逆転の告白
二月半ばの寒さ厳しい或る日の午後
中禅寺は、彼にしては珍しくぼんやりと庭を見ていた。千鶴子が米でも蒔いたのか、2、3羽の雀がちゅんちゅんと愛らしく跳ねている、そんな長閑な風景ではあるのだが、実は中禅寺の目にはそれらはまるで映ってなどいなかった。いつもの習慣で膝に古書を広げているのだが、それも先ほどから一頁たりとて捲られることはなかった。中禅寺はただただぼんやりと呆けたように庭を見つめていたのである。
そして、中禅寺は、それこそ朝から何千回目かの深い溜息をついた。彼をここまで悩ませている榎木津の顔を思い浮かべながら――
ことの発端は、昨日の突然の榎木津の来訪であった。千鶴子は丁度買い物に出ていて留守だった。骨休めの札をかけて座敷で本を読んでいた中禅寺がふと顔を上げると、いつのまに来たのか、縁先に榎木津が立っていた。もう外はそろそろ夕闇が迫り来るころであったので、突然に現れたかの麗人の姿に中禅寺は必要以上に驚愕してしまった。
「なんだい、榎さん、突然に…」また寝にでも来たのだろうか。千鶴子が買い物に行く前であったならよかったのに、彼の分の夕食の支度の為にまた買出しに出かけるようになったらそれこそ彼女が気の毒だ。などとつらつらと中禅寺が思っていたそのとき、突然榎木津は中禅寺に近寄り、「なに?」と思うまもなく中禅寺を抱き寄せるようにしてその耳元に顔を近づけると、一言
「僕のものだ」
と囁いたのであった。思いもかけぬ榎木津のこの行為に完全に四肢が硬直してしまった中禅寺が言葉を発するより前に、榎木津はその身体を離すと
「わかったな」と念押しするように中禅寺の目をきつく見据えてそう言って、そのままくるりと踵を返し、呆然としている中禅寺をその場に残したまま、足早に立ち去っていった。
なんだ?今のは――?
中禅寺は、唖然としてその後姿を見送っていた。が、榎木津に囁かれた言葉がいきなり耳元に甦り、ぶるっと身体を震わせた。
誰が誰のものだって?
ざわざわと身体中が粟立つ思いがする。榎木津にその気があったとは思わなかった。
いや――その気があることは知ってはいた。だがその相手は自分ではなく――
「あなた?どうなさったの?」不意に後ろから声をかけられ中禅寺はびくっと身体を震わせた。その様子があまりにも面白かったためか、声を架けた千鶴子が弾けたように笑い出した。
「いやですよう…そんな吃驚なさるなんてあなたらしくもないわ」目に涙を浮かべながら笑いつづける千鶴子に、中禅寺は不機嫌になんでもない、と言い捨てると、驚いた余りに落した本を拾い上げまたそれに目を落したのであったが、その内容が頭に入ることはまるでなかったのであるけれども――
そして一夜開けた今になってもまだ、中禅寺はその驚愕を引き摺っているのである。
一体あれは何だったのか。夢か?それとも榎木津に姿を借りた物の怪か?
この世には不思議なものなどありはしないのに――
ちゅん、ちゅんと可愛らしく足元で遊ぶ雀が不意に飛び立った。その羽音に中禅寺は我に返る。傍らを見ると柘榴が残念そうな様子で雀の飛び立った方を見ていた。中禅寺はくすりと笑うと膝の上の本をどけ、「おいで」と柘榴を抱き上げた。柘榴の温もりが膝から伝わってくる。
この世に不思議なものがあるとするならば、それは人間の気持ちに他ならない。
例えば――妻を得て尚この胸を締め付ける彼への思慕。かの思い人も妻帯である上に、今や他の腕の中に抱かれているという二重の障害を抱えているにも係らず、消えるどころか益々狂おしくも激しくこの胸に燃え立つ想いという不条理。
頭ではわかっているのに、なぜ人の心はままならないのだろうか
中禅寺の耳元に、不意に昨日の榎木津の囁きが甦った。
「僕のものだ」
にゃあ、と膝の上で柘榴が鳴いた。その声に驚いて緩んだ手から逃れると、柘榴は主人の膝を蹴ってあっという間に塀の向こうへと消えた。その後姿をぼんやりと眺めながら、中禅寺は、かの麗人のきつい眼差しを思い出していた。
「僕のものだ」
一体あれは、どういう意味だったのだろう。
榎木津は、中禅寺の思い人の――相手ではないか。
遥か昔より、どんなに恋焦がれてもその手に抱くことは出来ないあの――
「京極堂?」
不意に声をかけられ、中禅寺は飛びあがるほどに驚いた。慌てて振返るとそこに立っていたのは
「関口君…」中禅寺の、決して叶わぬ思慕の相手がそこに立っていた。
「い…いつのまに君は…」昨日千鶴子に笑われたことが相当堪えていたので、中禅寺は関口の哄笑を畏れ、探るような目で関口を見ながらそう問うた。
