夢のまた夢






せめてあの夏だけをやり直せたら
全てをなくしても僕はかまわない


関口が――榎木津のモノになったということに気付いたのはいつの頃だったか

その翌日にもう気付いていたような気がする。
胡乱な彼が、神保町からの帰り道、中野の店を訪ねてきたからである。

「…やあ」

夏の盛りの暑い日だった。汗で貼り付く彼の白いシャツに、その下に着ているランニングの線がくっきりと浮き出ていた。
顔色が悪いな、と彼の顔をみた瞬間に思ったが、はじめは暑さのせいだろうと気にも止めずに、いつものように無愛想に「やあ」と僕は返し、そのまま読んでいた本に目を落とした。
「千鶴さんは?」
彼はいつものように僕の傍らまで歩み寄ることはせず、少し離れた本棚の前にいつまでも立ち尽くしながら、それでもその本棚の本すら眺めようともしないで、唐突にそう僕に尋ねた。
「何を言っているんだい。雪絵さんを連れて実家に戻っているんじゃないか」
僕はあきれたようにそう答え――ふと違和感を覚えて彼の顔を改めて見上げた。
「……ああ、そうだ。暑い中あんな坂を登ってきたものだから、頭がぼんやりしていたよ」
関口が何でもないことのように言ってそう笑う。
「本当に君は……」仕方が無い、と続けようとした僕はぎょっとして彼の顔に見入った。

彼が――泣いているように見えたからだった。

そのとき関口は己の手の甲で額から流れ落ちる汗を拭った。

ああ、汗か、と僕は何故か酷く安堵しながら、その仕草を見つづけた。と、彼は僕の視線に気付いて
「なんだい?気味が悪い」と僕の方を見て笑った。今までに見たことのないような笑顔で。

「関口君…?」
思わず無意識のうちにその名が口唇から零れた。
「なんだい?」見知らぬ表情(かお)の関口が僕にまた笑いかける。
「……君は……今日は一体……」今まで何処に居たんだい?と聞こうとして僕は暫し躊躇した。

答えは――わかりきっているような気がしたから。

『何を言っているんだい、家から来たに決まっているじゃあないか』
『どうにもこうにも書けなくてね、退屈しのぎに君のところを訪ねることにしたのさ』
『この暑さだ、君のところも客なんか来やしないだろうと思ってね』
『千鶴さんもいないことだし、君が退屈しているんじゃあないかと気を使ったんじゃないか』

どの言葉も――今の彼からは聞くことは出来ないだろう

「京極堂?」
呼ばれた声の近さにふと我に返ると、関口は僕のすぐ前に立ち僕を見下ろしていた。
ふと見上げた彼の首筋に――僕は見るはずのないものを見た。

汗に貼り付く白いシャツが少し撚れて、不自然に彼の鎖骨のあたりが酷く露になっている。
その普段ならシャツに隠れて見えないだろうその鎖骨の斜め右下に、薄く紫色に鬱血した痣が――如何にしてつけられたか、ひと目で分かるような痣が浮いていたのである。
僕の脳裏に、あの男にそこをきつく吸われる関口の姿があまりにも鮮明な画として浮かんだ。

「京極堂?」
関口が不審そうにもう一度僕に声をかけ、顔を覗き込んできた。彼は気付いてもいないのである。自分の身体につけられたあからさまな刻印(しるし)に――

「……あがってお茶でも飲むかい」
それを指摘してやることなど僕には勿論出来るわけもなく、僕は出来るだけ自然な仕草で彼の首筋から目をそらし、いつものようにぶすりとそう彼を誘った。

先に関口を奥へと上げると僕は『骨休め』の札をかけ、台所に寄って冷たい麦茶を二つ、盆に乗せて彼の待つ座敷へと向かった。廊下を歩く彼の後姿にいつになく疲労の色が滲んでいたような気がしたことをぼんやりと僕は思った。

