悲恋の夏
           
最近、榎木津の様子がおかしい。
一緒に会っていても何処か遠い眼をしているような気がする。
何より関口に触れる回数が減った。榎木津は関口の髪に触れるのが好きで、気づけばいつも彼の指が関口の頭にあったというのに、最近では2人の間に物理的な距離を感じることが多い。
なにかボタンの掛け違いのような−そんな風に感じているのは関口だけかもしれないけれど−そんなしっくりいかない逢瀬がここ最近続いていた。
榎木津から「好きだ」と告白されて、2人の間に友人以上の関係が生まれてからもう二月になる。はじめはどうしても気持ち的に抵抗があった体を重ねる行為にも、最近では漸く慣れ、逆に榎木津の広い胸に抱かれることを切実に望む自分に気づいて愕然とすることすらある。それだというのに−。
眩暈坂を登りながら、ふう、と関口はそんな思考を振り払うようにため息をついた。
手には生活の糧にと京極堂へ持ち込もうとしている蔵書の束を下げている。最近どうしても小説が書けない。書けてもどうせそれほどの生活の足しにはならないとはいえ−関口の原稿料はそれほど高くはない−書けない、という自覚が関口を苦しめてはいた。それがどうしてなのか−関口は考えないようにしていたが、頭の何処かではわかっていた。自分の気持ちの大半を占めているのは、別のこと。意識下で常に彼の気持ちをどうしようもなく駆り立てる心配ごと。それは−。
「暑いな」気持ちを切り替えるように、関口はそうひとりごちた。京極堂の店先までもう少し。蝉がやかましく鳴いている。その鳴き声に今まで気づかなかったことに自分でもあきれながら、関口は手にした本の重さから早く開放されようと、足を速めた。
「いるかい?」いつものように店の中は薄暗く、すこしひんやりしていた。炎天下を歩いてきたのでなかなか眼がその暗さに慣れない。店の奥にいた京極堂が関口に気づき、何かを言いかけたところまでは覚えているが、その瞬間に関口はすうっと血の気が引くのを感じた。
倒れる、と思った瞬間、意識が遠のいた。がたん、という音と鈍い痛みを人事のように感じ−それきり彼は気を失ってしまった。

額が冷たくて気持ちがいい−。関口はうっすらと目を開けた。耳鳴りのような音が聞こえる−。そこには、見なれた仏頂面があった。
「京極堂・・」声を発すると耳鳴りが遠のいた。
「気がついたかい?」京極堂はどこかほっとしたような声でそう関口に問い掛けた。
関口は寝たまま周囲を見まわした。いつもの店の奥の座敷である。自分はいったい・・と思い起こしていると
「いきなり店に入ってきたとたんに倒れるとは、どういう了見だい?」とんだ営業妨害だ、と京極堂はいつもの調子でそう毒づいた。
「ごめん・・」関口は謝るしかない。そうは言いながらも京極堂は関口の額の手ぬぐいをとると新たに冷水にさらして絞り、また乗せてくれた。
「ありがとう。もう大丈夫だよ」と関口が起きあがろうとするのを
「まだ寝ていたほうがいい。顔色がないぞ」と京極堂は制して立ち上がり、今度は水を汲んできてくれた。
「飲めるかい?」と関口の背に手を回して少し起こしてやる。
「ありがとう」関口はそんな彼の手に体を預けたまま水を受け取ると少し飲んだ。冷水が体の中に染み渡り、また少し気分がよくなったような気がした。
「今、千鶴子は買い物に行っている。よかったらゆっくり休んでいけばいい」再び関口を布団に寝かせると、京極堂はそう言って関口の枕元に座りなおした。
「すまない・・」関口はそう言って、再び眼を閉じた。枕元で京極堂が本を捲っている。何を読んでいるのかな、と気になって関口はまた眼を開けた。見上げるとそれは、関口が持ち込もうとしていた本だった。
視線に気づいて京極堂が本から目を離して彼を見る。
「これを手放すのかい?」京極堂が尋ねた。
「うん。少しでも生活の足しになればいいと思ってね」と関口は自嘲気味に笑った。
「随分前から大切にしていた蔵書じゃないか。意外だね」と京極堂は「店主」の顔になって、本の背表紙や裏表紙、ページの傷みなどを見はじめる。
「・・もう、飽きたから、いいんだ」自分の言った言葉に、関口は突然胸に痛みを感じて絶句してしまった。
『飽きたんだ』−痛い。胸が痛い。関口は自分の胸を拳でぎゅうっと押さえつけた。叫び出してしまいそうな痛み−異変に気づいて京極堂が本を離し、関口を覗き込む。
「どうしたんだ?!」慌てる声。関口は大丈夫、というように何度も頷き、京極堂の目から己を隠すように彼に背を向けてしまった。
「大丈夫か?」
京極堂はそんな関口の体を力づくで仰向けに戻した。
「まだ気分が悪いのか?」いつもの皮肉めいたところが少しも感じられない心配そうな京極堂の声に関口の気持ちが少し落ち着く。と同時に、涙が込み上げてきて、関口は自分の手で顔を覆った。
『飽きたのだ』−恐れていた言葉。心の何処かではわかっていても、決して認めたくはなかった、この言葉。
榎木津は、自分に飽きたのだ−。
・・・考えてみれば、何の取り柄も無い−それどころか、欠点だらけの自分が、どうして榎木津の歓心を一時でも受けることができたのだろう。そのこと自体が不思議だ。榎木津は学生時代から自分を好きだったと言ってくれた−が、実際手に入れた自分はこんなに貧相で何もできなくて−だから榎木津は−。
最近の榎木津の態度。自分を決して見つめようとしないあの鳶色の美しい瞳。自分に触れてくれなくなったあの細い指。
答えはわかっていた。榎木津は自分に飽きたのだ−。
関口の目から、涙は止め処も無く流れた。押さえても押さえても嗚咽がこみ上げてきて、呼吸すら苦しかった。京極堂はどう思うだろう・・関口の意識が漸くそちらへと向いた頃、涙は少しおさまっていた。
ごめん、と小さな声で関口はつぶやくようにやっと言った。京極堂の方は見ることが出来なかった。
「そんなに辛いのなら、手放さなければいいじゃないか」京極堂は、ぽつり、とそう言って関口の額に彼の冷たい手を乗せた。手ぬぐいが外れてしまったことに、関口は初めて気がついた。
「・・・違うよ」何がどう違うか説明は出来なかったが−関口がそう言うと
「違わない」と京極堂は関口の額においた手を動かし、そのまま彼の髪を優しくなぜた。
彼の骨ばった指の感触。関口は榎木津の指を思い出した。
「そんなに君が辛いのなら・・・」と京極堂は言葉を切った。そのまま髪をなぜ続ける。
「違うよ・・・」その指の優しさに再び涙がこみ上げてきて、関口はまた顔を覆った。
「泣かないでくれ」京極堂はそんな彼の髪を優しくなでつづけた。関口が泣き止むまで、京極堂はその手を休めなかった。

