こんな夜は
「先生?」
鳥口が少し驚いたように目を見開いて、目の前の関口を見下ろした。
「……遅くにごめん」関口はその視線を避けるようにと俯いてぼそりとそう呟く。
「いや、全然オッケーっすよ。さあ、どうぞ」鳥口は自分の身体が塞いでいた出入り口を身体を斜めにして開けてやり、彼の背中に腕を廻してを自室へと招き入れようとした。関口は促されるままに無言で部屋の中へと入ってきた。
珈琲でも入れますね、と言って関口を散らかった部屋の中に座らせ、台所のガス台の前でじっとお湯の沸くのを見つめながら、鳥口は彼の訪問の意図に思いを巡らせた。
どうしたんです?急に
そう尋ねるのは確かに簡単だろうが、答えを引き出すのは難しそうだな、と先ほどの彼の様子を思いやり、鳥口は小さく溜息をつく。
ちらと振り返り部屋の真中でぽつんと座る関口を見やると、彼は俯いたままぼんやりと座り込んでいた。一体彼の身に何が起こったというのだろう。昨日彼の家を訪れたときは別段変わった様子はなかったように思うが―――
しゅんしゅんといつのまにか湧ききっていた湯の音に思考を中断され、鳥口は多分彼は飲みたくもないであろうコーヒーを手に,関口のもとへと脚を運んだ。
「はい」
珈琲カップを手にした右手を差し出すと、関口は漸く顔をあげ
「有難う」とぽつりと言ってそれをゆっくりとした動作で受け取った。
「火傷しないで下さいよ」言わなくてもいいような注意をすると、関口は小さく笑って
「大丈夫だよ」と言いながら一口珈琲を飲んだ。
「熱っ」それでも慌てたように口唇を珈琲カップから離す関口に
「だから言ったでしょう」と鳥口は笑ってその顔を覗き込む。
「……沸かしすぎだよ」照れ臭いのか、少しその頬に朱を走らせて関口がそう口をとがらかす、そんな仕草に無意識の媚びを感じる自分がなんだかとても嫌な男に思え、
「そりゃすみませんでしたね」とわざと愛想なく鳥口は彼に言い捨てると、よいしょと自分は立ち上がり、また台所へと踵を返した。
目の端に「え?」というような関口の表情が映ったが、まるで気付かぬふりをしてそのまま冷蔵庫を開ける。
「鳥口君?」カタンと珈琲カップをちゃぶ台に置く音がして、関口も台所へと入ってきた。
「まさかあれしきで怒ったわけじゃないだろ?」鳥口の後ろから冷蔵庫を覗き込みながら、関口はそう問い掛けてくる。
鳥口は身体を起こすとあはは、と笑って
「まさか」と彼を振り返り、「何か食べるかな、と思ったんですよ」とすぐ後ろで腰をかがめるようにして立っていた関口の顔を見下ろした。
「ああ、大丈夫。食べて来たから」関口はそう言うと、珈琲が冷めるよ、と部屋の方へと引き返してゆく。その腕を後ろから鳥口は掴むと、有無を言わさず自分の方へとその細い身体を抱き寄せた。
「な……」そのまま彼の身体を返すと正面から彼を抱き締め、その口唇を己の口唇で塞ぐ。関口はたいした抵抗もせず、そのまま鳥口の腕の中に体重を預けてきた。口吻けながら鳥口はその手で関口の背中からゆっくりとその髪へと上らせてゆき、いつにない優しい手つきで彼の額にかかる髪を梳き上げた。
「……」なに、というように絡めていた関口の舌の動きが止まる。
なんでもない、といように鳥口は目だけで笑うと、そのまままた激しく彼の口唇を貪るように口吻けていった。
「……っ」息苦しさに、関口は少し抗うような素振りで彼から身体を離そうとする。いつもであれば強引にそのまま彼の口唇を塞ぎ続けるのだけれど、何故だか今日は彼の身体の動きに合わせて、鳥口は関口の背に廻した手を緩めた。
