衣擦れに、爛れる。
春陽様
わらび餅を売って歩く行商の声が途絶え、天は高くなりつつある。肌を撫ぜてゆく空気はひんやりとしていた。気が付けば、夏は過ぎ去り季節は初秋。昨日、妻が箪笥の中身を入れ替えたようで、朝起きてから引き出しを開けると麻や、絽などの夏物が姿を消し、秋物一色となっていた。なんとはなしに安堵のような心地を覚え乍ら、藍色の木綿の唐桟を手にとり、袖を通す。―――夏にはない袖の厚みと匂いに、ふと脳裡を掠める追憶。
それは、今年初めて浴衣に袖を通した日。
……詰まらないことを、覚えている。
僕は苦笑したいようで、出来きかねるような曖昧な心境になり、眉根を寄せる。
茶の間に移動すると、飯を装っている千鶴子もまた、秋の小紋に身を包んでいた。朝の挨拶を済ませ、卓袱台の前に腰を落ち着けた僕の表情に、彼女は目聡く気づく。僅かに心配そうな色を目に浮かべて、問うてきた。
「ちょっと秋物は早かったかしら」
「いや。これで丁度善いよ」
「そうですか。ならいいのですけれど」
小首を傾げながらも、妻は引き下がる。そんなにも己は可笑しな表情をしていたかと、僕は面白くのない思いをする。
―――全く。
知らず、深い溜息をついていた。
碌でもない。
今日あたり、関口が来るだろうと予想していると、矢張り来た。彼には珍しく、まだ朝と云える時間での来訪である。僕が店に座っていると、彼は相変わらず(毎日、細君がアイロンをかけているだろうにも関わらず)皺の寄った開襟姿で、顔を覗かせた。
「よう」
怠そうにかけてきた声にわざわざ返答する気も起きず、僕は眇めた視線を遣るに留めた。勿論それを気にする男ではなく、遠慮の欠片もなく這入ってくる。小心者のくせに、こんなところは図々しい。気が小さいとはいえ十数年の付き合いである。僕にはすっかり狎れている。
関口が、久し振りに店内の本を物色する。原稿で何か行き詰まっているのであろうかとも思ったのだが、焦燥がすぐに顔に表れる関口のことだ。この呑気な様子からして、単に暇に飽かせてのことであろう。
大した吟味もせぬままに適当に三冊選ぶと、「これ買うよ」と云ってきた。その中に、中中面白かった本が混ざっており、関口もそれを気に入るだろうと僕は思う。そして、少し彼は不安定になるのだ。それを彼に告げることはしないが。
見計らっていたのだろう、妻がお茶でもどうですと声をかけてくる。関口は聞き取りにくい調子で礼を云うと、僕には何の断りもなしに帳場から中に入る。どうせ初めからその積もりであったのだろう。これもいつものことである。僕も後を追った。どちらにしろ、僕も咽喉が渇いていたのだ。
正直なところ、関口や榎木津、木場といった連中と茶を飲むのが概ね僕は嫌いではない。概ねと但し書きとつけるのは、彼らの強すぎる個性というか短所と言うべき部分が、どうにも鬱陶しく迷惑だからである。それぞれ、まともに相手をするには難のある者ばかりだ。それでも彼等と付き合うことをやめないどころか、彼等がやってくるのを何処か楽しみにしている僕を妻は知っていているから、茶をもてなすのだ。
座敷に上がってから、暫く僕も関口も沈黙のままに本を捲っていると、妻が茶を淹れにきた。一応恐縮してみせる関口の前に湯呑みを置くと、妻は彼に尋ねた。
「お昼ご飯はどうなさいます? 一緒につくりましょうか」
「い、いえ、それは悪い。昼になったら帰りますよ」
「遠慮なさらずに。夏の間の素麺がまだ残っているんですよ。正直なところ、一緒に片付けて欲しいのです」
微笑みながらそこまでいわれて、尚も遠慮するような間柄ではない。関口は、それじゃあと頷いた。
「じゃあこれからお買物にいってまいりますから、その後お昼にしましょう」
千鶴子がさがったあと、「素麺か、そういえば今年の夏はあまり食べなかったなぁ」と関口は呟き、湯のみを手にする。同じように湯呑みを手にした僕に、ふと気がついたようにこのようなことを云ってきた。