「・・・ごめん」再び関口が謝ることが出来たときには、随分気持ちも、体の調子も落ち着いていた。京極堂の前で号泣してしまったことに、居たたまれないような恥ずかしさを感じる。
「大丈夫かい?」いつもの声で京極堂が関口に問いかけた。関口は体を起こした。
「すまなかったね・・・」
「君の『すまない』の状態には慣れている」といいながらも、京極堂は落ちていた本を関口の目に触れさすまいと自然な様子で脇へと片付けた。
「・・・最近、書けないんだ」ぽつり、と関口はそう言った。
京極堂はため息をつくと
「そんなことが言いたいんじゃないだろう」と関口を見つめた。
「え?」
「なぜ書けないかは、自分でわかっているんだろう」京極堂は関口と目を合わせたままそう続ける。
「・・・」そうだ。関口にはわかっていた。書けないのはそちらへ意識が向かないからだ。
今、関口の意識の全てを占めているのは−
「辛いのなら、手放しては駄目だ」京極堂は、再び同じ言葉を繰り返し、関口から視線をはずした。
「京極堂・・」駄目だよ、できないよ、だって手放されるのは僕のほうだ−関口の口からそう言葉が漏れそうになる。決して彼には言えない榎木津との関係。それでもどうしても−どうしても縋りつき、全てを告白していまいたくなる衝動に駆られる。自分を救ってくれるのは彼しかいない−あまりにも盲目的な信頼。そんな彼の思いを遠ざけるように、京極堂は立ち上がり、部屋を出た。が、すぐに戻ってくると、封筒を関口に手渡した。
「?」関口が開くと金が入っていた。
「本の代金だ。それと・・・」と、京極堂は、先ほど片した1冊の本を取り上げ、関口へ手渡した。
「京極堂・・」
「後悔するくらいなら、手放しては駄目ということだ」京極堂はいつもの仏頂面でそう言うとぷい、と横を向いてしまった。
関口はゆっくりと立ち上がった。もうふらつくこともなかった。
「ありがとう。そろそろ夕飯時だから、失礼するよ」いつのまにか帰ってきたらしい千鶴子が台所で支度をしている音がする。
「大丈夫か?」うちで食べていけばいい、という京極堂に
「雪絵が待っているから」と言って関口は京極堂を辞した。
珍しく玄関まで見送ってくれたが、京極堂は何も言わなかった。それじゃあ、と関口は彼の家を後にした。
関口が帰ると、京極堂は一本電話をかけた。電話はすぐすんだ。
「僕に仲立ちをさせるな」
ぽつり、と京極堂はつぶやいた。