が、関口は笑うどころか、「ご…ごめん。玄関が開いていたものだから…」といつもよりも小さな声で口篭もると、はあ、と小さく溜息をついてみせた。中禅寺の先程の慌てた様など、はなから目に入っていなかったようである。中禅寺はそんな彼の顔をじっと見つめた。あまり寝ていないような少し腫れた目をしている。いつも通りの、だらしない身なりそのままであるのに、何故かいつにも増して彼がぼんやりとして見えるのは、その目のせいなのかもしれない。まるでひと晩泣き明かしたかのような、腫れぼったくも赤い眼――いや、本当に泣き明かしたのかもしれないな、と中禅寺は関口の様子を見ながらそう思った。
いい年をした男の所業とも思えないが、彼なら枕を涙に濡らす夜の一日や二日はあるやもしれない。この胡乱な小説家の、今にも壊れそうなその神経の脆さは学生の時分からわかりすぎるほどにわかっている。反面、驚くほど鈍い部分もあって、そのアンバランスさにまた中禅寺はどうしようもなく惹かれてしまう自分を持て余してしまうのであるが――などと思いながら、あまりにも長い間見つめ続けていたからだろうか、関口が流石に居心地悪そうにもじもじと身体を動かしているのに気づき、中禅寺は
「いつまでそんなところにぼうっと突っ立っているんだい?」といつもの通りの仏頂面で、関口に火鉢の傍らの席を勧めたのだった。
中禅寺は、本を広げてみせながら、ちらちらと関口の様子を伺っていた。そんなことにまるで気付かぬように、関口は相も変わらず火箸で灰を書きまわしながらぼうっと火鉢の中を見つめている。
一体彼に何があったというのだろうか。
こんなとき彼であったら――榎木津であったのなら、その特異な力によって関口の身に起こったことを『見る』ことが出来るだろうにと、中禅寺は思い――同時に、もしや、と閃いた。
関口のこの腫れた目の原因は、彼にあるのかもしれない。
はあ、と関口がまた一つ、小さく溜息をついた。片手で左目をこすっているのは、灰が眼に入ったからか,はたまた何かを思い出したからなのか――
「関口君…」思わず本から完全に目を上げて、中禅寺は彼の名を呼んだ。
不意な呼び掛けに驚いて、関口がその濡れた瞳を自分の方へと向ける。やはり泣いていたのか――慌てたようにまた眼をこすり、
「な、なんでもないよ。」と聞かれもしないのに口篭もる彼を、中禅寺は何にも増して愛しいと思い、思わず抱き締めようとその手を伸ばしかけたそのとき――
不意に榎木津の声が甦った。
「僕のものだ」
ああ、そういうことか――中禅寺は、伸ばしかけた手を、関口に気取られぬように何気なく膝へと戻し、苦笑した。
あの探偵は過去ばかりでなく未来をも『見る』ことが出来るのかもしれない。
いや、愛しいものの行動だからこそ読めるのか。確かに彼は――
「君のものだ」
口の中で小さく呟いたその言葉に、なに?と言うように首を傾げた目の前の想い人に中禅寺は、
「なんでもないじゃあないよ。そんなに灰を描き回して…火鉢の周りが灰だらけじゃないか。一体うちに何をしにきたんだい?千鶴子の掃除の手間を増やしにきたのかい?」
と、凶悪なくらいの仏頂面でそう小言を並べたてた。そして、
「ご、ごめん…」と慌てて散った灰を集めようとする関口の手を掴むと
「手が汚れるだろう。いいよ、後で僕が拭いておくから」と関口の顔を覗きこんだ。
関口もそんな中禅寺を見返す。
一瞬
「僕のものだ」
ちらりとその想いが、中禅寺の頭を掠めた。
僕のものだ。長い間、彼を見つめ続けていたのは僕だ。
傷ついた彼をこうして救ってやれるのも――僕だ。
それでも――
『僕のものだ』
耳元で囁かれた彼のあの声が、呪縛のように中禅寺の腕に絡み付く。
己の膝に上から一寸足りとも動かせぬようにもう片方の腕を石のように重くする。
そして、口をついて出た言葉は
「君が訪ねたかったのは僕の処ではないだろう」
無愛想に言い捨てた言葉の裏に、隠しても隠しても滲み出る悲哀の想いを気取られぬことを、中禅寺は何よりも望んだ。
関口はぼうっとした顔をして、そんな中禅寺を見つめていたが、やがてゆるゆると頷くと
「ごめん……邪魔をしたね」と俯き、小さく詫びた。
そして、のろのろと立ちあがると、ごめん、と再び呟いて、後も振返らずに座敷から出て行った。
彼は――あの男の処に行くのだろうか。
あの二人は何か些細なことで喧嘩でもしたに違いない。いつもは折れる榎木津が、今回ばかりは意地をはったのだろう。
そして――自分のところに釘をさしにやってきたのだ。
馬鹿馬鹿しい
痴話喧嘩に巻き込まれるのはごめんだ。これ以上甘美な期待を抱かせられるのも――
――ごめんだ。
『ぼくのものだ』
榎木津の囁きが、また耳元に甦った。
中禅寺は勢い良く火箸で灰を掻き回し――そんな自分に気付いて、大きく溜息をついたのだった。
このやるせない想いは確かに――
「僕のものだ」
心の中でそう呟きながら。
<終>