「……こ、珈琲が」何処かほっとしたような顔をしながら、関口が少し潤んだ瞳で鳥口を見上げる。
「え?」思わずそのまま抱き寄せてしまいたくなる衝動を押さえ込みながら鳥口が少し間抜けな声でそう尋ね返すと
「珈琲が冷めるよ」
何故かふいと横を向き、ぶっきらぼうなくらいの調子でそう言うと、関口はそのままもといた部屋の方へと脚を進めたのだった。
「ほら、冷めた」
ちゃぶ台の前に座り、ぐびりと一口のみ差しのカップに口をつけると、関口はそう言って鳥口の方を軽く睨んだ。
「火傷の心配がなくていいじゃないですか」鳥口はそう笑って自分も表面に油が浮いたようになってしまってる冷めた珈琲を飲み干した。
「…極端だなぁ」そう笑いながら関口もごくりと手の中のカップを傾ける。
カチカチと時計の秒針の音だけが室内に響いた。
「先生」
何気ない調子で鳥口は関口へと問い掛ける。
「なに?」やはり何気ない様子で関口はそう彼の方を見もせずに返したが、その身体がびくりと小さく震えたのを鳥口は見逃さなかった。
「何があったんです?」
俯く彼の顔をじっと見つめながら鳥口がそう問うと、
「なにも」と関口は小さく答え、残っていた珈琲を一気に飲み干した。
「さて。そろそろ帰るよ。ご馳走様」
そうして鳥口の顔を見返して微笑んだ彼の顔は、誰が見ても「なにも」なかったようには見えず、鳥口は小さく溜息をつくと一歩膝を出して彼の方へと近づいて言った。
「どうしたの?」
そして関口の腕を捕らえる。関口は無言で彼の手から腕を抜こうと試みて―――腕力の差に諦めたかのようにひとつ溜息をつくと
「離せよ」と鳥口の顔を見た。
「いやだと言ったら?」そのまま強引に抱き寄せようとすると、関口は全身の力をその腕に集中させて彼の胸を突っぱね
「離しなさい」と鳥口を睨む。
「……どうしたの」
別にその剣幕に押されたわけでは決してない。が、いつもとあまりに違う関口の拗ねように、鳥口はわかったわかった、というように彼を離して両手を上げた。
「なにそれ」ちらと関口の視線が挙げられた手に向かう。
「降参のポーズ」
「馬鹿じゃないか」
くすりと笑って関口は軽く鳥口の肩を小突いた。
「馬鹿ですよ」鳥口も笑ってそんな関口の顔を見返す。
「…素直すぎるのも気味が悪いな」軽口をたたきながら、よいしょと関口は立ち上がり、
「すまなかったね。失礼するよ」と座っている鳥口を見下ろし笑った。
玄関先まで彼のあとをついていき、後ろからドアを開けてやる。
「有難う」振り返って笑った関口に、鳥口はもう一度
「どうしたの?」と同じ言葉を囁いた。
「……どうもしないよ。君の顔が見たくなったのさ」
ドアの方へと向き直りながら、関口がぼそぼそと口の中でそう呟くのを
「うそばっかり」と鳥口苦笑しながら聞き流し、
「もう暗いですからね。気をつけてくださいね」と関口の背中を軽く叩いた。
「子供じゃあるまいし」ちらと振り返って鳥口をそう睨むと、関口は、
「それじゃ」と軽く頭を下げて、開かれた戸から出て行き、後ろ手でそのドアを閉めた。
一体、彼の身に何が起こったというのだろう。
鳥口は閉められたドアを暫し見つめながら考える。
『君の顔が見たくなったのさ』
それが真実であるのなら、これほどこの胸も騒ぐまいに
関口をここへと駆り立てたのは、中野の古書肆か神保町の探偵か―――
両方かもしれないな、と鳥口は昼間に訪れた中野の店での出来事を思い出していた。
彼らは二人連れ立って、今頃何処かへ出向いているのだろう。勿論下僕どもを引き連れて―――。
