『こゝろ』
どうしたら、思いを素直に伝えられるんだろう。
どうしたら、その腕に簡単に触れることが出来るようになるんだろう。
「友人」でいた時間があまりに長すぎて、
どうしたらこの気持ちを・・愛しい気持ちを真っ直ぐに伝えられるのかが・・・
どうしても僕にはわからない。
久々に神保町の古本屋街を、関口はぶらついていた。
そろそろ梅雨明けなのだろう。じりじりと照りつける太陽を避けるように、時折店店を
ひやかしながら、別にほしい本があるわけでもなく、かといって時間つぶしをしてるわけでもなく − 言ってみればこれも趣味の一環なのだろうが、関口は何も考えずにぶらぶらと歩いている。
このまま行くと、榎木津の事務所に着くな、と何件目かの古本屋の棚を見上げながら、関口はふと思った。訪ねてみようかな、と思考がそちらへ行きかけたそのとき、一冊の本が関口の目に飛び込んできた。
思わず棚から引き抜いて手にとってまず装丁を見る。ぱらぱらと開いて中を見て、恐る恐る背表紙をめくる。
「初版本だ・・」思わずひとりごちて、自分の声に驚いて恥ずかしさのあまり周りを見まわしたそのとき、
「一人で赤い顔をして!ほんとに猿だなっ」
不意に背後から手が伸びてきて、関口の手にした本を取り上げた。そのこと以上にその偶然に驚いて関口は振り返りざまにその名を叫んでいた。
「榎さん!どうしてっ・・」
「関はこれを探していたのか?」榎木津は涼しい顔をして関口から取り上げた本をぱらぱらと捲っている。
「榎さん!なんだってこんなところに?」関口が重ねて問いかける。と、榎木津は本から関口の顔に視線を向けると
「散歩だ」とといってにっと笑った。相変わらずの美貌。こぼれた白い歯にしばし関口は見惚れる。が、榎木津がその本を手にして会計に向かうのに気づくと
「だ、駄目だよ!榎さん!」と慌ててその後を追った。
「何が駄目なんだ?」心底怪訝そうに榎木津は振り返る。
「た、高いよ!」声を潜めて、それでも力いっぱい関口は榎木津の袖口をつかんでもとの本棚の方へと引き返そうとした。
「高い?」
「だって、それ・・『こころ』の初版本だよ?!」
関口が慌てるのも無理は無い。漱石の初版本 − 好事家ならいくらでも大枚をはたく代物である。だが、榎木津は涼しい顔で
「高いといっても、家を買うよりは安いだろう」などと言いながら、関口の制止を振り切って、会計へと本を持ち込んでしまった。
自分が金を払ったわけではないが、榎木津の財布から大金が惜しげもなく店主に支払われるのを見ると、関口は血の気がひくような思いがした。店主が丁寧に包装しようとするのを、榎木津は「そのままでいい」と制して本をわしづかむと関口を振り返り、
「さあ、帰るぞ!」と笑った。
なんとなくそのまま、関口は榎木津について彼の事務所へと向かうことになった。
肩を並べて歩きながら、関口は榎木津と、彼の手の中にある本とをかわるがわる眺めては心の中でため息をついていた。
榎木津と、「友人」ではなくなってからしばらくたつ。この美丈夫から「好きだ」と告白されて、わけもわからないうちに体の関係も出来て − わけもわからないうちに、というのは勿論正確ではない。関口は学生時代から榎木津に惹かれていた。だけどまさか榎木津と恋を語り合う関係になろうとは思わなかった・・・。
「関!」不意に名前を呼ばれて我に返る。
「どこまで行くんだ?もうついたぞっ」榎木津がビルのドアを開いて待っている。関口は慌てて榎木津の腕の下をくぐって中へと入った。
「夏ばてか?」入った途端に榎木津は片手で関口の髪をなでながらその額に触れる。
「だ、大丈夫だよ」そんなことにも関口はどきまきしてしまって、榎木津より先に立つと足早に階段を上った。
事務所には誰もいなかった。茶は自分で入れろ、と榎木津は関口に言って、自分は風を入れるために窓を開いてまわった。周囲に高い建物がないせいか、夏場でも榎木津の事務所はそれだけでもずいぶん涼しくなる。冷蔵庫から冷たい麦茶を2つ入れて、関口が部屋へともどると、榎木津は窓辺の椅子に腰掛けながら、買ってきた本を捲っていた。
