呪 縛
jubaku




「駄目だよ。鳥ちゃん」
え?というように目を上げると、この世のものとも思えぬ美しい顔が自分に向かって微笑んだ。
「彼は呪われているからね」



* * *



久々に深酒をした。喉がからからに渇いているのに起き上がって水を飲む気力すらない。何とか這うようにして布団を抜け出し、台所まで行って蛇口に口をつけるようにして水を飲んだ。大半は零れてしまって、着たままだったランニングを濡らしたが、それでも漸くひと心地ついた気がして、鳥口は流しを背に座り込み、大きく息を吐いた。

昨日―――ああ、そうだ。昨日は神保町で飲んだのだ。

関口に伴われて訪れたかの探偵事務所で、いい処に来た、と破顔した探偵の片手には一升瓶が握られていた。
「え、榎さん…それは…」嫌な予感がする、と鳥口に囁きながらも関口がそう尋ねると、なに、依頼人が今、礼にと持ってきたのだと彼は笑った。横で益田が
「全部僕が調べてカタぁつけた件ですがね」と聞こえよがしに嫌味を言うのを全く無視して、折角だから飲もう飲もうとまだ明るいうちから宴席が始まったのである。
関口が榎木津を訪ねたのには何か用があったからだと思うのだが、その用件など何時の間にか何処へやらと飛び去り、あっという間にカラになった一升瓶の替わりに用意されたワインやらウィスキィやらが次々と和寅の手によって出され、榎木津をはじめ、益田も鳥口も、そして関口も可也酔っ払ってわけがわからなくなりかけていたそのときだった。
鳥口は尿意を覚えて手洗いに立った。ふらふらしながら用を足し、またふらふらしながら部屋へと戻ろうとしたそのとき、不意に後ろで人の喋る気配が聞こえ、鳥口は立ち止まった。
振り返るとそこは、榎木津の私室だった。小さくドアが開いている。鳥口は何となくその前に立ち、思わず中を覗き込んでいた。
中は遮光のカアテンが引かれているために薄暗く、鳥口は暫く目を凝らして、漸くそこに誰がいるのかを理解した。
そこには、部屋の主が―――榎木津がいた。部屋の中央の寝台に腰掛け、一人そこに寝転ぶ誰かに話し掛けているようだった。寝転んでいる男はもう既に意識がないのか、小さくうん、うんと相槌を打っているようである。が、見当外れの時にも「うん」という声が響くことから、きっともう眠っているのかもしれない。
寝転んでいるのが誰なのか―――そのときには鳥口にはもうわかっていた。
榎木津の身体がゆっくりと寝台の方に覆い被さってゆく。思わず鳥口は目の前のドアに手をやった。


キィ……


室内に驚くほど大きく、ドアの軋む音が響く。榎木津は顔をあげ、入口の―――鳥口の方を見た。

白い頬が、酔いのためか薔薇色に上気している。薄闇の中、鳥口を見つめる瞳は外からの光を受けて、きらきらと怖いくらいに瞬いて見える。開きかけた口唇の間から覗く舌が自棄に紅いのはやはり酔いの為なのか―――壮絶なまでに美しい、と鳥口が息を呑んだそのとき


「鳥ちゃんか……部屋に戻ろう」


呂律が少し怪しくなった口調で、いつもの榎木津の声がその口唇から漏れた。鳥口は呪縛から解き放たれたような気になり、大きく息をつくと、はい、と強張る笑顔でそう頷いた。

