哀しい痛み



久し振りに中禅寺は榎木津の事務所を訪れる事になった。千鶴子の実家から到来物の梨が山のように届いたのだ。関口の家には、千鶴子が持っていくと言い、榎木津さんにもお裾分けを、と出不精の亭主を千鶴子はにっこり微笑みながら追い立てた。中禅寺は嫌々神田神保町へと重い腰をあげたのだったが…。
都電を乗り継いで榎木津の事務所へ到着したところで、中禅寺は和寅が出かけようとしているところにぶつかった。
「ああ、これは先生」和寅は、何故かちょっと困ったな、という顔をして中禅寺を見る。
「いるかい?」その様子を訝しがりながら、中禅寺が榎木津の在否を訪ねると、和寅は、本当に困ったような表情になり
「いることにはいるんですけどね…」と一瞬言いよどんだが、
「ま、先生なら大丈夫でしょう。うちの先生、ちょっとご機嫌斜めで…まあ、今は酔いつぶれて殆ど寝てますが…」と首を竦めた。
「機嫌が悪い?」
「もう、ええ、えらい騒ぎで…こちとら出かける用があるっていってるのに、もう絡む絡む…」と和寅は、やっと隙をみつけて出てきたんですよ、といいながら、また呼び戻されては大変、とでも言うように
「じゃ、よかったらゆっくりしていってくださいね」と言い捨てると駆け出して行った。
残された中禅寺は、一瞬帰ろうかとも思ったが、手にした梨に目をやると、あきらめて事務所への階段を昇って行った。

「榎さん、いるかい?」一応声をかけてから事務所の扉を開く。
応えは無かった。饐えたアルコホルの匂いがする。いつもの「探偵」の三角錐の置かれた机の周りにはワインの空き瓶がいくつも転がっていた。探偵はその椅子の上で眠りこけているらしい。が、背もたれがこちらを向いているのではっきりとその所在を確認することは出来なかった。
「千鶴子の実家から、到来物の梨がおくられてきたんで持ってきたんだが…ここにおいて帰るからあとで気づいたら食べてくれ」
ほとんど独り言のようにそう言うと、これで一応の勤めは果たしたと自分に言い訳しつつ、中禅寺がきびすを返そうとしたとき、探偵の椅子はゆっくりとこちらに向かって回転した。
その音に中禅寺も振り返り…そして一瞬愕然とした。勿論表情にはあらわれることがなかったが。
「来てたのか」ぼそり、と呟くように言った榎木津は、どれだけ酒をのんだのかわからない、殆ど焦点の定まらない眼をしていた。すこししまりの無い、半開きになった口から紅い舌先が少し覗いている。
表情が少し弛緩してしまっていたが、それがまた彼の美しさに壮絶なまでな妖艶さを加えていて、流石の中禅寺も一瞬見惚れた。が、同時に榎木津にしては珍しい、卑屈−としか言えないような表情をその目の光に見て、中禅寺は言いようのない違和感を彼に感じた。
「…どうしたんです?昼間っからそんなに飲むなんて」中禅寺は、珍しくとっかかりを探すような問いかけをつい彼にしてしまった。
「昨夜から飲んでる…別に昼間だから飲んでるわけじゃないさ」面倒くさそうに榎木津はそう言うと、小さくため息をついて、自分の手に顔を埋めた。
「…なにかあったのか?」また見なくてもいいものを見てしまったのだろうか−。
榎木津のあの特異な能力は多分彼をすごく疲れさせるに違いない。知りうるべきでない人の過去が目の中に飛び込んでくる−それは常人にとっては酷く負担になることに違いない。
榎木津は勿論「常人」ではない。が、彼にもどうにも落ちこむ時がないとは言えないに違いない。
そんなに彼を落ちこませることがあるとするならば、それは、関口のことだろうか、若しくは
「家の方か…」
つい呟いてしまったその言葉に、榎木津は驚くほど反応した。
「お前も…見えるのか?」勢いよく顔を上げて、榎木津は中禅寺を凝視した…が、薄く笑うと
「見えるわけがないか…」と再びうつむいた。
「榎さん…」榎木津の様子はやはりおかしい。中禅寺は一歩榎木津へと近づいた。
「どうして見えもしないのに、お前にはわかるんだ…」榎木津が、中禅寺の肩口を掴んだ。
「榎さん?」その乱暴さと力の強さに中禅寺は一瞬眉をひそめる。
「…どうして、お前なんだ…」榎木津の手に更に力が篭った。
「何をいってるんだ。放してくれないか?」中禅寺は榎木津の腕を振り払おうとした。が、榎木津の腕から力が抜けることは無かった。
「どうして、お前にはなにもかもがわかる…そんなお前だから…あいつも…」
「…」中禅寺は無言で少し抵抗を試みた。
「どうしていつもお前なんだ…あいつが最後に頼るのは、どうして僕ではなく…」
「何を言ってるんだ。『あいつ』というのが関口君なら、榎さん、あんたは贅沢だ」
掴まれた上腕の痛みと、どうにもそれを外せない苛立ちとが加わって、中禅寺はつい声を荒立てた。
「関口君の心は100パーセントあんたの上にある。そのうえ何を望むというんだ?」
「関の心がどこにあるかを、どうしてお前がそこまで断言できるんだ?」榎木津は言いながら中禅寺を自分の方へと少し引き寄せた。
「放せと言ってるんだ!」中禅寺は柄にもなく少し狼狽していた。
「…力で、僕に適うわけがないだろう」榎木津の表情は読めなかった。その目はどこまでも暗く−しかし、どこかとても哀しかった。
「放してくれ…こんなことをしたいわけじゃあないだろう…」息がかかるくらいに近いところに榎木津の顔が来ていた。中禅寺は静かにそう言うと、榎木津の瞳の中の『哀しみ』がどこから来ているのかを探るように、じっと彼を見返した。
二人は暫く、そのまま動かなかった。
榎木津の瞳に、ゆっくりと「表情」が戻ってきた。彼の手から力が抜けた。中禅寺はゆっくりと一歩後ろに下がった。
「…すまなかった」榎木津は小さく呟くと、彼の椅子へと惹き返し、崩れ落ちるようにしてそれに座った。
「いや」中禅寺は掴まれていた腕を擦った。まだ鈍い痛みがある。それがそのまま榎木津の心の痛みのように感じて、何を言ったらよいのか、中禅寺は言葉を失っていた。
「…関口君を呼ぼうか」突然どうして、そんなことを言ってしまったのか−中禅寺は自分で自分に驚いていた。…荒んだ榎木津を見るのが思いのほか辛かったからだろうか…。
中禅寺の目の前で、ここまで自分を失っている榎木津を見たのは長い付き合いの中でも初めてのことだった。いつも殆ど「躁病」と言えるほど、はた迷惑なくらいの明朗さを見せている榎木津のこんな姿を見つづけるのが辛かったのかもしれない−。
榎木津は、一瞬顔を上げて、やはり驚いた顔で中禅寺を見た。が、微笑むと
「関に僕のこんな姿は見せたくない」と呟くようにそう言って、椅子を反対に回転させてしまった。
向けられた背もたれが、榎木津の世の中全てに対する拒絶のように感じて、中禅寺は暫し無言で立ち尽くしていたが、やがて
「邪魔をしたね」と、その椅子に背を向けて、榎木津の事務所を後にしたのだった。
ばたん、とドアの締まる音を聞いても、榎木津を抱えたその椅子は少しも動くことはなかった。

