『君の名は』



「君も恋愛小説でも書いてみたらどうかね」
いつもの京極堂の奥座敷、本から顔も上げずにその部屋の主は僕に向かってそうぶっきらぼうに言い捨てた。
「・・・・・・はい?」いきなり何を言い出すんだろうと彼の入れてくれた出涸らしのお茶を飲みながらそう尋ね返す。
店先に僕の姿を認めると、京極堂は何も言わずに僕の横を擦り抜けて店の入口へと向かい、『骨休め』の札をかけて戸を閉めた。そしてくいと顎を動かし、僕に座敷へ上がるようにと示すと台所へと向かう。千鶴子さんが留守にしていることは知っていた。雪絵と誘い合って今日は映画に出かけたのだ。留守番を約束しながらもどうにも創作活動――あらためて書くとたいそうなものに感じるが、白い原稿用紙を前にごろごろと座敷を転がっていただけである――に行き詰まってしまって、気分転換にと散歩がてら中野の坂道を上ってきたのである。
茶が出るだけましかな、と思いながら座敷へとあがりこみ僕の定席へと座る。予想通りの出涸らしの茶を手に京極堂が入ってきて、僕の前にそれを置くとやはり彼の定席へと座って本を開いた。今日は何を読んでいるのかな、とそれを覗き込もうとしたとき、不意に彼がそう言い出したのである。
「どうせ締め切りに追われてネタでも拾いに来たんだろう?本当に君は進歩がないね。いつもぎりぎりに追い詰められるまで何もやらない。たまには余裕をもって原稿を仕上げるということが出来ないものかね」京極堂はやはり顔も上げずに滔々と説教をし始める。図星なだけに何も言えないのだが、流石に鬱陶しくて
「書けるものなら書いているさ。君に産みの苦しみを理解してくれとは言わないが、好きで締め切りぎりぎりに頭を掻き毟ってると思って欲しくないな」と口をはさんでしまったものだから、僕はそれから半時も彼の嫌味と説教と、果ては生活態度と精神論にまで及ぶ薀蓄を聞く羽目になってしまった。
「…で、なんだって急に『恋愛小説』なんだい?」彼が喉を湿らそうと湯飲みを手にした瞬間を狙って、漸く僕はその薀蓄から逃れる好機を得たとばかりに慌ててそう問い掛けた。
京極堂はあきれたように僕を見つめ、ふう、と小さく溜息をつくと
「今日、雪絵さんと千鶴子が何を観に行ったか、君は知らないのかい?」とまた一口茶を飲んだ。
「えーっと、確か佐田啓二と岸恵子の…」
「そう、『君の名は』だよ」
放映時間には銭湯が空になるという社会現象まで起こしたこのテレビドラマが今般映画化されて、たいそうな人気を博しているらしい。榎木津がどこからか貰ってきたそのチケットを雪絵は本当に嬉しそうに手にしながら、うきうきと出かけていったのであったが、きっと彼の妻、千鶴子さんも同じようだったに違いない。一体それが、と目で問うと、京極堂はにやりと意地悪く笑って、
「原作も売れているらしいぜ。君もここらでためしにそっちを目指してみたらどうだい?」
などと言い出した。彼が本気で言っていないことはその表情からもすぐわかる。
「……書けるわけ、ないだろう」と僕は憮然としてみせた。
「…まあ、君にそれほど人を惹きつけられるような恋愛経験が豊富にあるとは思えないがね」人を食ったような京極堂の言葉を聞き流し、僕は黙って手の中の湯飲みを傾け残り少ない茶を飲んだ。

恋愛小説なんて、書けるわけがない。

愛しいと思う気持ちが、行間という行間から零れ出て、きっと万人に知られてしまう。
心に秘めていても気づけばその姿を目で追ってしまっているように、そのひとことひとことに全身全霊を傾けて、自分を慈しむ言葉を探してしまうように、微かにその頬に浮かぶ笑みをみつけたときにこの上ない歓びを感じてしまうように


君への想いが――


ふと顔を上げると、僕をまっすぐに見つめる京極堂と目が合った。何?というように目で促すと
「別に」と答え、また開いていた本に目を落とす。
伏せられた目、その頬に落ちる意外に長い睫の影が微かに揺れる様に目を奪われる。