馬鹿馬鹿しい。何故そんなに全てをそのことに結びつけようとしてしまうのだろうか

関口はだるそうな風情で、いつもの彼の指定席にあぐらをかいていた。ぼんやりと庭を見つめるその仕草はいつもと少しも変わらぬようでもあり、反面いつになく意識を彼岸に飛ばしているようにも見えた。
「喉が渇いただろう」ほら、冷たいお茶だよと僕は彼の前に麦茶をとんと置いた。
「ありがとう」微笑む顔は――やはり僕には見知らぬ人の顔に見え、何故だか少しだけ心が痛んだ。
「今日も暑いな」
土埃が立ちそうなほど乾ききった庭をぼんやりと僕は見やる。千鶴子は昨日から出かけている。毎朝彼女が庭に水を蒔いていたのだったとそんなことを僕は考えながら、ふと目の前に座る関口の方へと視線を戻した。
「暑いね」
関口も僕につられたように庭を眺めている。

昨日から不在なのは千鶴子だけではない。共に京都へと旅立った彼の妻も――

「昨夜(ゆうべ)も暑かったね」何気なく言おうとした言葉が、僕の喉に絡まり、少し掠れたような声になってしまった。その言葉を聞く関口の肩が小さく動いたように、僕には見えた。
「…そうだったね」答えるその声も、僕よりも掠れているように聞こえたのは、僕の気のせいだったのだろうか。

『昨夜君は――何処にいたんだい』

心の中で僕は彼に問うた。

『家に居たよ。一人で寝ていた』
『嘘はよくない』
『嘘なんてついちゃあいないよ』
『じゃあその襟元の痣は――』

一人、彼との会話をシュミレーションしている自分に僕はふと気付き、あまりの馬鹿馬鹿しさに小さく溜息をついた。

その僅かな音に関口はまたびくりとその肩を震わせ――やがて無言のまま、また庭へと目をやる。
彼の視線に誘われるように僕も庭を見そうになり、また我に返る。何故だか自分のその行為に酷く苛つくような気持ちになり、傍らに置いた本を手にすると適当な頁を開いて目を落とした。

昨日も――熱帯夜だった
関口は――あの寝台で、彼と肌をあわせて眠ったのだろうか

「暑いね。水でも蒔こうか」
不意に関口の明るい声がしたので、僕は驚いて思わず顔を上げ彼の顔を見た。
「……え?」
「いつも千鶴子さんが蒔いてくれてるんだろう?今日は僕が蒔こうと言ってるんだよ」
関口はそう言うと、よいしょ、と声を上げて立ち上がり、縁先から庭へと下りていった。
勝手知ったるなんとやらで、いつも千鶴子がやっているように庭の水道についた青色のホースを手に取り蛇口をひねる。
さあっと涼しげな音がしたかと思うと、関口は庭の木々めがけて水を蒔き始めた。ホースの先を潰すようにして勢いよく水を蒔くその姿を、僕はただ呆然と見つめていた。

何も――なかったというのだろうか

全てが僕の思い込みで、彼は自宅からやってきて、昨日の夜はあの熱帯夜を一人身体を丸めながら寝苦しい思いですごし、随分寝過ごした朝、それこそ退屈しのぎにここを訪れたとでもいうのだろうか

