消したかった。その一心だったんです。
「……彼は犯人なんかじゃありませんわ」彼女はふ、と微笑むと俯いて、またその言葉を口にした。
「どうしてそう思うのです」また風が彼女の髪をなびかせます。彼女は暫く黙って俯いていましたが、不意に顔を上げて
「どうして彼は自分ではないと言わないのでしょう」と僕の瞳を真っ直ぐに見つめながらそう尋ねてきました。
「彼は……否定していますよ。自分の無実を叫んでいます」捜査上勿論言ってはいけないことなのでしょう。でも彼女の真剣な瞳を裏切ることは出来なかった。僕は取り調べが如何に彼の神経を苛んでいるかを思わず彼女に喋っていました。彼女は茫然として、僕の話しを聞いていましたが、ふと僕の言葉が途切れたとき
「……無実だ、と言っているのですね」と小さな声でそう呟いた。
「ええ……?」その様子があまりに意外だったので、僕は思わず彼女の顔をみやりました。
「そうですか……」彼女はまたひざをつき、その視線を叢へと落としました。
「どうしたんです?」それこそ気分が悪くなったのではないかと僕は心配になり、そんな彼女の傍らに膝をついたそのとき
「あ。」と彼女は小さく声を上げ、叢から一本のクローバーを引きぬきました。
「あった」小さく笑って僕にむかって差し出した、その葉の数は4枚でした。
「……きっと願いはかないます。」なんてったって2つも見つけてしまったのですから、と僕は彼女に向かってそう笑いかけました。
「…そうですわね」彼女は何故か泣き笑いのような表情を浮かべると、自分の見つけたほうの四葉のクローバーを僕に向かって差し出しました。え?と見返す僕に
「差し上げますわ」と彼女は微笑み、僕にそれを手渡しました。
「いいんですか?」戸惑う僕に、彼女は
「私には、さっきあなたが見つけてくれましたもの」と微笑を返し、そろそろ帰りましょうか、と僕を促がすように立ちあがりました。
そんなことがあったから、というわけではありませんでしたが、僕はもう一度、あの事件の夜、彼女と容疑者の彼が確かに逢っていたことを証言できる第三者がいないかどうか、単独で聞きこみをはじめました。捜査本部はもう、彼の犯行ということで決着がつきそうでしたが、それでも僕は何かせずにはいられませんでした。クローバーを見つけようと必死で叢を探していた彼女の真剣な瞳とか、風になびく彼女の長い髪だとかが、ちらちらと僕の脳裏を掠め、やみくもに僕を突き動かしていました。
彼女の願いを叶えたい――その一心でした。色恋では決してなかったのだけれど――彼女のために僕は何かをせずにはいられなかったのです。
聞き込みを続けていくうちに、意外な事実が浮かび上がってきました。あの夜、彼女は家をあけていたという近所の主婦の証言が出てきたのです。黒っぽいコートを着た彼女がこっそりと出掛けていく姿と、深夜になってまたひっそりと一人戻ってきた姿が別々に目撃されていました。そして――殺された女の家の近所で、やはり黒いコートを身に纏った女が目撃されていたことにいきついた僕は――思わず、あの空地へと己の足を向けていました。
まさか彼女がいるとは思っていませんでした。が、その場に近付くにつれ、そこに佇む影を、風になびくその髪を、――僕は何とも言えない気持ちで眺めながら足を進めていきました。彼女がゆっくりと僕の方へとその視線を向けてきます。
「またクローバーを探しているのですか」少し上ずったような硬い声で、僕は彼女にそう尋ねました。
「……いいえ…」彼女は俯き、一言そう呟きました。風がまた彼女の髪を、長めのスカアトをはためかせて吹き抜けていきました。
「あなたの『願い』は……彼が釈放されることだと思っていました」
『痴情のもつれ』は確かにあったのでしょう。聞き込みを続けていくにつれ、彼女と容疑者の彼との関係は完全に「切れて」いたことがわかってきました。彼は新しい恋人を選び、彼女を捨てたのです。原因は金銭だったのかもしれないし、他にあったのかもしれない。ただ、被害者の女性を殺したいほど憎んでいたのは、自分から愛しい男を奪ったことをどうしても許せなかったのは、僕の目の前に立つ彼女に他ならなかったのです。
考えてみれば単純な事件です。ただ、初期の捜査ミスと強引な取り調べがここまで事件を歪めてしまっただけであったのです。彼女は容疑者を、愛しい男を救おうと、当日自分といっしょにいたというアリバイを主張しました。それはまた、彼女のアリバイを主張していることと同義でした。――彼女の主張は警察には受け入れられませんでした。しかしその結果、彼への疑惑の色は濃くなり、逆にその疑いが彼女に向かうことはなかったのです。
「私の願いは……」風が彼女の髪をなびかせます。
「あなたの願いは……真相があきらかにならなければいいということ?彼が何も喋らなければいいと…それを願っていたのですか」自然と責めるような口調になっていました。
「そうよ」はじめて彼女は大きな声を出しました。が、すぐに肩を落とすと
「いいえ……違うわ」と首をゆっくりと横に振りました。
「違う…?」風が、僕の周囲をも吹き抜けてゆきます。
「あの人の……彼の無実をはらしたかった…それは本当の気持ちよ…」彼女は僕を見てはいませんでした。そしてぽつぽつと語り始めました。
恋人の心代わりのこと、金目当てと思っていたのに、その気持ちまでもが新しい恋人の上に移ってしまったと告げられたこと、思い余ってその女の元を訪れたときに、嘲笑され、詰られ、挙句の果てに「彼はあなたを捨てて私を選んだのよ」と言われてかっとなってしまったこと――