女学生でもあるまいし、長年共に過ごしてきた友人に何故ここまで心騒ぐのか――

「京極堂」思わず呼びかけた声が何故か掠れてしまった。
眉間に縦皺を深く刻んだまま、目の前の彼が顔を上げる。
「・・・・・・お茶のおかわりを…もらえないかな」他に言いたいことは山ほどあるのに、僕の口を突いて出たのはそんな言葉で、握り締めた湯飲みと、やれやれというような愛しい人の表情をかわるがわる見ながら僕は人知れず溜息をついた。








『口吻(くちづけ)』





はじめて口吻を交わしたとき――僕は余りに驚いてしまったために、呆然と目の前の彼を見上げていた。

「目は・・・・・・閉じるものだ」
少し掠れたようなその声は普段聞く彼の声そのもので――言われるとおりに目を閉じると、再び彼はその口唇を僕のそれに落としてきた。

何故、僕たちは今、口吻を交わしているのだろう

だんだんと思考する力が戻ってきて、思い出したように僕は彼の腕の中で身体を捩り、その口唇から逃れようともがいた。と、彼はあっさりと掴んでいた僕の肩から手を離し
「…すまなかった」と小さな声で詫びると、何も言えないでいる僕に背を向け、部屋を出て行ってしまった。


いったい、なにがおこったというのだろう


僕はぼんやりとそんな彼の出て行った襖を見つめつづけた。
京極堂の座敷。いつものやりとり。不意に目の前に近づいた彼の影。そして――

不意に彼の口唇の感触が蘇り、僕は思わず己の口唇に手をやった。

『目は・・・・・・閉じるものだ』

何故自分はあのとき、素直に目を閉じたのか


答えはわかっている。

僕はずっと待っていたのだ。


思わず立ち上がり、廊下へ走り出る。京極堂は何処へ消えたのか――人の気配はなく、僕はあたりをつけて店の方へと足を進めた。

果たして彼は、店先にいつものように座って本を読んでいた。僕の近づく足音をその背に聞くと半身だけ振りかえり
「帰るのかい」と何事もなかったかのように問い掛けてくる。

「帰らないよ」僕は座っている彼の背に、自分の膝をぶつけた。京極堂は動かない。
「帰らない」そのまま僕も彼の背後に座り込む。彼の背に自分の背を預け、僕はこの次何を言おうか考えていた。背中同士が触れたとき京極堂の身体が一瞬強張ったがそのまま僕が体重を預けても彼は何も言わず、ただ無言で本を読みつづけていた。
ぎこちなく時が流れる。いつまでもこうしているわけにはいかない。いつ店に客がくるとも限らない。

それでも、何故だか僕はそこから動けなかった。

「関口君」京極堂の声が、併せた背中越しに僕の体に響いてくる。
「…なんだい」僕の声も彼に響いて聞こえているのだろうか。
「重いよ」
思いもかけない彼の言葉に僕は思わず吹き出した。
京極堂がゆっくりと僕を振り返る。彼が何かを言う前に必ず言おうと、僕は心の中で彼に言うべき言葉を今一度繰り返していた。

『君が好きだよ』




   


『嫉妬』






切欠は些細なことだった。――僕にとっては。

この間雑誌に載った僕の小説に鳶色の瞳をもつ男を登場させた。黄泉の国を彷徨う主人公の少女を最後に彼女に口吻けることで救う、という役処だった。

雑誌の発売日、一冊進呈しようとそれを片手に京極堂を訪ねると、店先でもう彼はそれを広げていた。
「・・・・・・どうも」なんとなく照れ臭く、僕は口の中でもごもごと礼を言うとそのまま彼の横を通って座敷へと上がろうとした。と、思いの外不機嫌な京極堂の仏頂面がそれを制した。
「なに?」
「・・・・・・別に」京極堂はそう言うとパタンと開いていた雑誌を閉じ立ち上がる。
「あがってもいいかい?」一応お伺いを立てると、京極堂は
「駄目といってもあがるんだろう」といつになく嫌味を残し、店の入口へと歩いていった。
彼が『骨休め』の札を下げるのを見届けてから、僕は座敷へ上がる三和土に履物を脱いだ。