はた迷惑な―――というのは言いすぎか―――事件の後始末に、いつものように担ぎ出された古書肆のあの凶悪な仏頂面が目に浮かぶ。
鳥口が昼間にかの店を訪れたとき、彼は探偵助手に細かい指示を与えていた。
「なにがあるんです?」と興味津々で尋ねると
「くだらないことさ」と取り付く島もなく返されて、あまりの彼の機嫌の悪さに早々と退出しようとしていた探偵助手と一緒に思わず帰ってきてしまったのだった。
帰りしなにあの恐ろしい顔で「僕は高いと言っておけ」と言われた探偵助手は、もう参っちゃいましたよ、と鳥口相手に道々事件のあらましを語ってくれた。どうやらまた、榎木津の処に持ち込まれた?事件の後始末をまた京極堂が手伝うことになったらしい。
「やりはじめるとノリノリになるくせに」なんであんなに怖い顔をするんでしょうねえ、と首を竦める益田の話を聞きながら、鳥口の頭にちらと関口の影が差した。
今回も―――彼の知らない間にことが行われようとしているのだろうな、と。
関口を巻き込みたくないというのは、探偵と古書肆の唯一一致しているポリシーなのであろう。全てが収まったあと、関口は漸くそんな事件のあったことを知り、そして拗ねる。それが最近のパターンだった。
関口がそこまで労わられるようになったのは、警察に拉致監禁されて自白を強いられたあのとき以降であると鳥口は記憶しているのだが、それ以前も常に気付かぬように、関口を支える腕の存在には気付かないではなかった。
勿論それは―――鳥口がその『手』たりたいと思っていたからに他ならないのであるが―――
そうして―――幸運なことに、鳥口はその『手』となり得た。
本当に、何と言う幸運だろう。例え拝み屋の呪いがついてこようとも、探偵の執拗な追跡を受けていようとも―――鳥口はしっかりとその手のなかに、愛しい人を捕まえることが出来たのである。
その愛しい人は、自分が労わられていることになど、少しも気付かず、仲間外れにするのは酷いと鳥口にまで愚痴を零した。
「みんな先生を心配してるんですから」
鳥口がそう言っても、関口は信じられないといった風に首を横に振り、彼の腕の中で
「酷いよね」と益々口を尖らせるのだった。
きっと今日も、何の気なしに尋ねた中野か或いは神保町で、彼らの遠征の話を聞いてきたのだろう。そうしてやりきれない気持ちのまま、ここを訪れ―――
『どうしたの』
答えることを躊躇った、彼の黒い瞳が鳥口の頭に甦る。
やり場のない憤りを、彼は自分でどう解釈しているのだろう。妬け付くほどにこの胸を焦がすジェラシイを、愛しい彼が察する日は来るのだろうか。
鳥口は大きくひとつため息をつくと、靴に脚を突っ込み、彼の出て行ったドアを飛び出し駅への道を走った。
まだそう遠くまでは行っていないだろうとたかをくくってはいたものの、駅にたどり着いてもあの小さな背中を見つけることが出来ず、もう都電に乗ってしまったのかと荒い息遣いの下周囲を見回す。しつこく二本ほど電車が着いて駅を出るまでその場に居たが、やはり彼の姿を認めることは出来ず、鳥口は諦めて帰途についた。
追いついて―――彼に自分は何を言うつもりだったのか、と歩きながら鳥口は自らの胸に問うてみた。
『どうしたの』
思いついた言葉がそれだけであることに、鳥口は思わず笑ってしまう。これでは先ほどの繰り返しだ。
答えは―――わかっていたではないか。
家の近所まで来た処で、鳥口の耳に、きい、と金具の軋る音が聞こえてきた。街灯も何もない真っ暗な公園に、誰か人の気配を感じる。
