恋 人




「榎さん、いるかい?」
がちゃりとドアを開いて関口は事務所の中を見回したが、榎木津は勿論、いつも出迎えてくれる和寅も、何故だかいつも鞭を手にしている探偵助手の益田の姿も見当たらなかった。
鍵もかけずに事務所を空っぽにするなんて、なんて無用心なんだと関口は軽く口を尖らせたが、よく考えてみるとここには盗まれて困るものなどなさそうだと思い直す。そろそろとそれこそ泥棒のような足取りで部屋の中央まで進みながら、もしかしたら榎木津は自室で惰眠を貪っているのではないかと思いつき、その部屋のドアを叩いてみた。――が、中からは何の応答もない。
「…榎さん、入るよ?」
そっとノブを廻すとドアを内側に開く。途端にその部屋の篭った空気が関口を襲い、そのアルコホル臭に顔を顰めながら、彼は榎木津の寝台の方へと歩み寄った。寝台の上の毛布が人の形を為していることに気付いたからである。
遮光のカアテンを半分だけ閉めたその部屋は昼過ぎの陽の光りに照らされているために、中の様子は殆ど見て取れる。寝台の回りに散らばる空いた酒の壜が5本、6本――これを一晩で、一人で飲んだのだろうかと半ばあきれ、半ば心配しながら関口は寝台の傍らに立ち、寝ている榎木津の顔を覗き込もうと彼に覆い被さった。
アルコホルの強い匂いが関口の鼻を差す。榎木津は毛布にくるまっており、その表情を見ることは叶わなかった。
どうしようかな、と関口は暫しそんな彼を見下ろしていたが、もとより榎木津に用があって彼を訪ねたわけでもなかったので――退屈しのぎに神保町の古本屋街を冷やかした帰りにふと思いついて寄っただけだったのだ――そのまま彼を起こさず帰ることにした。それでも彼が目覚めたときのために、水くらいは汲んでおいてやるかとそっと寝台の側を離れた。台所で水差しに水を張ってコップとともにそれを手に部屋へと戻って来、そっと枕元の台に置いてやり、さあ引き帰そうとしたそのとき、足元に転がっていた酒壜に足をとられ、危うくひっくりかえりそうになった。なんとか持ちこたえようと身体を支えたのが榎木津の寝台で、ぎしりと大きくマットレスが傾ぎ、榎木津が低く唸る。
起こしたか、と関口はそっと再び榎木津の顔を覗き込もうとして――いきなりその腕に捕われ、彼の胸へと抱き寄せられた。
「おいっ!榎さんっ」慌てて抗議の声を上げながら両手を振りまわす関口の動きなど軽がると封じて、榎木津は益々強い力で彼を抱きしめてくる。強いアルコール臭が関口を包む。「僕だよ、離せよ」と、関口は抱き取られた胸に必死で両手をつき身体を離そうとするが、榎木津は酔っているのか寝ぼけているのか、少しもその腕を緩めることなく関口の髪に顔を埋めてきた。
関口は諦めて体の力を抜いた。力で榎木津に敵う筈などないのである。榎木津が眠るのを待ってこの腕から抜け出そうと思ったのであった。関口の頭の上で榎木津が規則正しい寝息を立て始めた。

こんなになるまで――榎木津を酒へと駆り立てたものは一体何なのだろう。

ふと関口の頭に、そんな思いが浮かび――やがてその考えに苦笑した。彼が何かを悩んでいると何故自分は思ったのだろう、と。
榎木津が深酒をするのは何も今日に限ったことではない。木場と二人、それこそ潰れるまで――大抵潰れるのは木場であったが――飲むことなど珍しいことではないのに。

それでも――

榎木津の腕に、少し力が篭められたような気がして、関口はそっと榎木津の顔を見上げた。端正な顔立ち――その瞳は閉じられ、長い睫の影が白皙の頬に濃い影を落としている。
ヴィスクドールのような榎木津の美貌に関口はいつものように瞬時見惚れ、すぐ我に返ってまた人知れず苦笑した。本当に榎木津は年をとらない。彼の上では時は違うスピードで流れているのかもしれない。はじめて彼に出会ったあの日から、こうして彼の顔に見惚れ続けてきたような気がする。今は閉じられている彼の鳶色の美しい瞳――人の過去を映すその瞳に映る自分は、相応の年月を積み重ね、日々の暮しに、せちがらい世の中にくたびれた風貌を晒しているのだろうと思うと少し気が沈みもしたが、今更そんなことに捕われていることの馬鹿馬鹿しさに三度(みたび)関口は苦笑して、そっと彼の腕の中から逃れようと試みた。

こうして抱き締められる感触は――『彼』を思い出させる

もう随分肌を重ねていない、『彼』のざらりとした着物の感触が関口の脳裏に不意に甦り、関口はそのイメエジから逃れようと軽く頭を振りながらそろそろと榎木津の腕から逃れ出た。