部屋ではもう、益田が高鼾をかいていた。和寅ももういない。これ以上榎木津が飲むことを怖れ、自室でびくびくしているのだろう。榎木津は自分のグラスにウィスキィの原液をどぼどぼと注ぐと、ほら、というようにそれを鳥口に差し出した。
「僕はこれで」先ほどまで飲んでいた、氷の溶けたグラスを持ち上げると、
「いいから」と強引にそれを奪って自分のグラスを押し付けてくる。
「これじゃ大将と間接キッスになっちゃうじゃないですか」と鳥口がふざけて断ろうとすると、
「気色の悪いことを言うな」と思い切り頭を叩かれた。
「…痛いなあ…」そう言いながらも酔いの為に鈍感になっているのか、それほど痛みは感じない。榎木津は取り上げた鳥口のグラスの薄い水割りを一気に飲み干すと、自分もそこにウィスキィをどぼどぼと注いだ。
「勿体ないですねえ」思わずそう呟くと、榎木津は鳥口の方を見てにっと笑い、
「ほら、乾杯」とグラスを重ねてきた。仕方なく鳥口もグラスを上げる。


チン


痛いほどのグラスのぶつかる音。硝子にヒビでも入ったんじゃないかと鳥口は思わず自分のグラスを見回した。
大丈夫なようだな、と思いつつ一口飲んでその余りの濃さに―――原液だから濃くて当たり前なのであるが―――むせそうになり、思わず榎木津を睨む。と、同じようにウィスキィを飲んでいた榎木津の口唇が切れて血が流れていることに鳥口は気付いて、思わず、あ、と声を上げた。
「なに?」美しい眉を顰めて榎木津が鳥口を見返す。鳥口は無言で自分のグラスを床に置き、榎木津の手から彼のグラスを取り上げた。
「何だよ」呂律の廻らない榎木津の声。焦点がなかなか定まらない目で取り上げたグラスの縁を見て、そこに亀裂を見出したとき、思わず鳥口はそのグラスを床に叩きつけていた。
その音に、後ろで背を丸めていた益田が小さくうめいて寝返りを打つ。
「勿体ない」口唇の端から血を流しながら、榎木津がそう呟くのに
「口、開けてください」と鳥口は無理矢理榎木津の口を開かせようとした。
「…?」本気で抗われたら鳥口などドアのところにでも突き飛ばされたかもしれない。が、鳥口の剣幕に押されたのか、榎木津は素直に口を開いた。部屋の明かりではよくわからない。鳥口は榎木津を立たせ、電灯の近くで口を開かせてその中を見た。
「あに?」口を開いたままそう榎木津が呑気に尋ねる。
「硝子は…ないみたいですね」どうやら口唇の端をグラスのヒビで切っただけらしい。硝子でも呑まれていたら大変だと思っていた鳥口は、榎木津の咥内が特に血を流していないことに安堵し、思わずまた大きく息をつくと、彼の口から手を退けた。
「硝子?」鳶色の瞳が、それこそ硝子細工のように輝きながら鳥口を見つめる。
「…グラス、割っちゃったんですよ。さっき乾杯したときに。口の端から血が出てる。大丈夫ですか?」安心したためか、自分の呂律も怪しくなってきたと鳥口は苦笑しながら、濡れた床を避け、榎木津を伴いソファまで移動した。
「……血、ね」榎木津がはじめて気付いたかのように己の口唇に手をやり、かわきかけた血をその指で拭う。自分でその指の先を眺めたが、血の色は見出せなかったようで、ぺろりとその指先を舐めた、その仕草のあまりのエロティックさに鳥口は思わず目をそらす。

何故か―――彼の自室で寝転がる、あの男の寝顔が不意に浮かんできたからである。


「消毒消毒」榎木津は懲りずにまだ飲みたいようで、グラスの砕けている中へと脚を踏み入れようとする。
「危ないですよ」慌てて彼の手を引き、ソファに座らせると、鳥口は自分もふらつく脚で自分のグラスと、ウィスキィを手に戻って来、
「はい」と榎木津に渡した。
「ご苦労」榎木津は満足そうにそう頷くと、鳥口の酒を一気に呷る。
「飲みすぎじゃないですか」言っても無駄だろうな、と思いつつ鳥口がそう言うと、榎木津は顔を顰めて
「染みるな」と傷口をペロリと舐め、鳥口を見て笑った。


