Reflection
所用のついでに榎木津の事務所を訪ねたが、珍しく彼は留守だった。
応対に出た和寅が申し訳なさそうに僕に詫びながら、
「何処へ行ったかお心当たりはないでしょうかねえ」と溜息混じりに逆に尋ね返してきた。
「……さあ…」本当に心当たりなどなかったし、榎木津が不意に行方不明になることなどまさに『日常茶飯事』であったので、僕はたいして考えもせず
「大丈夫だよ。何か面白い遊びにでも夢中になっているんだろう。そのうち帰ってくるさ」と和寅の肩を叩き、何かご用だったのでは?と恐縮する彼に、近くまで来たので寄っただけだから、と答え事務所を辞した。
もう3日も連絡がないんですよ、という和寅の心細そうな顔が何となく心に引っかかる。和寅とて榎木津と生活を共にしてもう何年にもなるのだから、主人の放埓ぶりには慣れっこになっているだろうに、と思う反面、長年連れ添ってきた彼なだけに、何か『虫の知らせ』めいた悪い予感を抱いているのかもしれないなどとも思えてきて、僕まで何だか妙な胸騒ぎを覚えてきてしまった。
最後に榎木津に逢ったのはいつのことだったか。ぼんやりとした記憶を辿る。もう半月ほどまえになるだろうか。暇を持て余して僕の家を訪れた榎木津があまりに退屈だと騒ぐので、仕方なく善福寺川の辺りを散歩することにしたのだったか。あのとき彼はまるで躁病患者のように騒いでいた。猫を見かけては「にゃんこだ」と騒ぎ、犬を見かけては「わんこだ」と追いかける。行き交う人が彼の美麗な外見と行動の奇矯さのギャップにぎょっとしたように振り返るのがまた恥ずかしく、僕はなるべく彼から離れて歩こうとしていたのだったが――
あれ以来彼には逢っていない。あのときも変だといえば変だったが、いつもと違うかと言えばいつもと同じようでもあり――どう考えても榎木津の失踪の手がかりにはなりえないような気がしたが、それでも何となく僕はまたその川辺に行ってみることにした。その頃には、榎木津のことが可也心配になってきていた為でもあった。
梅雨だというのに今日は随分天気がいい。だから神保町まで足を伸ばそうと思ったのであったが、実際川辺の遊歩道を歩き始めると思いのほか強い日差しに僕は少し気分が悪くなりかけた。腋にじっとりと不快な汗をかき、なんだか歩くのもだるくなってきて、僕は少し日陰で休もうかと周囲を見渡した。少し歩くと川辺に大きな木がある。僕はそれを目指して遊歩道を外れて川の方へと降りていった。
近づいていくにつれ、その木陰には先客がいるらしいことがわかった。投げ出されたその足に何となく見覚えがあるような気がして、僕は思わず足を速めた。
きらきらと川面に映る陽の光が僕の目を射す。ああ、少し気分が悪いなあと思いながらふらふらと木陰を目指して足を進めた。少し陽が翳ってきたような気がしたが、それが自分が貧血を起こしかけてるせいだと気づいた丁度そのとき、木陰で寝転んでいた彼が僕に気づき、驚いたように僕の名を呼んだ。ああ、やっぱり彼だ、と思った瞬間、僕は意識を失ってしまった。
額の冷たさが心地よくて、僕はうっすらと目を開いた。そしてあまりのまぶしさにまた半ば目を閉じる。
「……大丈夫か?」心配そうな声。それを聞いて一気に目が覚め、僕は慌てて半身を起こした。途端にまた目の前が暗くなりそうになり、僕は自分の手に顔を埋めた。
「…大丈夫か?」大きな手が僕の背を支える。僕は黙って2、3度頷き、ゆっくりと顔を上げ、その名を呼んだ。
「……榎さん」
目の前で榎木津がその鳶色の瞳に心配の色を湛えながら僕を見つめている。夢を見ているのかと一瞬思ったが、己の背に当てられた彼の手の暖かさがそれを現実と教えてくれていた。榎木津は少しほっとしたように僕を見て微笑んだ。
「・・・・・・あまり驚かすな」そして汗で額に張り付いていた僕の髪をその細い指で梳き上げる。その手の冷たい感触を僕は暫し目を閉じて楽しんだ。彼の手が冷たいのは、僕の為に川の水でハンカチを絞ってくれた為だと漸く気づいたころには、僕の貧血も随分おさまって、落ち着いて話もできるようになっていた。
「今まで何処に行っていたんだい?」榎木津と並んで腰を下ろし、光る川面を見つめながら僕がそう尋ねると、榎木津は静かに笑って
「いろいろ」とだけ答えた。
「和寅君が心配していたよ。三日も連絡がないって・・・・・・」なんだか榎木津の様子は、普段と違うような気がして、僕は彼相手であるにもかかわらず、少し口篭もりながらそう続けた。