鼻歌でも歌いそうな勢いで水を蒔きつづける関口を見つめながら、僕がぼんやりとそんなことを考えていたそのとき、不意に彼はホースの先を空へと向けた。勢いよく空に向かって一本の水の柱が立ち上がる。次の瞬間、それは大量の水となって真下の――関口自身へと流れ落ちた。
「関口君!」
思わず大声をあげた僕の方を、びしょ濡れの関口が振り返る。
「君は一体…」
言葉を失う僕に向かって関口はあははと笑うと
「あんまり気持ちよさそうだからさ」とまたホースを天へと向ける。
「やめ給え」慌てて僕は庭へと降り立とうとして、庭履きを彼に使われてしまっていることに気付き、裸足で庭へと下りるのを少し躊躇した。関口はまた己の蒔いた水でびしょ濡れになると、楽しそうにけらけらと笑っている。
そうしてまた木々へとホースを向けて水を蒔いてやるのだが、すぐにまたその先を空へと向けて己を濡らす。
「関口君」
堪らず僕は裸足のまま庭へと下りた。関口の傍へは寄らず、水道に直行すると蛇口を閉める。
ぽたぽたぽたぽたとホースの先から水が勢いなく滴り落ちたのを、関口は残念そうに見つめた。
「一体君は何をやっているんだ?気でも狂ったのか?」
そんな彼の手からホースを取り上げると、僕は少し厳しい口調で彼にそう問いかけた。関口はふいとそっぽを向くと
「暑いんだよ」と拗ねたようにそう言い捨て、己の身体を抱くように腕を廻した。
「あがって身体を拭きたまえ。風邪をひくぞ」僕は聞こえよがしに溜息をつくと、彼に背を向け先に縁先へと上がろうとした。
「なんだい、君は裸足で降りたのかい?」関口がそんな僕の後姿を見て初めて気付いたようにそう問い掛ける。
「誰のせいだ」僕はぶすりとそう答えると、掌で軽く足の裏を叩き、縁先へと上がった。
「京極堂」
「待ってろ。今拭く物をとってくるから」そう言って振り返り彼を見た僕は――再び見てはいけないものを見てしまった気分に陥った。

関口は――空を見上げていた。

その頬に光っていたのは――先程まで浴びていた、ただの水飛沫か、それとも――

『関口君』

彼の注意を引くために声をかけたとしたら――

『……』

僕は彼に尋ねる言葉を持ち得なかった。
何を聞けばいいのだろう。彼が昨夜居た場所か。その首筋の痣の理由か。

彼が――榎木津に抱かれたことへの確認か

僕はそっと気付かれぬように部屋の方へと身体を返し、手拭を取りに洗面所へと向かった。

『何故君は―――』

どんなに考えても、彼に尋ねるべき言葉は少しも浮かんでは来なかった。

関口は――後悔しているのだろうか。
榎木津に抱かれたことに――まるで禊(みそぎ)のように水を浴びたのはそのためなのだろうか。

『暑いんだよ』
拗ねたような彼の顔は――やはり僕の知り得ぬ表情(かお)だった。
乾いた手拭を手に縁先へと戻りながら、僕はこの手の中から彼を失いつつあることを痛いほどに感じていた。


                      * * *


座敷に戻ってみると、関口は濡れた身体のまま、庭の方を向いて縁先にぼんやりと座っていた。彼は一体何を見つめているのか――その視線を追って僕も庭を見やったが、何一つ目新しいものは見当たらなかった。彼が投げ出したままになっているホースの先端から僅かに流れる水の雫が光を反射してきらきらと輝いている。今、庭へ下りて水道の蛇口をきつく締め、そのホースを片付けるのはどうにも嫌味な気がして、僕はそれに気付かぬふりをしながら無言で彼に手拭を差し出した。
「ありがとう」関口が僕の方を見て小さく笑った。ごしごしと頭を拭く彼の姿を改めて見やると、頭どころか全身びしょ濡れで着衣がその貧相な身体に張り付いてしまっている。僕は無言でまた踵を返し、寝室から自分の浴衣を持ってまた戻ってくるとそれを彼に差し出した。
関口が、何?というように僕を見上げる。
「着替え給えよ。濡れ鼠のままでは風邪を引く」服は陽の下にかけておけば帰るまでには乾くだろう、と言うと関口は初めて気付いたように己の身体を見下ろし
「ほんとに濡れ鼠だね」とまた小さく笑った。
「馬鹿か。ほんとに君は…」そんな彼に僕は浴衣を投げつけるようにして与えると、自席に戻って本を開いた。関口はそのまま縁先で服を脱ぎ始める。部屋に照りつける陽光がまぶしくて、服を脱ぐ彼の姿は逆光になってよく見えなかったが、ふと彼がかがんだ拍子に襟元のあの痕が痛いほどに僕の目に再度飛び込んできた。同時に彼自身も己の身体に残るその痕に気付いたようで、一瞬ぎょっとしたようにそれに目をやる。そしてそっと自分の指でその痕をなぞるその姿を、僕は――見てしまった。
他にも――服に隠れて見えないところにも、同じような痕は残っているのだろうか――本を開きながら思わず彼の裸体に目を凝らしそうになったが、彼に気取られるのが怖くて、僕はそのまま本を読む振りをし続けた。
彼はバツの悪そうな顔をしながら、僕の方を探るようにちらと見た。勿論そのとき僕は彼の視線を予測して、全くそれに気付かぬ振りを決め込んでいた。
彼は僕が見ていないことに気付くとあからさまにほっとしたような表情をその顔に浮かべ、糊の利いた僕の浴衣をぱん、と音を立てるようにして一気に広げると勢いよくその袖に己の腕を通した。

