偽 善



海面が何処までも深い蒼色に見えるのは、雲一つない快晴の空の青さを映しているからであろう。
冬、雪空の下で見た海原は黒といっても良いほどの濃い灰色(グレイ)だった。波頭の白さに降りしきる雪が吸い込まれるように紛れていく様を時間を忘れて見つめていた己の隣には――やはりこの男がいたのだったと、中禅寺は傍らに立つ榎木津をちらと見やった。



中禅寺がここ、鎌倉の七里ヶ浜に来たのは、榎木津の招待によるものである。彼の探偵事務所の面々と、関口夫妻、そして勿論彼の妻の千鶴子と共に、夜開催される花火大会を見に来たのであった。榎木津の知人がやっているという海岸を見渡せる料亭の2階に荷物を置いたあと、泳ぎに行くぞと騒ぐ探偵に引張られるようにして出て行った和寅と益田が間もなく二人きりで戻ってきた。
「今日は遊泳禁止らしいですよ。波が高いらしくてね」水着もないのに泳げといわれたらどうしようと思ってたんですよ、と益田はけけけと笑いながら、それでも大将はあきらめきれないのかまだ海岸で海を睨んでいますがね、と言って、ああ疲れたとその場に寝転んだ。関口もその近くで既に熟睡している。何でも今日、ここに来る前にと頑張って徹夜で原稿を仕上げたらしい。そんなに無理して来ることはないだろうにと中禅寺は呆れたのだが、江ノ電の中ではしゃぐ雪絵と千鶴子の姿を見ると、彼がなんとしてでも来ようと思った気持ちもわからぬでもないなと納得したのだった。
例年の花火を見るためだろうか、料亭の二階の窓は少し外へと突き出ており、海岸が一望できるようになっている。その手すりに手をやりながら中禅寺が外を見やると、一人海岸で風を受けて佇む榎木津の後姿がその目に映った。
ここから見る限り、「遊泳禁止」になるほど波が高いようには見えない。千鶴子は雪絵と部屋の片隅でまたくすくすと笑いながら何やら楽しく話しに花を咲かせているようである。生憎家に迎えに来た榎木津に「なんて無粋な!たまには家族サービスに勤しんでみせろ」と、持っていこうとした本を全て取り上げられてしまったこともあり、手持ち無沙汰でもあった中禅寺は散歩がてら海岸の方へと降りてみることにした。


思いの外風が強いことと、砂に脚を取られる嫌な感覚に外へ出たことを少し後悔しつつ、中禅寺は榎木津の立つ波打ち際へと脚を進めた。
近付いてみると確かに打寄せる波は高い。強風のために今日の花火が中止にでもなったら女性軍はさぞがっかりするだろうと思いながら、中禅寺は榎木津に声をかけようとその背を見――彼の後姿の向こう、水平線の彼方にきらりと光る小さな白い影に思わず目を奪われた。
中禅寺の目の前をすうっと過っていったその小さな白い姿は、波の彼方を飛ぶ鳥――カモメか何かだろうか。強風のためか他に鳥の姿はなく、抜けるように青い空に一際くっきりとその姿を現したその白い小さな影は、あっという間に彼の視界から消えていった。

幻か――?

あまりにも鮮明に網膜に焼き付いたその「白」は逆にその存在を何処か不確かなものにさえ感じさせる。中禅寺が再びその姿を見ようと水平線の彼方へと目を凝らしたそのとき

「こんな風の日にも鳥が飛ぶのか…逞しいな」

不意に榎木津が中禅寺の方を振りかえり、そう微笑んで彼を見た。
「……泳げないんだって?」この強い風の音に、てっきり自分が近付くことには気付いていないだろうと思っていた中禅寺は何故かどきりとしながら、そう榎木津に尋ねる。
「ああ、波が高くて駄目らしい。夜までには風がおさまってくれるといいんだが」榎木津はまた水平線の方へと視線を戻すと悩ましげにそう呟いた。中禅寺は歩いてきた海岸をふと振りかえる。あとはあげるばかりに準備の整った花火用の設備が空しく風に吹かれている。
「…まあ、たまに遠出するのもいいものだよ。千鶴子も雪絵さんも喜んでいる」
気を使ったわけではないが、楽しげな二人の妻の姿を思い起こしながら中禅寺が彼を慰めるようにそう言うと
「甲斐性のない亭主を持った千鶴ちゃんと雪ちゃんに命の洗濯をさせてやりたかったんだけどな」と榎木津は笑って風に乱れる前髪をかきあげた。
「……それはどうも」ぶすりと応えながらも、確かに普段妻を旅行になど連れ出してやれない自分の甲斐性のなさを思い、中禅寺は榎木津の後姿を感謝の念を抱きつつ見つめる。