「・・・・・・心配するようなことじゃあない・・・・・・が、悪かったな」榎木津が苦笑するように小さく笑った。その笑顔があまりにも寂しく感じ、僕は何だか言葉を失ってしまった。二人の間を風が吹き抜けてゆく。心地よいはずのその風が必要以上に冷たく感じるのは、汗ばんだ身体のせいではないだろう。僕は黙って光の反射する水面を見つめていた。僕の心情を察したのだろうか、榎木津が不意に明るい口調で
「たまには外を出歩いた方がいい・・・・・・いつもじめじめと部屋の中に座りっぱなしだから、たまに太陽を浴びると伸びちまうんだ」と言いながら、ぽんぽん、と僕の頭を軽く叩いた。
「・・・・・・そうだね」それでもう、これ以上不在中の彼の居場所を追及する切欠を失ってしまったことに僕は気づき、仕方なく小さく笑ってそう答えた。
「・・・・・・そろそろ帰るか」榎木津がゆっくりと立ち上がった。そのまま2、3歩川辺へと足を進める。その背を見ながら、いや、その背の向こうにある光る川面を見ながら、僕は何故だか絶句してしまった。
榎木津の髪が水面を反射する陽光を更に受けて、金褐色に輝いていたからだろうか。
その白いシャツが光に透けて、光る水面と融合してゆくように見えたからだろうか。
いや――
『いろいろ』
その言葉に、無意識な彼の僕に対する拒絶を感じてしまったからではないだろうか。
僕は黙って、自分の膝に顔を埋めた。泣き出したいような気持ちだったが、不思議と涙は出なかった。
太陽の光を遮る影を目の前に感じ、僕はぼんやりと顔を上げた。
「…どうした?まだ気分が悪いのか?」心配そうに僕を見下ろす榎木津の顔が、驚くほど近くにあった。
「大丈夫だよ」答えがぎこちなくなってしまったのは何故なのだろう。榎木津はいつのまにか僕の目の前に片膝をたてて座り、僕の首の後ろに手を廻している。
「・・・・・・顔色が悪い」そのまま僕の髪をなぜながら、榎木津は心配そうに僕の顔を覗き込んできた。僕は静かに首を横にふり
「大丈夫だよ」と同じ言葉を呟いた。
このまま目を閉じたら――
馬鹿馬鹿しい考えが不意に頭に浮かび、僕はそのことに驚いて思わず勢いよく立ち上がっていた。榎木津がびっくりしたように僕を見上げている。
「だ、大丈夫だ」頬に血が昇っているのが自分でもあきれるくらいに分かったが、そんなことにもかまっていられず、僕はただ闇雲に歩き出していた。
「おい!どうしたんだ!」榎木津の戸惑ったような声を背に聞きながら、僕は大声で
「いいから、帰ろう!」と振り返りもせず彼にそう叫び、遊歩道へ戻るべく足を進めた。
接吻を――僕は、あのとき、目を閉じて榎木津の接吻を待っていた。
馬鹿馬鹿しい。榎木津が何故、僕に接吻するなどと思ったのだろう。思い返しただけでもまた更に己の頬に血が昇る。
『大丈夫か』優しい声。僕の髪を梳く細い指。
鳶色の美しい瞳。
『大丈夫か』その口唇がゆっくりと動き、僕の名を呼ぶ。
――僕はどうかしている
ふと、榎木津がまた消えてしまっていたらどうしようという考えが頭に浮かび、僕は慌てて振り返った。
榎木津はまだあの木のところに立っていた。黙って川面を見つめている。
「榎さん」大声で呼ぶと、こちらを振り向いて手を振って笑ってくれた。
「一体何処へ行っていたんだい?」その様子があまりにも儚く見えることが何故か悲しくて、僕はまた同じ問いを大声で叫ぶ。
「・・・・・・」榎木津が何か答えた。が、その声は僕のところまで届かなかった。
「何だい?何と言ったんだい?」更に大声で問い掛けると、榎木津は笑って
「腹が減ったから、帰るぞ」と叫び返し、大股で僕の方へと近づいてきた。
その答えを、僕が聞く日は永久に来ないのだろう
少し、いや、酷く胸が痛んだが、僕はそんな素振りは見せず、ただ黙って微笑んで彼を見ていた。榎木津も僕を笑顔で見つめる。
どうして彼はこの川辺に居たのだろう
その笑顔を見ながら僕の頭にふとその疑問が浮かんだ。が、それもすぐに追いついた榎木津が
「とっとと歩け」と僕の背を勢いよくどやしつけたために、口にする機会もないまま心の何処かへ消えてしまった。
榎木津と二人肩を並べて歩きながら、ふと振り返ると夏も間近な青葉と光る川面が見えた。
家の近所の、それこそいつも見ている場所のはずなのに、何故だか初めて目にする景色のようにその風景は僕の心に鮮烈に焼き付き、僕の胸を射した。
<終>
ど、どこが切ない…??(汗)
まだ互いに思いを告げあっていない頃の二人です。
『Reflection』−反射−というのは、川面に光る陽の光に
角度によってはまるで違う姿を見せる人の想いを準(なぞら)えたタイトルです。
同じ光を見ているのに想いが擦れ違う二人。
……どんなに説明しても「切ない」に行きつかないのが
一番切ないかも…(笑)