次の日−。関口は相変わらず白いままの原稿用紙の前に座っていた。雪絵は、昨日のお礼にと京極堂を訪ねている。・・・やっぱり、書けない・・とあきらめて寝転んだときに、玄関の引き戸が開く音がした。雪絵にしては早いな、と、関口がようやっと起きあがり、玄関に向かうとそこには
「榎さん・・・」
「鍵もかけずに無用心だぞ」白い薄手のシャツに外光を眩しく受けた榎木津が立っていた。
「どうして・・」
「暑いな、何か冷たいものはないのか?」と榎木津は勝手に上がりこむ。
「ちょ・・戸くらいちゃんと閉めてくださいよ」と、関口は格子戸を閉めると榎木津に続いて自分の書斎へと入った。が、言われていた「冷たいもの」を入れに台所へと引き返そうとする。と榎木津はそんな関口の手を乱暴にとると自分の方を向かせた。
「なに?」いつもと違う榎木津の様子に関口がどこかおびえて問い掛ける。
「昨日、中禅寺のところへ行ったのか?」榎木津はいつになく真剣な、鋭い目つきでそう言って関口の顔を覗き込んだ。
「・・本を売りに・・」関口のおびえに似た感情がますます高まる。
「何が悲しいのだ?」榎木津の、関口をつかむ腕に力がこめられる。
「・・『見えた』のかい?」関口はそう榎木津を見上げた。榎木津は、はっと笑って関口の腕を離した。
「見るより前に!教えてくれたぞ。馬鹿本屋が!」榎木津は怒っていた。がその瞳は酷く傷ついたかのように悲しげだった。関口はそんな彼から目を離すことができなくなってしまった。榎木津も関口を見た。二人は暫く何も言わずに向かい合っていた。
「どうしてだ。」先に口を開いたのは榎木津だった。
「どうして、関は中禅寺のところで泣く・・・どうして僕のところへ来ない・・」
関口は、一瞬榎木津が泣いているのではないかと思った。どうして・・・・関口はそろそろと榎木津に近づき、その腕に触れた。榎木津は触れられた腕に視線を落とした。視線が外れたことで、関口はやっと口を開くことが出来た。
『辛いなら、手放さなければいい』−京極堂の言葉が、心に蘇ってきた。
「僕は・・・榎さんなしでは、もう生きていけないんだ」関口の言葉に榎木津が顔を上げた。今度は関口が眼を伏せて、言葉を続けた。
「僕は・・・榎さんがいないと・・榎さんが僕から離れてしまうと思うだけで、もう何もかもできなくなってしまうんだ・・・。榎さんは僕なんて、もう飽きてしまったかもしれないけれど、それでも・・・それでも、僕は榎さんじゃないと駄目なんだ。」言いながら関口の眼から涙がぽたぽたと流れ落ちた。「どんなに疎まれても・・・邪険にされたとしても、僕は榎さんじゃないと・・」
「もういい!」関口の言葉を途中で榎木津は遮り、彼をきつく抱きしめた。
「どうして、どうしてそんな風に思うんだ?」
「僕は、榎さんが・・」それでも言葉を続けようとする関口の口を、榎木津は激しく口吻けることで制した。関口ははじめ抗うように榎木津の腕の中で動いたが、やがて大人しくなり、榎木津を抱きしめかえしていた。
「・・・どうして・・」口吻けのあと、榎木津がかすれた声でそう問いかけた。
「どうして、そんなことを言うんだ・・・どうして、僕が関に飽きたり、疎んだりすると思うんだ?」
「榎さんは・・・最近僕を見ない。」僕に触れない、僕を抱かない・・・言葉には出来なかったが、言いたいことは伝わったのか、榎木津はますますきつく関口を抱きしめた。
「馬鹿だなあ・・・ほんとに関は馬鹿猿だ・・・」
と、榎木津は抱きしめる手を離し、今度は関口の両頬をその手で優しく包んだ。
「こわかったんだ・・・僕の思いが、関を壊してしまわないかと・・・」
「・・こわい?」
「僕は毎日関に会いたい。ずっと触れていたい。抱きしめていたい。そして・・」榎木津はそう言いながら美しい瞳で微笑みかけた。
「もっと激しく関を抱きたい」
「榎さん・・」関口はそんな榎木津から目を離すことが出来ない。
「僕の思いが強すぎて、関を追い詰めてしまったらどうしようと・・・それが怖くて少し距離をおこうとしていた・・関の思いが僕に追いつくまで、ゆっくり待とうと・・」
と、榎木津は、再び優しく関口へと口吻けた。唇を離し、関口をしっかりと抱きしめる。
「でも・・・追いついていたんだな。こんなに早く・・・」
「榎さん・・」関口も榎木津の背にまわす手にせいいっぱい力をこめた。
「僕は・・・榎さんがいないと・・駄目なんだ」
「わかってる」榎木津の手に力がこもる。
「関がいなくてこまるのは僕だ・・・これもわかっておけ」
関口の胸に熱いものがこみ上げて来た。昨日とは全く違う、暖かい、嬉しい涙。
すまなかった、と榎木津が小さな声で言った。
神が謝るなんてめったに無いぞ、と榎木津は関口にまた口吻けた。

京極堂に礼を言いに行かなければいけない・・・と関口は思ったが、何といえば良いのかきっとわからないだろうとも思った。例え礼を言ったとしても「君は何を言っているんだい?」などと言い返されるだろうということも予測できた。
が、どうしても礼は言いたかった。それを榎木津に言うと、あからさまに不機嫌な顔をして「礼は僕がいったから、もういいぞ」とますます強く関口を抱きしめたのだった。

失ったと思っていたものが、前よりも大きなかたちで戻ってきた−
関口の夏はこれからはじまったばかりである。

<終>