不意に中禅寺は、驚くほどの既視感を、その後姿に見た。


あれは――冬


こうして彼の背を黙って見つめていたのは、雪の降りしきる海辺――


「何処へ――行くんだろうな」
榎木津の問いかけが、中禅寺の思考を今に引き戻した。
「…え?」応えながら、彼があの、白い鳥のことを言っているのだろうということに気付く。
榎木津もあの鳥に気を取られたのかと中禅寺は何となく同調の念(シンパシィ)を抱きながら、
「さあ――家にでも帰るのだろう」と口調はあくまでも淡々と思いついたままを彼に応えた。
榎木津は少しの間、沈黙した。そしてまたふと中禅寺を振りかえり、彼の顔を見つめる。
なんだ?というように中禅寺が眉を少し顰めて見返すと、榎木津は小さく微笑んで、
「お前もあの鳥を見てたのか」とまた海辺へと視線を戻した。
「…それを前提に聞いたんじゃないのか」他に注目すべき目新しいものなどなかったじゃあないか、と中禅寺は憮然としたふうに答えながらも、榎木津も同じことを考えていたのかと、なんだか少し微笑ましいような――そして、何故か不意にやりきれないような気持ちに陥りそうになった。が、その思いは榎木津の
「お前は――偽善者だな」という冷笑を含んだ言葉にたちどころにかき消える。


再び戸惑うほどの既視感が中禅寺を襲った。



『お前は――偽善者だな』


あのとき、彼が泣いているのではないかと――その背を見つめた、あの日――


あれは――もう何年前になるだろうか。
榎木津に誘われ、関口と3人で北陸を旅したことがあった。学生時代にはよく連れ立って貧乏旅行に出掛けたものだが、戦争を経た後に再会してからは初めてだったのではないかと思う。漸く戦後の生活にも慣れ、余裕も出てきたこともあって久々に遠方へ旅行しようという榎木津の言葉に嬉しそうに頷く関口は、物書きとして一人立ちしようとしているところだった。東京は綺麗に晴れていたというのに、夜行を降りた途端激しい風雪に襲われて、現地では3人殆ど宿の中で過ごさざるを得なくなってしまった。つまらん、これじゃあ東京のセキの下宿でごろごろしてるのと何ら替わりがないじゃあないかと榎木津は騒いだが自然の力には勝てず、上げ膳据え膳の贅沢のみを堪能しつつ酒ばかり飲んで過ごしたその最後の夜――

酔った関口が、榎木津に告げたのだ。


『結婚しようと思ってるんだ』


中禅寺は既に本人から聞いて知っていた。が、榎木津は初耳だったようで、一瞬驚いたように黙り込んだが、すぐに倍ほどに陽気になり、「よくやった!サルだサルだと馬鹿にしていたが、伴侶を得るとは目出度いぞっ」と関口の背を叩きながら、宿中の酒を持ってこさせるような勢いで祝杯だと騒いだ。
そして――その夜、榎木津は宿から消えたのだった。
飲み潰れて眠る関口は榎木津が出て行ったことに気付かなかったようである。あまりの騒動に宿がそれほど混んでいなかったこともあり、別室を与えられて寝ていた中禅寺が夜中様子を見に彼らの部屋を覗いたときに、彼の不在に気付いたのであった。
厠かと思ったが、今自分がその厠から帰ってきたところだったと眉を顰める。何となく胸騒ぎがして、雪の中傘を借りて宿の外へと彼を捜しに出た。

雪は益々その勢いを増してゆくようである。あきらめて帰ろうかと思いながらも中禅寺の脚は海岸へと向かっていた。この砂浜は車で走ることが出来るそうだと榎木津が来しなに騒いでいた海岸が、宿から歩いてすぐのところにあった。勿論この雪で彼の「車で走る」という希望は却下されたのだったが――傘をさしているとかえって風のために歩きにくいと中禅寺は傘を閉じ、積もる雪に脚を取られそうになりながら海岸へと脚を速めた。
そして己の予想通り、その長身を海岸に認めたとき中禅寺の胸が酷く痛んだのは何故だったのか――その理由を思いやる暇もなく、中禅寺は何かに駆立てられるかのように彼の背に向かって走り出していた。

海は随分荒れていた。真っ黒な海面に、押し寄せる波頭だけが白い。雪がその白い波へと吸い込まれていくように見える。降りしきる雪のその勢いがまた激しい波を巻き起こすような錯覚に陥りそうになりながら、榎木津は一体何を見つめているのだろうと中禅寺は肩で息をしながら暫しどう声をかけようかと彼の後ろに佇んでいた。

榎木津も傘などさしていなかった。じっと前方を見つめている彼は、中禅寺がすぐ後にいることになど気付いていないようにも見える。降りすさぶ雪の勢いは更に益し、雪塗れの榎木津の頭に、その肩に、高く降り積もっていきつつある。自分の肩にも雪が積もっているのだろうか、だからこんなにもこの身体が重いのかと中禅寺が小さく溜息をついたそのとき

