瞳の星
久しぶりに映画に行こう。
榎木津から電話があった。「急にどうしたんだい?」昼寝から起きたてのぼんやりした頭の中身そのままの声で関口がそう問いかけるのも待たず、榎木津は「3時に池袋の『人生座』だ!」いいな、と返事も聞かず電話を切った。「榎木津さん、なんですって?」
あまりに早くすんでしまった電話に、取り次いだ雪絵が心配そうに問いかける。「よくわからないんだが…」これから映画に誘われたみたいだ、というと、雪絵はぱっと顔を輝かせて、丁度よかった、実は今自分も千鶴子に買物に誘われたところで、出かけようかどうしようか迷っていたという。
「そんなの、迷わず行ってくればいいじゃないか」と関口が言うとそうですわね、と雪絵は苦笑したように見えた。甲斐性のない亭主がうちにいようがいまいが関係ないんだよ、と関口は続けようかと思ったが、換えって雪絵に気を使わせそうだったのでやめにした。
かわりに、今日は夕食は別々にとろう、と彼女に笑いかけた。 雪絵がまた嬉しそうに笑った。
時計を見るとそろそろ出なければ間に合わない時間である。関口はあわてて支度をすますと池袋へと向かった。
「遅い!神を待たせるとは何事だっ!」東口の映画館についたとたんに、関口は榎木津にどなりつけられ周囲の注目の的となった。「だってまだ3時前じゃないか」と弱々しく反撃する関口だったが、榎木津の態にまず目を奪われていた。
「榎さん、今日みるのって、ボガードかい?」
おそるおそる関口が問いかける。
「そのトゥリ!」さあ、入るぞ!と帽子に葉巻、トレンチまできこんだ榎木津は、自分の姿そのままの看板の方へと関口を引っ張っていった。映画館ではそのソフト帽は脱いで下さい、としか関口には言えなかった。
上映されている映画は「カサブランカ」だった。懐かしい。確か学生のときに見にきたことがある、と関口は思い出していた。誰と見にきたのだったか。京極堂や、榎木津とではなかったかな、などと考えてるうちに映画の世界へと引き込まれてしまった。上映がおわり、明かりがついたとき、関口は自分の手をしっかりと握っていた榎木津の手に気付いて傍らの榎木津を「いつのまに…」とにらみつけようとして、…不覚にも見とれてしまった。
スクリーンの主役そのものの姿をした榎木津は、映画から抜け出したようでーいや、それ以上に
「なんだ?映画はこうしてみるものだろう?」とすずしく微笑む榎木津の声に、関口は我にかえって、榎木津の手をふりはらった」
「なんだ。みとれたか?」降り払われた手で執拗に再び関口の手を捕らえようとしながら悪戯っぽく笑う榎木津に
「そんなかっこうをしてくるからだよ!」と関口は彼の手を逃れるべく立ち上がった。図星を差されて赤面する顔を見られるのも避けたかった。ちぇ、つまらん、と榎木津も立ち上がる。と、周囲の目が映画そのものの榎木津の姿に集中した。
「榎さん…」頼むからせめて帽子とコートを脱いでくれ、と関口は小声で懇願した。
「どうしてだ?似合っているだろう?」という彼をだまらせたかったのが半分、そして本心が半分。関口は思わず小声で叫んでいた。
「ボガードよりぜんぜん素敵だよ!」
榎木津は一瞬まじまじと関口を見つめた。その視線にますます関口の顔は赤面した。
「関もバーグマンよりかわいいぞ」
帽子を脱ぎながら榎木津がそう微笑んだ。
「…それはないか」思わず、関口と榎木津は同時にそうつぶやいて、そして顔を見合わせて笑ってしまった。
夕飯はうちで食べるといい、と榎木津は関口を誘った。
「和寅に用意させてある」という榎木津の芝居気たっぷりの仕草に一抹の不安は覚えたものの、他に良い案があるわけでもなく、関口は大人しく榎木津に従った。
「どうして、急に映画を見たいなんて思いついたんだい?」ふと思いついてそう道すがら訪ねると、榎木津は一瞬顔をしかめた。何?と言うように彼の顔を覗き込むと
「僕も関と『カサブランカ』が観たかっただけだ」とぷいと横を向いてしまった。
僕も、ということは、学生のとき見に行った面子に榎木津は入っていなかったのかな、と関口が問いかけても榎木津はそれには一切答えず、映画の話をしはじめた。英語で台詞を言うのに閉口したが、ボガードの口真似には関口は本気で感嘆した。
そうこうしているうちに、2人は神田の榎木津ビルヂングへと到着し、中へ招き入れられた関口は夕食を用意しているという和寅の姿を探した。
今まで確かにいたと思われる気配を残してはいたが、和寅の姿は見えなかった。
「和寅は?」
「家を空けろと言ってある。」いつのまにかすぐ後ろに立っていた榎木津が、関口の耳元でそう囁いた。
「な、なんでまた…」必要以上にどきまきしてしまうのを気取られまいと、関口は慌てて榎木津から身を離そうとした。
「邪魔されたくないからに決まっているじゃないか」それを面白がって、榎木津はやんわりと関口を後ろから抱きしめようとする。
「かわいそうじゃないか」なにがかわいそうか、よくわからないままに関口は榎木津の腕から逃れようとした