「君のところはもう熱い茶を飲むんだね。衣替えも済んだようだし――すっかり秋だ」
衣替え。
今朝、思い出した記憶が、また刺激される。
「雪絵さんはまだしていないのかい、衣替え」
「うちは、和装じゃないし、はっきりとした衣替えってものはないよ。箪笥の中には夏物と秋物が入ってる―――君の家にくると、季節の変化を強く感じるよ」
庭木も豊かだしね、と裏庭にちらりと視線を遣る。廊下を挟んだその先には、つい先日までは青々としていた紅葉がそろそろ黄色を帯び初め、何時の間にやらすっかり秋めいている。何処か湿り気のある空気は何処かへとゆき、肌に馴染みよい涼しさがある。石榴が廊下でごろりと寝転んでいた。
関口は心地よさそうに瞳を細めると、僕の方を向き直った。そして自然と零れ落ちた、というふうに彼はそれを口にする。
「なんだか、君のその格好を見ているだけで、秋の匂いがするようだよ」
「―――」
君も、覚えていたのか。
脳裡を掠めた思いに、しかし次の瞬間には僕は苦笑した。この男が覚えている筈があるまい。
「………君は、夏がはじまったばかリの頃も同じことを言ったよ」
殊の外、静かな声が出た。しかしそんな僕の調子に関口が気づくことはなかった。彼は視線をやや上方に向け、思い出すように努めていたが、観念した。
「――僕は覚えてないよ」
「そうだろうね」
あっさりと返した僕の言葉が気に障ったようだが、何も言い返してこなかった。案の定、というべきことだったので僕も大した感慨を持たない。ただ些か口惜しくは、あった。
いつまでも変わらぬことなのだろう。
それは痛みでも僥倖でもなく、ただの事実である。
僕には、それは変えようのないことだという、ただそれだけである。
(―――是非もない。)
口元に笑みを刷く。
「なんだい、京極堂。何かあるのかい」
「いや――」
不満そうに口を膨らませる関口を軽くいなし、僕は再び本を手に取る。彼は諦めたような呆れたような溜息をつき、ごろんと横になった。
漢書に目を走らせながら、しかしちっとも頭に入らぬ自分を僕は自覚している。
そうして、思いを馳せた。
+++
君、浴衣なんか着て、珍しいじゃあないか。
夏の夜、観月の酒の席で関口は、そう云った。
そのときの関口は、酔いのせいか頬が軽く上気していた。澱んだ目元は朱に染まり、いい様もなくとろりとした滑らかな雰囲気を醸し出していた。
確かに珍しいのかもしれなかった。僕は普段、浴衣は着ない。それほど暑がりでもないので、夏生地の着物で済む。だが、その日はそういう気分だったのだ。
「へええ、麻の上布か…洒落てるね」
返事を返さない僕に頓着せず、関口は無遠慮に手を伸ばして衿に触れ、そう云った。
「おい…関口君」
衿を引っ張られた為に、やや着崩れした僕は顔を顰めた。しかし酔いにまかせて調子づいているのか、謝りもしない。それでも暫く大人しく浴衣の布地の手触りを楽しんでいるかと思ったら、おもむろに関口は鼻を近づけてくる。
「ああ――夏の匂いがするようだよ」
関口は目を細め、極めて至近距離から云った。僕は狼狽したが、それを悟られぬように無表情を面に貼り付け、何の気なしを装って言葉を紡ぐ。
「するとしたら、それは僕の匂いでしかないよ」
夏の匂いなんかではなく。
君は暫し思案し――そうして、緩緩と微笑んだ。
「うん、そうだね。君の匂いだ。――だから、心地よい」
+++
気が付くと、関口はそのまま寝入っていた。
瞼をしっかり閉じて、目覚める気配は欠片もない。
よくも他人の家で熟睡できるものだと、その図々しさに僕は呆れた。昼を過ぎてから陽気と満腹とで眠たくなるというのならまだ分かるが、今は午前中である。――まあ、珍しく早起きをしてこちらに来たせいで、寝足りぬのだろう。
