狂 気
何かが狂い始めていた。否、狂っているという自覚のあるうちはまだ正気が幾許(いくばく)かは残っているのだろう。和寅は昨日使いに出した。多分三日は戻るまい。マスカマは……どうするか。彼はここの鍵を持っていない。来ても居留守を使えばいい。
そう己を納得させたと同時に榎木津は立ち上がり、家中の窓にしっかりとカーテンを下ろした。
これでいい、と部屋を見回している自分がひどく滑稽に思え、自然と自嘲めいた笑いが己の頬に浮かぶのをまるで他人事のように感じながら、榎木津の足は寝室へと向かっていた。そこに横たわる何より愛しい者の顔を見るために。
「……う…」
寝台の上で低く呻く声がする。
「もう大丈夫だ…。ここには誰も来ない。僕たちを邪魔するヤカラは消え失せたぞ。」
ゆっくりと愛しき頬に手を伸ばし、まるで繊細な象牙の飾りものでも扱うかのような手つきで、その白さを慈しむかのように撫でていく。
「……震えているな……寒いのか?」美しい眉をひそめ、榎木津は心底心配そうに、寝台に横たわるその顔を見下ろした。
「…榎さ……」囁くよりも小さな声。
「こうしていれば…寒くないだろう」榎木津は寝台に座り、彼の半身を起こすとあらん限りの優しさをもってそっと、そして力強くその背を抱き締める。
「……どうして…」抗うように榎木津の腕の中で、身を引こうとする彼の頭の後ろに手をやると、榎木津は
「どうして……?寒いんだろう?……ほら、こうしていれば……」とゆっくりとその口唇を彼の震える口唇へと重ねる。
「……寒くないだろう?」
少しも応えないその口吻に少し苛ついたように早急に口唇を離すと、榎木津はそれでも優しく腕の中の愛しい瞳に微笑みかけた。
薄らと開かれたその瞳。普段よりも黒目がちに見えるその眼差し
「……セキ……」榎木津がまたゆっくりと彼の身体を抱き締めた。
「……」関口がその腕の中で小さく呻く。
「ほら……暖かいじゃあないか」榎木津は関口を抱く手に力を込めた。関口と身体を併せているところから、じわじわとその暖かさが伝わってくる。
じわじわと――その下腹から――
「……どうし……て」
「お前が悪いんだ……」榎木津はゆっくりと関口から身体を離した。
榎木津のシャツが――その腹の辺りが、ぐっしょりと血に染まっている。
「……どう…し……て……」
すっかり血の気が引けた関口の頬を、榎木津はやはり愛しげに撫でながら、
「お前が……夜が明けたら帰るなんて言うから……折角こうして二人で逢えて…和寅も追い出して…それなのにお前が帰るなんて言うから……」
囁くように、その頬を摺り寄せ、榎木津は続ける。
「腹はね、刺されても一番長持ちがするところなんだ……少しでも……少しでも長く……ね……こうしてお前を……」
「え…の……」いやいやをするように首を振る関口を、益々強い力で榎木津は抱き締める。
「……愛している……」
「……」関口の震える手が、榎木津の肩に伸びる。それに気付いて榎木津は関口から身体を離し、その手首をしっかりと掴んだ。
「……榎……さ…ん…」光をうしないつつあるその瞳が榎木津を捉える。
「セキ……」その瞳に映る己の顔がこの至福のときを謳歌し輝いていることに気付き、榎木津はそんな己の姿にまた微笑みかける。
その微笑を見つめながら、関口の口が弱々しく――しかし、残る力を振り絞るような必死さで動いた。
「……あい…し…て……」
る――――
はっと榎木津は寝台から半身を起こした。
身体中べっとりと汗をかいている。ふうっと大きく息を吐き、思わず隣に眠る愛しき背中を見下ろした。
……夢、か……
なんという夢を見たのだろう。まだ胸の鼓動が早い。
榎木津はゆっくりと、関口の髪へと手を伸ばした。ゆっくりと髪を梳くと、指に関口の少し汗で湿ったような温もりがその手に残る。
ああ……生きている
当たり前のことなのに、安堵のあまり榎木津の手は震え、思わず己の口元にその手を戻し、軽く噛んだ。
小さな痛みが、榎木津の意識を現実へと戻させる。
愛しくて――自分一人のものにしたくて――
叶わぬ夢であるのに――
「……う……ん…」関口が気配に目覚めかけたのか、小さく声を漏らして寝返りを打った。
愛しくて――
『……あ…い…して……る』
関口はまた眠りの世界に落ちていったようだ。その露になった脇腹に榎木津の目は引き寄せられ――
何かが狂い始めていた。否、狂っているという自覚のあるうちはまだ正気が幾許(いくばく)かは残っているのだろう――
<終>
きゃ〜(汗)
なにこれ……(汗)
壊れた榎さん……退廃(デカタン)目指してあえなく玉砕(汗)
『榎さん月間』…これでいいのか??<よくない