そんな彼の髪が、シャツが、風に吹かれてゆるやかな動きを見せている。その姿に関口は暫し見惚れた。そこだけまるでくりぬかれたような、完璧な「美」の世界−。関口に気づいて榎木津が顔を上げる。その整いすぎた美貌、外光を受けて鳶色に輝く美しい瞳に見つめられて、関口はますます動けなくなる自分を感じる。
「何をぼうっとしているんだ?」
「なんでもないよ・・」榎木津の問いかけに、やっと関口は呪縛が解けたかのように足を動かすと彼に近づき、手にした麦茶を榎木津の前に置いた。
「『こころ』か・・懐かしいな」榎木津は、関口に自分の前に座るよう示すと、本を関口へと手渡した。
「関は、漱石が好きなのか?」
「好き・・っていうか・・」関口は本を受け取ると大切そうにそれを両手で抱えた。
「初めて泣いた本なんだ」本を読んで泣けるとは思っていなかった。若さ故か − 初めてこの本を読んだときの、胸にせまるような気持ちがこみ上げてきて、関口は暫く言葉が出なかった。今となってはすっかり遠くなってしまった、若き日の、まだ世間も何も知らなかった青い自分。ページを捲る度になぜかはたはたと涙を落としてしまったあの日 − あれもこんな夏の日ではなかったか −
そんな関口を榎木津は優しい瞳で見つめていたが、やがて
「読んでくれないか?」と関口に微笑みかけた。
「え?」関口が顔を上げる。
「もうずいぶん本を読んでない・・」榎木津は少し目を伏せながら微笑みはそのままにそう続けた。
榎木津の目は随分と悪いのだ−左眼は殆ど視力がないという − 関口はそれに気づいて何も言うことが出来なくなってしまった。
「榎さん・・」−榎木津は本を読みたくても読めないのだ。
「・・そんな顔をするな」榎木津は立ち上がると、関口の隣へと移動した。榎木津の手が関口の髪に伸びる。
「読んでくれないか?」榎木津は関口の髪を優しくなぜながら、もう一度そう繰り返した。関口はページを開いた。そのまま、ぽつりぽつりと読み始める。
懐かしい文章。優しい榎木津の指の感触。それだけで、関口の胸がいっぱいになる。ともすればかすれそうになる声を関口は必死で押さえて、たどたどしく1ページ1ページを読み進めていく。
3ページ目くらいになると、流石に声が疲れてきた。関口はごめん、と麦茶を一口飲んだ。
「疲れたか?」榎木津の手が、関口の髪から肩へと落ちてきた。
「まだ大丈夫だよ」言いながら関口は今度は真っ直ぐに榎木津を見返すことが出来た。
「少しずつでいいぞ。毎日毎日、少しずつ。」時間はたっぷりあるのだから、と榎木津は関口の肩を抱きながらそうささやいた。
関口はゆっくりとそんな榎木津の胸に自分の体を寄せた。
そう。ゆっくりと。本のページを捲るように。少しずつ、少しずつ近づいていけばいい。
全てのページを捲り終える頃には、きっと自分も彼に言えるはずだ。
好き、と。
「ほんとうに毎日・・・来てもいいのかい?」と関口は榎木津を見上げた。
榎木津は微笑むと関口の頬を両手で包み、優しく口吻けることでそれに答えた。
さわさわと、心地よい風が二人の周りを吹き抜けて行く。
「・・・失敗したな」口吻けのあと、くすり、と榎木津は笑って言った。
「?」関口がそんな榎木津の顔を覗き込む。
「もっと、『好き』とか『愛してる』とか・・・そうだ!『抱いて』とかいう言葉が沢山出てくる本を選べばよかったな」
「馬鹿・・」関口はついつい笑ってしまった。
「『馬鹿だ。・・・僕は馬鹿だ』」と榎木津は笑って関口を抱き寄せた。はじめわからず抱きしめられるままになっていた関口が、はっと気づいた。
「榎さんっ!随分よく覚えてるじゃないかっ」それは『こころ』に出てくる有名な台詞。
「当たり前だ。僕は神だからな」一回読んだ本は忘れるものか、と笑って榎木津は関口に再び優しく口吻ける。関口の膝の上で、ただ高価なだけではない「大切な本」が、ぱたりと音をたてて閉じられた。
次にページを捲るときは確実に気持ちと言葉が近づいている。
そんなことを予感させる、少し風強い夏も間近な或る日の午後のこと−。
<終>