外からは先程に比べ、やや冷たくなった風が吹きこんできている。寒かろうと思い、僕は戸を閉じると、羽織を脱いで関口に被せた。暫くして買物から帰ってきた千鶴子はそんな様子に目を丸くした。毛布を用意しましょうかと尋ねてきたが、僕はそれを留めた。この男にそんな心遣いをしてやる必要はないし、どうせすぐ目覚めるだろう。大体、毛布などを掛けたら、本格的に寝入られる危険がある。
仕方なく寝ている関口を放置して、僕と千鶴子は季節遅れの素麺を啜った。千鶴子は関口の寝顔を横目に、この方がこれほど熟睡なさるのは、ご自宅以外ではきっとこの家の他にないでしょうね、と云った。千鶴子の笑みに誘われるままに、僕は頷く。―――こんなとき、妻に凡てを見透かされているのかと思う。
食べ終わると、千鶴子は下膳し、部屋を退いた。
僕は再び本を手に取ろうとして、ふと関口の方を見る。相変わらず呑気に背を丸めていた。彼と知り合ってから僕は、それを幾度も眺めてきた。一向に変わり映えしない。
暫く、意識せぬままかなりの時間、僕は関口を見ていた。彼が寝返りと打つ度に伸ばしっぱなしの髪が乱れ、普段は隠されている額を露にしていた。それは、青みを帯びて、白い。
僕は関口が羽織を皺になるほど握り締めていることに気づいた。僕の羽織に包まれて眠る彼は、常よりも色めいて見えることは、恐らく目の錯覚であろう。―――なんとも業の深い。僕は己を嗤った。
僕に見られているとも知らず、彼は穏やかに眠り続ける。そのうち彼は、仔犬がするように鼻先を羽織に埋めた。
匂いを嗅ぐかのように?
そして……彼は倖せそうに微笑んだのだ。
(―――嗚呼。)
僕は本当は知っていた。夏のあの夜、関口が口にしたことが戯言ではなかったことを。酔いに任せてのことで、例え関口本人が忘れ去っていたとしても。
僕は静かに立ち上がり、関口に近づいていた。
裾を捌く音が他人事のように感ぜられる――否、この行為を、無意識に、衝動に糊塗そうとは思わない。ずっと胸に秘めていたことだ。
眠ったままの関口に覆い被さると、顔の左右に両手をついた。
自制の声はしない。
しないのだ。
何も変わるはずがないと思っていた。
こうして静かに、そして唐突に崩れていくものだとは、僕はこの瞬間まで知らなかった。
しじまが僕の心を占めた。
急に出来た影のせいだろう、関口はゆるやかな目覚めを迎え、目を開く。
そして目を瞠り――呻く。
僕の髪が、彼の頬にさらさらと零れ落ちた。
声もなく呆然とする関口。
僕の瞳を見詰め乍ら、きっと今、彼もまた悟った。
悟ったことを、僕は知ってしまった。
すっと関口は僕から目を逸らす。その先には、僕の羽織。僕は顔の位置を元に戻すように、関口の頬に手を遣った。殊の外、衣擦れの音は静かなこの空間に響く。再び正面から絡まった僕達の視線。
――酔ったように、眠るように、関口は瞳を瞼に隠した。
崩れてしまったものを、僕は思う。
強く思う。
羽織を握り締めたまま、それでも関口の唇は軽く開かれ、
赤く爛れる。
了
春ちゃん!!!
なんて…なんて素晴らしい小説を(泣)!!
メール開いた途端にもう…マジで泣いちゃったよう(泣)
ほんとにほんとにほんとーに!!
春ちゃん、どうも有り難う!!!
やっぱりうさこは春ちゃんを心から尊敬するよ!
京極堂が・・・あまりにも京極堂が京極堂で!!
ああ、秋彦さんっっ!!!
関口君に対する想いを完全に自分で把握しない前の
「何とない」思いも絶妙ですが、
なんといっても最後、彼への想いをはっきりと自分に認め
行動に移す瞬間!
そして関口君が目を開け、そしてその目の中に、自分に対する
想いをはっきり自覚したと悟る瞬間!
さらさらと関口の顔にかかる京極堂の髪!
ほんとにもう…凄いよう(泣)!!
やっぱり春ちゃんは凄いのです!
ほんとにこんなうさこごときに、こんなに素晴らしい京関小説を有り難う(泣)!!
あんなに可愛い春ちゃん。そして心優しい春ちゃん。
うさこは春ちゃんの作品は勿論、春ちゃん自身も大大大大大好きだようvvv
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