「わかっていました。私が…彼に捨てられたということは……充分過ぎるほどわかっていたけれど、彼女に言われることだけは、どうしても……」
許せなかったのだ、と震える声でそう彼女は呟きました。
「……それで、殺したんですか…」
僕のその問いかけに、ええ、と彼女は頷くと、急に泣き笑いのような表情を浮かべて僕を見ました。
「私、ずっと思ってたんです。この間、あなたから話しを聞くまでは」
「え?」意外な彼女のリアクションに僕は思わず言葉を失いました。彼女は微笑を浮かべたまま
「あの人は……あの人は、きっと、私が犯人だと知ってて……知っているからこそ、黙っていてくれているものだと…もしかしたら私の罪を自分が庇おうとしているんじゃあないかと、信じていたんです。」だから、なかなか釈放されないんだと、自分の無実を訴えないからずっと拘束されているものだとばかり、信じていたんです、と彼女はさも可笑しそうにそう笑いました。ああ、馬鹿みたいだわ、と笑う彼女の瞳からは大粒の涙がぽろぽろと零れ落ち、彼女のブラウスを濡らしていきます。
「でも、違うんですね。彼は自分の無実を訴え続けた。私のことを庇ってたわけじゃあなかった。もしかしたら私が彼の為に彼女を殺したなんてこと、思いつきもしなかったのかもしれませんわね。全部私の思い込みだとわかった途端、もうどうでもよくなってしまいましたわ」そこまで言うと、彼女は両手で顔を覆い、その場に蹲りました。肩が嗚咽に震えています。
僕は黙ってそんな彼女を見下ろしていました。彼女の夢を――それが例え世間的には誤った夢であったかもしれないけれども、その夢を打ち砕いたのは僕の一言だったのだと。
「捨てられた」とわかりながらも、愛する男が自分をそれでも庇ってくれていると、愛してくれているのだと信じたかった彼女の夢を僕のあの言葉が微塵に砕いてしまったのだと――その事実の重さに僕は彼女の肩を抱くこともできず、じっと見守っているだけで精一杯だったのです。
「……自首……してもらえますか」彼女の嗚咽が収まったころ、僕は漸く口を開くことが出来ました。心の中は彼女への労わりの気持ちで一杯だったのに――口をついて出たのは、「職業人」としてのそんな言葉でした。
彼女はゆっくりと顔をあげ――涙に濡れた頬を僕に向けると、小さく微笑み
「はい」と頷きました。
それが――僕が彼女を見た、最後でした。
自室で彼女は手首を切ったのです。遺書が残されており、犯人は自分だと、容疑者の彼は無実だと何度も何度も訴えていました。
その証拠として、兇器を空地に埋めたと、その場所を詳しく書き残していました。
最後に一言、「ごめんなさい」と、誰宛てともわからない謝罪の言葉が記されていました。
そして、封筒には四葉のクローバーが同封されていました。彼女が兇器を埋めたというその場所で、僕が彼女に見つけてあげた、そのクローバーが――
容疑者は釈放されました。彼は彼女の遺書を見て、「そうか」とただ一言呟いたそうです。彼女を責める言葉は一言も発しなかったということに、何となく僕は救われる思いがしました。
そして――被疑者死亡で書類が送検され、全てが終わったあの日に――僕はもう一度、あの空地を訪れていました。
僕の脳裏に、あの日蹲って何かを探していた彼女の姿が過りました。僕に声をかけられて彼女は心底びっくりしたことでしょう。この辺りは人通りも少ない。きっと彼女は兇器をここに埋めたはいいが、探し出されていいか心配になって確かめに来ていたに違いありません。
何も知らない僕が必死で叢をかきわけているのを、どんなに冷や冷やしながら眺めていたことでしょう。
それでも――
『あった』
クローバーを見つけたときの、彼女の笑顔が、僕の胸に不意に浮かびました。
『ありがとうございます』僕からクローバーを受け取ったときに、彼女の瞳に盛りあがってきた涙を、僕は再び思い出し――
風が僕の周りを吹き抜けていきます。
彼女は――あのとき、確かに『幸運のお守り』を捜していたのだと、彼女の『願い』は、愛する男の無実を晴らすことであったのだと――吹き抜ける風を身体に感じながら、僕はそう思わずにはいられませんでした。
* * *
「最後に彼女が『はい』と頷いたとき、彼女の髪が風を受けて一瞬空に舞いあがったんです。どうしてそのとき僕は、彼女に手を差し伸べてあげられなかったのだと……随分悔やみましたねえ」益田が静かに語り終えた。心なしかその瞳が潤んでいるような気がした関口であったが、彼の頬も涙で濡れていた。
「…やだなあ、なんで関口さんが泣くんです」それに目ざとく気付いた益田がそう関口の頬に手をやって茶化す。
「泣いてなんかいないさ」益田が普段の彼に戻ったことに何となくほっとしながら、関口は煩そうに彼の手をよけ、もう冷め切ってしまったコーヒーに手を伸ばして一口飲んだ。
益田はきっとこの先もかわらないだろう。痛い程の優しさをその胸に秘めながら、榎木津の元で『探偵』としてさまざまな人と向き合い、関わりあってゆくのだろう。
彼が今でも大切にもっているあのクローバーがなによりそれを物語っている。
「君の『願い』は一体なんなんだい?」ふと思いついて関口がそう尋ねると、益田は一瞬考えたあと、
「商売繁盛、ですかね」とけけけと笑った。
<終>