「鳥ちゃんも飲め」そう絡んでくる榎木津を
「ちょっと僕は手洗いに」とかわし、鳥口はまた洗面へと立つ。手が酒ですっかり濡れてしまったためでもあったが、手を洗い、洗面台の鏡を見ているうちに、ふとその鏡に映るドアを―――榎木津の自室のドアを開いてみたい衝動に駆られ、鳥口はその衝動のままに己の身体を動かしていた。

キィ

やはり薄暗い部屋の中、ドアの軋る音が響き渡る。

「う……」寝台がギシリと軋む音がするのは、その上で「彼」が寝返りでも打ったのだろう。鳥口はゆっくりとその寝台の方へと脚を進めた。

小さく灯された寝台の傍の明かりの下、彼の白い顔が浮かび上がる。飲みすぎた為か,苦しそうに少し顔をゆがめ、それでも眠りの世界に捕われている彼の頬に落ちる思いのほか長い睫に―――その細い肩に―――鳥口の手が伸び、やがて躊躇するように止まる。


「……ん……」人の気配を感じたのか、寝台の上の彼は―――関口はまた小さく呟くと寝返りを打った。肌寒いのか、己の身体を抱くようにして寝転がる彼に、鳥口は思わずその傍らにあった掛布をかけてやろうと手を伸ばし、そのままそれごとその細い身体を抱き締めようとしてしまったそのとき


「駄目だよ。鳥ちゃん」
不意に後ろから声をかけられ、鳥口は思わずその場で立ち竦んだ。ゆっくりと身体をドアの方へと返す。そこに立っているのは、他でもない、この部屋の主―――
はじめ、逆光でその顔を見ることは敵わなかった。彼はゆっくりと部屋の中に入って来、鳥口の横をすり抜けてその寝台の傍らに立って鳥口を見返した。
白い頬。鮮血に染まる紅い口唇。
この世のものとは思えないような壮絶な美しさを持つ彼は―――ふと寝台に横たわる関口を見下ろすと、薄く笑って、やがて鳥口へと視線を戻すとこう言った。


「彼は呪われているからね」


「呪い?」
「そう。呪い」僕さえ触れることの出来ない、酷い呪いさ、と榎木津は自嘲的とも思えるような笑いを漏らした。
喉の奥からこみ上げてくるその嫌な笑い声は、鳥口の神経を酷く逆撫でる。それでもその場に立ち尽くしていることしか出来ず、鳥口はじっといつまでも笑いつづける榎木津の姿を見つめ続けた。
神にも解けぬ呪いなのさ、と榎木津は一際高く笑うと、何か吹っ切れたような顔をして、さあ、飲み直そう、と鳥口に片手を差し出した。
その手に握られたグラスを鳥口は思わず片手を差し伸べて受け取る。

「捕われるなよ」
グラスを渡した榎木津が、鳥口の横をすり抜けたそのときそう囁いたような気がしたが、え、と鳥口が振り返ったときには彼はもうバタンとドアを閉めて部屋を出て行った後だった。鳥口はもう一度寝台に横たわる『彼』の寝顔を見下ろし―――やがて一つ溜息をつくと、枕もとの明かりを落とし、音を立てぬようにしてそっと部屋を出て行った。

事務所の方へ戻ると、榎木津はソファで身体を丸めて寝転んでいた。飲み直そう、といいつつもう眠ってしまっているらしい。鳥口はそっとそんな彼の前のテエブルにグラスを下ろすと、室内を見回してコートかけにあったコートを彼の背にかけてやった。


呪い、か


事務所を出、カツカツと音を立て舗道を歩きながら鳥口は口の中でそう呟く。


呪われているのは関口などではない。関口があの男のものだと―――恋情という名の呪いをかけた、あの男のものだとわかりつつも、どうしても諦めきれない榎木津こそ、或る意味『呪われている』と言えるのかもしれない。
否、誰から呪われているわけではなく、彼が自ら捕われているその甘く切なき呪い―――



『捕われるなよ』



幻の榎木津の声が鳥口の耳に甦る。

もう、捕われてますよ、と鳥口は薄く笑うと、急に寒さを覚え、襟元をかきあわせると足早に駅へと向かったのだった。

<終>