目を凝らすと、小さなブランコに腰掛ける見覚えのある小さな背中が見えた。鳥口は再び大きくため息をつくと、大股でその背中へと近寄っていった。
「何してるんです」ブランコの鎖に手をかけ、ぼんやりとそこに座る関口へと声をかけると、
「……別に」とたいして驚くでもなく、関口は振り返りもせずそう答えた。
「帰ったんじゃないんですか」
「帰るよ」これからね、と関口はゆっくりと立ち上がる。
「あのね。先生」
鳥口がそんな関口を背中越しに抱き締めた。両腕にブランコの手摺があたり、キイ、とまた小さな音をたてて金具が軋る。
「離せよ」関口はそう言いながら、その場を少しも動かなかった。
「帰るの、やめましょう」そう言って鳥口はブランコの板を跨ぐと彼を抱き締めていた手を離し、そのままブランコへと座り込む。関口はそんな彼の直ぐ前に立って、彼の顔を無言のまま見下ろしていた。
「僕の顔を見に来たって言いながら、まだ全然僕の顔、見てないじゃないですか」
漕いでいい?というように首をかしげると、関口は身体を退け、隣のブランコへと自分も腰掛けた。
「だからね、帰るのは僕の顔を見たあとにしてくださいよ」鳥口は言いながら、ブランコをこぎ始める。子供用のそれを漕ぐには鳥口の脚は長すぎて始めはすぐに誤って靴の底を擦ってしまっていたが、やがてコツを掴んで鳥口は大きくブランコを漕ぎ始めた。関口はやはり無言で鳥口が目の前で上下に揺れる様をじっと見ていたが、やがてその揺れがあまりにも大きくなってくると
「危ないよ」と漸く声をかけてくる。
「大丈夫ですよ」久々に乗ると面白いっすね、と鳥口は益々調子にのって大きくブランコを漕いでゆく。
「危ないよ。子供用なんだから…君みたいにガタイのいいのがそんなに漕いじゃ…」と関口が声を荒立てたそのとき、鳥口は大きく前に揺られたその勢いを借りて、えい、とばかりに前へと飛び出していた。
「鳥口君!」慌てたように関口が近寄ろうとするのを
「先生こそ危ない」と鳥口は関口を庇うようにして揺り返してくるブランコの板を避けてみせた。
「……まったく…」鳥口の腕の中で、関口が小さく溜息をつく。
「心配した?」くすり、と笑ってそう彼の顔を覗き込むと
「馬鹿じゃないか?」と関口はそんな彼の胸を拳で軽く殴った。
「あれくらい、子供のころによくやりませんでした?」まだ大きく揺れてるブランコの方を振り返りながら鳥口がそう言うと
「もう子供じゃないんだから」子供のころよりどれだけ体重が増えてると思うんだい、と関口はあきれたようにそう返す。
「大丈夫ですよ」鳥口はそう笑うと、また振り返って関口の顔をじっと見下ろした。
「僕は、大丈夫です」
「よくわかったよ」関口の嫌味っぽい口調が可笑しかったのか、鳥口はふふ、と小さく笑うと言葉を続けた。
「どんなことがあっても、僕は先生の傍にいますから」
「鳥口くん…」関口が小さな声でその名を呼ぶ。
「大丈夫ですよ」鳥口はそういうと、抱き締めていた関口の背中を軽く叩いた。
「さあ、帰りましょう。今夜はいっそのこと、泊まっちゃうっていうのはどうですか?」その背に手を廻しながら、鳥口がそう明るく声をかけると、関口は、うん、と小さく頷いて、彼に促されるままに歩き始めた。
「ごめん」
随分家に近づいたとき、隣で小さく謝る関口の声が聞こえたが、まだ彼の謝る理由を受け止める自信がなかった鳥口は、それにはまるで気付かぬふりをしながら
「今日も星が綺麗ですねえ」などと大きな声を出すと空を見上げ、関口の背に廻した手に力をこめた。
『大丈夫ですよ』
自分で自分の胸に、そう強く言い聞かせながら―――
<終>