最後に――彼に抱かれたのはいつだったか。

互いの妻の不在を狙う慌しい逢瀬で、言葉もなく抱き合い、その精を受け精を吐き出す。
どうしてそんなことを繰り返すのか――今となっては自分でもよくわからなくなっていた。
切欠は一体なんだったのだろう。「愛妻家」と言って憚らない彼が文字通り背徳の――妻を裏切るだけではない、同性同志で抱きあうという二重の背徳を犯している、その苦しみはそのまま関口自身の苦しみでもあった。断ち切ろうと思ってしかるべきであるのに、その選択にすら気付かぬように密やかに重ねる彼との罪の逢瀬――それに榎木津は気付いているのか、と時々関口は彼の顔を盗み見ることがあった。榎木津からは何も言われたことはない。『見える』彼であるから、気付いていないわけがないような気もするが、そんな彼の特異な体質を慮ってか、抱き合うときは必ず『彼』は部屋を暗闇で覆った。そして、関口はしっかりと常に目を閉じていた。この目に何をも焼きつけないように――

『彼』は――あの黒い瞳を、やはり暗闇のなかで閉ざしているのだろうか

ふと浮かんだ疑問は、関口を深い自嘲の念に陥らせる。隠して、決して人に知られぬよう隠し通して――その結果己が手にするのは――『彼』なのか。


『彼』の――愛か


愛など二人の間に存在するのかと、関口は思い――馬鹿馬鹿しいとまた頭をふって苦笑した。
愛――なんて青臭い言葉だ。こんなにもくたびれた己には何より似合わない言葉ではないか、と関口は笑い、乱暴なまでの動作で寝台から降りる。ううん、と榎木津が低く唸った。起こしたかな、と様子をうかがっていると、むくむくと毛布の山が大きくなり
「…………」ぼんやりした顔のままに、榎木津がその半身を寝台の上に起こした。
「ごめん、起こしたかい?」関口はそう謝りながら、枕元の水差しからコップに水を注ぎ、はい、と榎木津に差し出してやる。
榎木津はコップを受け取ると一気にそれを呷った。そして漸く視点を関口に合わせ
「セキじゃないか…」どうした、とまたコップを差し出し返してきた。もう一杯くれという意味かなと関口が水差しを手に取ると、いや、いいと頭をふって榎木津はコップを関口の手におしつけ、よいしょと寝台から降りて立ち上がり、半分締まっていたカーテンを開くために窓辺へと進んだ。
「随分飲んだんだね」より明るくなった室内をあきれたように見まわす関口に
「飲みすぎた」とぼそりと榎木津は答え、大きく窓を開いて空気を入替える。そのままじっと外を眺めている彼の傍らに関口は歩み寄り、彼が眺めているのが何かとその視線の先を見やった。
少しも珍しくない風景しかない窓の外――榎木津は一体何を見ているというのだろう。

「和寅君は?」何故か二人、口を閉ざしているこの沈黙が気詰まりになり、大して興味もなかったが、関口がそう彼の居所を尋ねると
「さあ……」と本当に興味なさそうに榎木津はそう答え、また窓の外へと視線を戻した。

風が――秋の気配を感じさせる、少し肌寒いくらいの冷たい風が、二人の間を吹き抜けてゆく。

関口はまた『彼』のことを思った。最後に彼と抱き合ったのは、合わせた身体があっという間に汗ばむ夏の盛りのことだったのではなかったか


「そんな顔をするな」
不意に上から声がして、関口は我に返って声のした方を見た。榎木津が自分を見下ろしていたらしい気配がしたが、関口が見たときには彼の視線はもう関口の上にはなかった。
「…え?」
相変わらず窓の外の何ものかを見つめる榎木津の白皙の横顔に向かって、関口は小さくそう問いかける。
「サルの泣き顔なんぞ見たくないぞ」
榎木津はそう言って関口の背中を乱暴に2回叩くと、シャワーでも浴びるかと大声で言いながら踵を返した。
叩かれた背中の痛みに顔を歪めながら、関口は何と返したらいいのかわからず榎木津の広い背中を見つめる。

泣く――?僕がか?

何故――


関口の頭にまた『彼』の影が射した。



「榎さん」何故だか関口は榎木津の名を呼んでいた。榎木津の足が止まる。振りかえろうとする彼に、自分は一体何を言おうとしたのか――自分でもわからないままに関口は榎木津が自分に視線を向けるのを待った。
「榎さん…」
「僕なら…」
関口の呼びかけと榎木津の言葉が重なる。よく聞き取れずに関口が、え?というように軽く首を傾げると
「いや…」何でもない、と榎木津は苦笑するように笑うと、勝手に茶でも何でも飲んでいてくれ、とまた身体を返し、浴室へと入っていった。
やがてドアの向こうからシャワーを使う音が聞こえてくる。関口はぼんやりとその場に断ち尽くし、その音に耳を傾けながら榎木津の消えたドアを見つめ続けた。


『僕なら』


確かに彼はそう言ったと思う、と関口は心の中で反芻する。
『僕なら』――そのあと彼は何と続けようとしたのだろうか。


知らぬうちに関口は己の身体を己の腕でしっかりと抱き締めていた。榎木津の力強い腕の感触を蘇らせようとでもするかのように。

あの腕の感触が関口に思い起こさせたのは、『彼』のあの細い腕だったのだけれど――

関口の脳裏に『彼』の濃紺の着物の裾がはためく。
中野を訪ねようか、とぼんやり思っている自分に気付き、関口は小さく溜息をつくと足元に転がる酒の壜を軽く蹴った。

榎木津の使うシャワーの水音がひとしきり大きく部屋の中に響いた。


<終>