濡れたシャツとズボンを手に彼はまた庭へと下りてゆき、物干し竿にそれをひっかけた。漸く気付いたのか、散らかしたホースを巻き取り水道の処に片付けるのと同時にその蛇口をきつく締めている。

彼は普段の自分を取り戻したのだろうか、と僕は半ば本へと視線を落としながらぼんやりとそんな彼の姿を眼で追っていた。関口はまた縁先から座敷へと上がりこみ、僕の正面の彼の定席へと腰掛けて、もうぬるくなってしまっている、先程僕が入れてやった茶を飲んだ。

今なら―――彼に尋ねることが出来るかもしれない。

『何があったんだ』

関口はぼんやりとまた庭を見つめている。見つめるべき対象を何一つ有さないこの庭を― ―

『君の身に一体何があったというんだい』

僕が口を開こうとしたそのとき、関口の腕がゆるゆると己の首筋へと向かって上って行った。意識的でないその動作――彼は、あの薄紫の痕のあるであろうその場所を、己の指で軽く撫でた。僕の脳裏に、彼を抱き締めその場所をきつく吸い上げるあの男の顔が唐突に浮かび――出かかった言葉を僕は思わず呑み込んでしまった。

関口は――彼は今、己の身に起こった出来事を受け止めかねているのかもしれない。

長年の友人として接してきたあの男と肌を重ねたという事実―――彼は、ずっとあの男の腕を待っていたのだろうか。それとも―――

僕は彼に気付かれぬよう、小さく溜息をついて頭をふった。
あの男が―――関口に無理強いをするわけがないことを、誰よりも自分がよくわかっている。
ということは――彼に抱かれたのは関口自身の「意志」ということになるのだろう。

関口の意志―――僕は今まで、彼がその種のことを許容出来ると思ったことがなかった。学生時代からずっと見つめ続けていた彼は余りにも儚くて、直ぐに鬱の世界に入り込んでしまうくらいに繊細で―――彼に対して抱いていたこの思いを告げたその瞬間から、友人としての立場すら失ってしまうのではないかということを僕はずっと恐れ、愛しい思いを胸に抱きながらも息を潜めて彼を見守っていたのだった。

愛しい―――そう。誰にも替えがたい愛しさを常にこの胸に抱いて―――

この世界から逸脱しそうになると関口は必ず僕に救いを求めにやってきた。縋り来るその腕を取り抱き寄せてしまいたい衝動を僕は今まで必死に己の胸の中に押さえ込んできた。いつの頃からか榎木津の視線が同じように彼を追っていることに僕は気付いたが、まるで互いに牽制しあうかのように僕達は何も言葉を交わさなくても等距離を以て彼と接するようになっていった。
友情が深まるにつれ、益々この思いを彼に告げることが叶わなくなっていった。替えがたい友情と信じていたものの中に己への情欲を彼が見出してしまったとしたら―――脆すぎる彼の心を奈落の底に落とし込むような行為はとても僕には出来なかった。
そうしてどんどんと自分を追い詰めていくにつれ、僕は自虐的な気持ちにすらなりながら尚一層親しく彼に接していった。互いに伴侶を得てからは、社会の枠にはめ込まれた常識の概念がその気持ちを落ち着かせてもくれた。――勿論それはあまりにも不安定な落ち着きではあったけれども。
それでも時折この胸に押し込められた彼への想いがふとした彼の仕草から体中の血を遡らせるような勢いを以て立ち上ることはあった。それを更に胸に押し込めるうちに更にその思いはいびつに歪められ、いつの日にか耐えられずに僕の手足を動かすのではないかと一人まんじりとも出来ずに考え込む夜すらあった。