「君にも一冊持ってきたんだけど、もう買っていてくれたんだね。ありがとう」と後から来た京極堂を彼の座敷で出迎えて、僕はそう改めて礼を言った。
「わざわざ買ったりするものか。昨日敦子が持ってきたのさ」何故だか今日の彼は格別に機嫌が悪いようで、僕としても取り付く島もない。
「…な、何にしろ、読んでくれて嬉しいよ」ぼそぼそとそう礼を言うと、京極堂は無言で自分の定席に腰を下ろし、その辺りの本を掴んで膝へと広げた。
居心地の悪いまま時は流れる。
どうしよう。用件は既に済んでしまっている。久々に雑誌に載った自分の小説を読んで欲しくてこうして持ってきたのだったが、彼は既に読んでくれていた。それは嬉しい誤算である筈なのに、一体彼は何を怒っているのだろう――少しも自分の方を見てくれない京極堂の仏頂面を僕は恨みがましい目で見つめた。
その視線に気づいたのか、彼がゆっくり顔を上げる。
暫し無言で見つめ合ったあと、京極堂がぶすりと呟いた。

「僕が殺し屋で、榎さんが天使か」

はじめ何を言っているのか、わからなかった。
「……はい?」間抜けな声で問い返すと
「最後に出てくるこの男・・・・・・鳶色の瞳の男は榎さんがモデルだろ?」と僕がまだ手にした雑誌を顎で示してそう答える。
「モデルっていうわけでもないんだけど…」外見のイメージを少し借りただけだ、と言おうとして、漸く彼の言わんとするところが分かった。
僕は以前書いた小説で『殺し屋』に彼の外見を借りた。別にそのときは何も言わなかったのに、実は不満に思っていたのだろうか。確かに役処としては今回の榎木津の『救いの天使(実は天使というわけではないのだが)』に比べると――いや、比べ物にならないくらい、酷い、とは思う。それならそうとあのとき言ってくれればいいのに、と思いながらも
「ちょっと外見のイメージを借りただけで、別に君を『殺し屋』のようだと思ってるわけでもないし、榎さんを『天使』だと思ってるわけでもないぜ?」全くフォローになっていないことはわかっていたが、一応そう言い訳をしてみると、京極堂は
「別にそんなことを言っているんじゃないさ」とふいと横を向く。
「一体何を怒っているんだい?」きっと自力では一生その原因を究明できないと僕は早々に白旗を揚げ、彼に直接問い掛けた。
「・・・・・・ラストが安直だ。口吻で黄泉の国から救われるなんてあまりにもお手軽すぎる」ぶすりとそう答え、京極堂はまた本へと目を落とした。

もしかして

自然と笑いがこみ上げてくる。僕はなるべく笑わないように気をつけながら

「今度は『殺し屋』に接吻させるよ」

愛しき仏頂面に向かってそう言った。

勿論、そのあとみっちり半時間ほど彼の「そもそも、文学とは何ぞや」という説教というか薀蓄というかを聞く羽目になったのだけれど、それでも時折こみ上げてくる笑いを押さえるのに、僕は随分苦労した。



    



『虚構』







『君のお守りにはもう飽きた』


確かに彼はそう言った。


僕はぼんやりと自室の天井を見上げていた。天井の木目が色々な形に見える。三越百貨店の包装紙みたいだな、と思い、子供の頃あのよくわからない形に目や手足を書き添えて、動物に見立てたりしていたな、と懐かしいことを思い起こしてみたりした。
自然と口元から笑みが漏れる。自分が笑っていることに気づいたそのとき不意にまたあの彼の言葉が蘇り、僕は己の胸を掴むとその言葉から逃れるように頭をふって昨日の記憶を振り落とそうと試みた。
昨日――彼の家の座敷で彼から言われたその言葉を――


僕はそのとき、余程ぼんやりとした顔をしていたのだろう。
見ていられない、といった風に彼はふいと顔を背け、そのままその庭へと目をやった。僕もその視線を追って同じように彼の家の庭を眺める。
梅雨だというのに気持ちよく晴れていたその日、庭の木々の緑が目に眩しかった。


