かりそめの名




「好き」という言葉以外にこの気持ちを表現できる言葉があるのなら
その言葉の全てをかれへと捧げたい


鳥口守彦は目の前の原稿用紙に向かって小さく溜息をついた。
決してそれはその出来映えが彼の意に染まないものであったというわけではない。
癖のある細々としたその字体に、鳥口がその筆者を思いやってしまったからに他ならない。


仮初の名前


鳥口はまた溜息をついた。
この名のときは、かれが自分のものになってくれればいい


ふとそんな言葉が頭に浮かび――そんなことを考えている自分を馬鹿だと思った。


違う名を名乗っていても彼は彼だ
その人格が二つにわかれるはずもなく
ましてやその身が二つにわかれるはずもない。


それでも
鳥口は夢見ずにはいられない。自分の腕に彼を抱くその瞬間を
彼の細い腕がおずおずと自分の背を抱き締め返すその感触を


決して来ることのないその日を


仮初の名をもつかれが仮初の姿をもつのであれば
「好き」という言葉に仮初の姿を与えて
その言葉の全てをかれに捧げたい


仮初のかれだけがわかるような言葉を「好き」という言葉にに当てはめるとしたら、どういう言葉が相応しいだろう。
鳥口は可也真剣に自分がその「言葉」を考えていることにふと気付き、自嘲気味に笑った。
何時の間に自分はこんな風にぼんやりと思いを馳せるような男になってしまったというのだろう。







言葉にすると余りにも軽々しくて、それが余計に自分には相応しいようにも思えて、鳥口は声に出して呟いてみた。


「恋、か」


そしてまた手にした原稿へと目を落す。
軽々しい言葉を軽々しく呟くことで、この気持ちまでもが軽々しいものになってくれれば、どれだけ自分は救われることだろう


字面だけは目で追いながら鳥口の頭に浮かんでいるのはかれの細い首であり、額に落ちる前髪の影であり、黒目がちの瞳であり――


「恋、か」


思わずそんな思いを振り切るように、鳥口は益々軽々しい調子でそう呟いた。


『好き』という言葉にも仮初の名があるのだとしたら
この想いの全てをそれに託して仮初の名をもつかれに捧げたい


仮初の言葉としてしか受け取られないことを何よりも望んで――



仮初の世界で
仮初のかれに
仮初の言葉で
仮初の恋を語る



なんという軽々しさ



そしてその軽々しさが何より自分を救ってくれているという事実(こと)に傷つきながらも、鳥口の想いはまた紙面を超えてかの人へと向かっていった。



<終>