それもこれも、決してこの腕に抱くことは叶わないと思ったればこそ―――

僕の目の前で、関口の手がまた思い出したかのようにその痕をなぞった。

なんだ。抱けたのか―――

僕はぼんやりとその動きを伏せた目で追いながら、心の中でそう呟いた。


抱いてもよかったのか


今まで僕が押し殺してきた彼への想いが、行き場を失いこの胸の中で暴れまわる。鋭利な爪を持つ獣のようにそこら中を切り裂きながら出口を求めてのたうち回る。


抱いてしまえばよかったというのか


思わず目の前の彼の肩を掴み、そのまま床へと押し倒したくなる衝動を僕は必死の思いで押さえ込んだ。きつく目を閉じ、まるで痛みを耐えるかのように口唇を噛み締めて――

『好きだ』

告げることさえ出来なかったこの思いを今、口にしたら―――彼は一体どう答えてくれるだろうか。

きっと困ったように顔を伏せ、小さな声で僕に詫びるのだろう。
榎木津に抱かれたその体を己の手で抱き締めながら。

しかし、それが昨夜、榎木津に抱かれる前であったならば――
彼を初めて愛しいと思った、あの頃にこの思いを告げていたとしたならば―――

彼は―――彼は一体どう答えてくれたのだろうか。


「京極堂?」
不意に呼び掛けられ、僕ははっと我に返った。関口が僅かに眉を寄せ、僕の方を見つめている。
「……なんだね」答えた声が不自然に掠れてしまった。それを聞いて、変な声だと関口がくすりと笑う。
「…失敬な」と軽く睨むと、ごめんごめんと関口はまた笑って、
「君がぼんやりするなんて随分珍しいと思ってね。さっきから何度も呼んでいたんだぜ?」と僕の顔を覗き込んできた。

始めて見るような―――彼の―――媚びるような微笑。

思い込みだ、と僕は軽く頭を振ってその考えを追い出した。
「…京極堂?」関口がまた少し首を傾げて僕の顔を覗き込んでくる。その仕草に嬌態の色を滲ませて―――


違う


彼は少しも変わってはいないのだ。少なくとも―――僕の前では。


「君こそなんだね。急に水浴びを始めたりして。どうかしているのは君のほうじゃあないか」
だから僕も今までと変わらぬ態度で彼に接する。その顔をわざと見ぬように。彼のことになど興味の欠片もないような調子で。
「……悪かったよ」軽く肩を竦めながら、本当に僕はどうかしていたねと関口は自嘲の笑みを漏らした。

ああまた僕は―――見たことのない彼のその表情(かお)に激しく心を揺すぶられている。

「でもこうしていつものように、愛想の無い君を目の前にしていたら、なんだかすっかり落ち着いたよ。憑き物が落ちた感じだ」くるくると変わる関口の表情。少しも、なにも落ちていないだろうに、その表情は妙に明るい。彼が新たにその胸の内に抱え込んだ『憑き物』という名の恋情―――あの男への恋情が、次々と新しい表情(かお)を生み出してゆく。
「生憎僕は何もしてやいないぜ」ぶすりとそう答えた言葉の中には、「何もしていない」というより「何をも出来なかった」己の後悔の色が滲んでしまったのだが、そんなことにはまるで気付かぬように関口はまた笑って
「君はいてくれるだけでいいのさ」と半分ふざけた調子でそう僕の顔を見た。

その言葉が僕の胸を底知れぬ痛みを以って抉っているという事実に気付くことすらなく― ―

僕はわざとらしくもあきれたように一つ溜息をつくと、また持っていた書物へと眼を落とした。そうして伏せた目の端で、関口の手が無意識のうちにまたあの紫色の痕へと向かってまるでスローモーションの画像のように緩やかな弧を描くのを、苦々しい思いを胸にただ見つめ続けたのだった。




かみころじー様の3万ヒット&一周年のお祝い(2001.10)