「関口にこんな姿を見せたくない」…では何故自分には見せるのだ?
足早に歩きながら、中禅寺は、自分の胸に何故かやりきれないとしかいいようのない思いが湧き上がるのを押さえることが出来ないでいた。
榎木津が何故あんなに傷ついていたのか−決して知り得ることはないだろうが、その哀しみを癒せるのは自分ではない。愛し愛されている関口でしかない。
それなのに、何故榎木津はあんな姿を自分に見せるのだ…。
その苛立ちが、そのまま関口に対する気持ちに重なっていることに、中禅寺は気づいていた。
だからこんなにもやりきれないのだ。
関口が愛してるのは、自分ではない。だが、関口は常に『救い』を求めに自分を訪れる。
関口のどんな醜い姿も、心情も、隠すことなく自分には常に晒されている。愛しい人には決して見せることのない、痛みや狡さも、関口は全て自分にぶつけてくる。
それが、自分には、確かに嬉しかったはずだ。自分しか知らない関口がここにいる。
関口には自分がいなければ駄目なのだと、本当に身をもって感じる至福のときだと思っていた。
その気持ちに変わりはない。関口の「救い」になることで、この先もずっと関口と繋がりをもっていられるという道を自分は敢えて選んだのであるから…。

…だが、関口が愛しているのは自分ではないのだ。

そんなことはわかりきっていたにも関わらず、ここまで動揺してしまうのは何故なのだろう。
見たことない榎木津の弱りきった姿を見たからなのか、それとも…
気づけば、榎木津は関口の家の前にいた。どうしようか、一瞬迷って立ち尽くしてしまったそのとき、
突然その開き戸が開いた。
「京極堂…?」驚く関口の顔。だが、何より驚いたのは、中禅寺彼自身だった。
「どうしたんだい?…あ、千鶴子さんを迎えに来たんなら、今雪絵と買い物に行ってるよ?」
何も知らずに自分に笑いかける関口を見て、中禅寺の身体から力が抜けた。
「…何も聞かずに、言うことをきいてくれないか?」
案外普通の声が出たことに、中禅寺は自分でも驚いた。
「?なんだい?気味が悪いな」関口がちょっと眉を寄せながらも、中禅寺の顔を覗きこむ。
「…榎さんの様子が少しおかしい。ひどく酒を飲んでいて心配だ。これから訪ねてもらえないかい?」
「え?」関口の表情が一瞬にして変わった。そこに変えがたい彼らの関係を見たような気がして、中禅寺の胸はまた少しだけ痛んだ。
「わ、わかった。ごめん、ありがとう」どうして君が行かないんだい?若しくはどうして僕にそれを言いに来たんだい?という、当然の問いかけをすることもなく、関口は慌てて礼だけ言うと、支度をするべく家の中にとり返そうとした。その姿を見て、同時にどこか安心している自分を中禅寺は感じていた。

これでいいのかもしれない。

と、不意に関口が振りかえった。そして、じっと中禅寺の顔を見た。
「なんだい?」その気もなく不機嫌な表情で中禅寺は問い掛けた。
「いや…何故か君が泣いているような気がして…」関口はそこまで言うと、しまった、なんでそんなことを言ってしまったんだろう、というような表情をした。
「変だよね。君が泣くわけないのに」ごめん、と笑う関口に、
「…くだらないことを言っている暇があったら早く支度をしたまえ」
それだけ言うのがやっとだった。
勿論、中禅寺の仏頂面が崩れることはなかった。

<終>