「セキは…結婚するのか」

榎木津がぽつりと――呟くように海に向かってそう言った。

風の音にかき消されそうなその声は、何故だかやたらと鮮明に中禅寺の耳に届いた。

「そう彼が自分で言ったじゃあないか」中禅寺は叫んでいるような大声でそう答える。
「お前は知っていたんだな」驚かなかったものな、と自嘲のような笑いとともに榎木津が彼を振り返ることなくそうまた呟いた。
「…それがどうしたって言うんだ」何故か酷く苛つく思いに捕われて、中禅寺は更に大きな声でそう叫んだ。榎木津はその声が届かぬかのように、暫く黙って前を見つめていたが、やがて、半身だけ中禅寺の方を振り返ると一言
「お前は…偽善者だな」と口唇の端を無理に上げるようにして微笑んで、また海のほうへと視線を戻していった。

偽善者――

どういう意味かと問いかけて然るべきであるのに、中禅寺は彼の背をただ黙って見つめ続けた。

榎木津が――何故か泣いているような気がしていた。

「彼」からそのことを告げられたあの日――心の中で自分が涙したように――


雪が一段と激しさを益してゆく。不意に榎木津が中禅寺の方を勢い良く振り返ると
「帰ろう」と明るい声で言って笑った。その顔に涙の痕跡が残っていないことに、かえって中禅寺は痛々しい思いを抱きながら、寒さに強張る顔で榎木津に微笑を返したのだった。




「偽善者?」陽光に光る波間が中禅寺の目を刺す。眩しさに目を細めながら中禅寺はそう榎木津へと問い返した。
「…家に戻る、か。どうしてそう思うんだ?」その問いには答えず、榎木津はまた問いを重ねてくる。
「そう望んでいるような気がしただけさ」実際は単なる思いつきでしかなかったのに、中禅寺はこじつけたかのような理由をまた口にしていた。
「……望んでいる、か」また榎木津が冷たく笑う――その冷たさは応えた自分に向けられたものではなく、榎木津自身を痛めつけるかのような響きを以って中禅寺の耳に届いた。
「あんたは…何処へ行くと思ったんだ?」わざと明るく中禅寺は榎木津の方に身体を向けてそう尋ねる。榎木津は少し考えるように首を傾げると、すぐに笑って
「…どこか遠い国へ…そうだ、北国にでも帰るのかもしれない」と中禅寺を見かえした。
「白鳥じゃあるまいし」つられたように笑いながらも中禅寺は榎木津の顔を探るように見つめる。彼が――何故だか泣いているような気がしたのは、あの日を思い出してしまったからだったのだが――


あのあと、宿に帰ってから中禅寺は熱を出し、毛布で包まれたその身体を榎木津に抱えられるようにして帰京した。何も知らない関口が、心配そうに自分をずっと見下ろしていた。
榎木津は――そんな関口を見つめていたような気がする。熱にうかされた頭ではその事実を確めることは叶わなかったのであったけれども――



「本当に何処へ飛んでいってしまったんだろう」榎木津の声に中禅寺の意識は再び今に戻る。榎木津はまた遠く水平線の彼方を見つめていた。
「……遠い国じゃないのか?」揶揄するようにそう笑いながら答えた中禅寺の頭を榎木津が軽く小突いた。


何にも捕われず自由にこの大空を飛びまわるあの白い鳥――決して掴まえることの叶わない幻の鳥。


「あんたみたいじゃないか」思わず口をついて出た中禅寺の言葉に、榎木津はその鳶色の美しい瞳を見開いて彼を見ると
「何が?」と首を傾げた。
「自由で…何処へでも自分の望むところに行くことが出来て…」そして美しい――最後の言葉は心の中で呟いただけに留めた中禅寺に向かって、榎木津は苦笑しながら
「そう望んでいると思ったのか?」と先程の彼の言葉をなぞってみせた。


ふと中禅寺の見つめる先、遥か波の彼方を、先程の――かはわからないが、白い鳥が横切る。
「あ」榎木津が傍らで声をあげた。彼も同じ鳥を見たのだろう。
陽光に眩しいほどの白さの残像を網膜に残したその鳥は、また不意に波の向こうへと姿を消す。


この手で触れることの叶わないその姿をいつまでも追い続けるこの思いは――


中禅寺はそっと傍らの榎木津を見やった。榎木津はやはり、無言で波の彼方、あの白い鳥の消えた方向を見つめ続けていた。


偽善者はどっちだ


言葉の苦々しさを裏切るこの胸の清々しさ――
中禅寺は一人微笑み、また遠い水平線の彼方へと目をやる。


またあの幻の白い鳥の姿を見ようと、眩しさに眉を顰めながらも何処までも青い海を見渡す。

少しずつ風がおさまってきたように感じ振りかえると、花火師たちが連れ立って歩いてくる姿が近付いてきた。

「どうやら上がるらしいな」花火、と榎木津にそう笑いかけると、
「僕を誰だと思ってるんだ」神に出来ぬことなどないのさと榎木津も笑って中禅寺を見た。
そして、
「千鶴ちゃんと雪ちゃんに教えてやろう」と榎木津は中禅寺の背に手を廻して彼を促がすと、二人して皆の待つ料亭へと向かって歩きはじめた。



<終>