『君のお守りにはもう飽きた』


飽きたのか。


僕は黙って立ち上がり、そのまま彼の家を辞した。部屋を出るときにふと、彼が僕を見ているような気がして振り向いたが、彼は僕が立ち上がる前の姿勢そのままで、庭を眺めつづけていた。
失礼するよ、と声をかけようかとも思ったが、口を開くと何故だか涙が零れ落ちそうだったので、僕は無言で小さく頭を下げ、少しでも早く彼の家から離れようといつもの坂を駆け下りた。
ともするともつれそうになる足先をひたすらに見つめながら僕は必死で先を急ぐ。しっかりと見つめているはずの僕の靴の先が滲んで見えた。ああ。僕は泣いているのだとそのとき初めて気づいて頬に手をやり、そっと涙を拭った。
拭っても拭っても流れ落ちる涙を、行き交う人はどう見ているのだろう。恥ずかしいな、と思いながら、僕はただひたすら下を向いてその坂を歩き続けた。


『君のお守りにはもう飽きた』


僕も君の薀蓄は、もう聞き飽きていたよ。




いつしか身体を重ねるようになっていた。初めてその骨ばった手が僕の頬にかかったとき、不思議と違和感はなかった。
きっと僕は、その手をずっと待っていたのだろう。彼の指先の冷たさまでが自分の想像通りであったことが無性に可笑しくて、緊張しているはずなのに笑いを押さえるのに苦労したことを昨日のことのように思い出す。

目を閉じて、初めて己の口唇に感じた彼の口唇は驚くほどに温かかった。
その温かさに僕は異常なまでに欲情した。



互いに伴侶を得たあとに出来た関係であったから、いつも周到な準備のもと僕達は逢瀬を続けた。実際に彼に抱かれている時間より、その後の気だるい空気の中、ぼんやりと彼の腕に身体を預けている時間の方が、実は僕は好きだった。
会話という会話が交わされることなどまるでなかったその時間、互いの欲望を吐き出したあとの身体は言葉以上に雄弁に互い自身を語った。
僕の心の中に彼の気持ちが流れ込んでくる。それをぼんやりと受け止め、時には咀嚼し、ときには慈しむ。
限りなく近いところに彼と寄り添っているという実感が持てるこの時間を、僕は何より愛していた。



『君のお守りにはもう飽きた』


そういえば君の身体はいつしか何も語らなくなっていたね。



今までの二人の日々に嘘はなかった。
全てが真実で、全てに裏表がなかったとは僕は言わないけれども
決して嘘ではなかった。と、思いたい。

初めて口唇をあわせた日、僕はまるで同じことを思ったのだった。
友人として過ごしてきたこの何年は、決して偽りの積み重ねではなかった、と。

ずっと互いを大切だと思ってきた日々に嘘はない。
たとえそれが純粋な「友情」という気持ちではなかったにしても。


『君のお守りには――』


だから、なのかもしれない。
僕達の間に虚偽の時間が流れていく、そのことに彼は耐えられなかったのかもしれない。


『もう――飽きた』


真実を――伝えたかったのだろう。
常に真摯に向かい合ってきた、僕達のこの関係に彼なりの想いを――誠意を込めて。


僕は――


僕は両手で顔を覆った。
偽りでもいい。今は何より彼の腕が欲しかった。



泣くことに飽きる日は来るのだろうか。
君を思い出すことに飽きるときは来るのだろうか。


めぐる季節のそこここに君との思い出の日々の残像が映る、それを笑顔で思い出すことができる日々が僕にもそのうちに来るのだろうか。



来るのだろう。きっと。



僕達が生きてゆく限り、疵は癒え、痛みは薄れていく。常に新しい事象が記憶として積み上げられ、古の記憶は曖昧になっていく。残るのは懐かしい思い出だけになる日が必ず来る。今はこんなにこの胸が痛んでいるとしても――


僕は、本当に君が好きだったよ


最後に振り返り、そう告げればよかった、と僕は少しだけ悔やみ、ふといつのまにかその言葉が過去形になっていることに気づいて、何だか少しだけ笑ってしまった。

――僕の中で既に時は流れはじめているのだと。


彼と過ごした日々はこうして全くの真実だけを残して、僕の中で終わった。


<終>