「かわいそうなのは僕だ」榎木津が心底憤慨したような声でそう言うので、え?と関口は思わず振り向いた。
「なんで榎さんがかわいそうなんだい?」
「…今日の映画、関ははじめてじゃあないだろう?」榎木津の瞳が妙に光っていて、関口は少し怖いな、と思った。
「…学生のときに、見たけど…?榎さんも一緒だったんじゃ…?」
「僕が誘ったのに、関は来なかったじゃあないか。なのにあの馬鹿本屋と行ったんだろう?」
言われても暫く関口は思い出すことが出来なかった。
「昨日、馬鹿本屋の家で…」見てしまった、と榎木津は続けた。
夕刊を見ながら千鶴子が「あら、『カサブランカ』をまたやってますよ」と主人へ話しかけたそばに、榎木津はいつものごとく寝ころんでいた。「お好きだったじゃないですか、また観にいらっしゃれば?」と続ける千鶴子にそうだな、と歯切れ悪く答える中禅寺の口調に一瞬疑問を覚えて、榎木津が彼を見たとき、
「同時に見えたんだ。映画館の中で…関の手を握り締めて…」といわれて初めて、関口は思い出した。
「ち、違うよ!あれは…」関口は慌てた。すっかり忘れていた昔のことだ。関口は必死で言葉を続けた。
「あれは、違う!違うんだよ!」
あれは−学生時代、関口が食事ものどを通らなくなってしまった「あの時」を脱したすぐあとのこと−。気を遣ってくれたのだろう、榎木津が映画を観に行こう、と誘ってくれた。が、関口はその気持ちは嬉しかったが、どうしても人ごみの中や、あの映画館の暗闇の中へと身を置く気になれずに、申し訳ないけれど、と断った。
残念そうな榎木津と別れたあと、部屋に戻ってから、どうして断ったんだい?という京極堂(そのことは中禅寺と呼んでいたが)に、その旨を言うと、
「そんなんじゃあいけない」と逆に説教をされた。
「でも…」と口篭もる関口に
「いつまでもそれじゃあ、僕のほうもたまらない」とよくわからない理由で無理矢理映画行きを承諾させられていた。
人ごみはなんとかクリアしたものの、やはり会場が暗くなると、関口はどうしようもなく駆りたてられるような恐怖感を感じて、自分の身を自分で抱きしめてしまっていた。フィルムが回る音が聞こえているのにどうしても画面を見ることが出来ない−と、そのとき、隣の席から不意に関口の手を握り締めて来る手があった。
びくっと関口が顔を上げて隣を見る。と、中禅寺は前の画面を見たまま、再びぎゅうと関口の手を握り締めた。
「…中禅寺…」ぽつり、と思わずつぶやいてしまうと、周囲から「シーッ」という叱責を受けて、関口は首を竦めた.。
「大丈夫」周囲に聞こえないように、中禅寺が関口に一言、そう囁くと再び顔を画面の方へと戻した。
不思議と、関口から暗闇に対する恐怖心が消えていた。同時に画像へと気持ちが引きこまれていき、映画が終わったあともしばらく呆然と座っていた。
「帰ろうか?」不意に声をかけられて、関口ははっと我に帰った。
中禅寺が、彼の顔を覗き込んでいた。
まだ手をつないでいたことが急に恥ずかしくなって、関口はおずおずと手を引いた。
中禅寺は取り残された自分の手をちらと見たが何も言わなかった。
「ありがとう」関口はうつむいたまま、ようやく中禅寺にそう言えたのだった。
「だから、別にあれは…違うんだ!!」
話しが前後したり、わけがわからなくなったりしながらも、関口は榎木津に説明しようと必死だった。榎木津はじっとそんな関口を見つめていたが、ふっと微笑むと、無言で関口を抱きしめた。
「榎さん…」
「…大人気なかった。ごめん」小さな声で榎木津は関口に囁いた。
関口は黙って榎木津の胸に身を任せた。
「僕には今の関がいるのに…」あんなに昔のことを持ち出すなんて、と言う榎木津の言葉を遮るように、関口は
「榎さん」と榎木津を見上げた。
「なんだ?」
「これからも、映画を見るときは僕の隣で手を握っていてくれるかい?」
言いながら頬に血が上るのを関口は止めることが出来ない。
そんな必死の関口の「告白」−たかがこれだけを言うのに、どれだけ勇気を振り絞ったかが痛いほどに分かるこの告白に、榎木津は優しく優しく微笑んで
「映画どころか…いつでも関を抱きしめていてやる」と、本当に力強く彼を抱きしめた。そして、小さな声で
「ありがとう」と囁いた。僕の嫉妬を許してくれて、僕の謝罪を受け止めてくれて。
言葉がなくても、我々は同じ気持ちを持っていられる、そのことに対して−。
「ありがとう」と関口も囁き返した。
「そうだ、せっかく和寅が用意してくれたんだった」と照れたのか榎木津が体を離した。
テーブル脇にはワインクーラーにシャンパンが冷やしてある。
手馴れた様子でポンっと栓を抜くとグラスに注ぎ分け、一つを関口に渡した。
その仕草ひとつひとつに見惚れてていた関口が、改めて榎木津の顔に視線を移した。
そんな関口に、榎木津はあくまでも甘く、甘く囁いた。
「君の瞳に…乾杯」
「…言うと思った」
チン、とグラスを合わせ、2人はくすくすと笑った。
銀幕よりも美しい星空が頭上にあることに2人が気づくのは、その夜も開けきるころになった。
<終>