不定期bbs連載

やきもち



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何が――あんなにも彼を怒らせたのかわからない。

神保町からの帰り道、私はしきりに首を傾げながらとぼとぼと歩いていた。締め切りをこれでもかというくらい破りまくったカストリ記事をなんとか仕上げて鳥口に渡した帰り道、久々に外に出たのだからとちょっと足を伸ばして神保町の古本屋街をうろついたあと、ふと榎木津に会いたくなった。考えてみればこのひと月あまり、彼の姿を見ていない。勿論自分が締め切り締め切りとあまり外を出歩かなかったためでもあるのだが、たまに訪れる京極堂でも、普段なら可也の確率で彼と顔を合わせるというのに、ここのところ一度も彼があの座敷で昼寝をしていたことはなかったのだった。
榎木津に限って、身体を壊しているということはないだろうが――と思いながら、そういえば風邪で寝込んだこともあったなと思い当たり、久々彼のご尊顔を拝しようと急に思い立ったのである。
手ぶらで行くのも何かなと思い、竹橋名物の大丸焼きを買っていくことにした。榎木津は最中のようなもそもそした菓子は嫌いだが、饅頭ならきっと食うだろうと思ったのである。酒の方が喜ぶかとも思ったが、生憎持ち合わせがそれほどなかったので大丸焼きで我慢して貰うことにした。
とは言えいつもは手ぶらなのだから、私にしたら破格の気遣いなのである。と胸を張って言えることなどでは勿論ないのだが――。

そうして珍しくも手土産を携えて久々に訪れた榎木津は、私を出迎えた当初から酷く機嫌が悪かった。探偵自らの応対に、「和寅君はどうした?」と聞くと、実家に使いに出ているという。
ふうん、と頷きながら、榎木津の不機嫌の原因はもしやそこにあるのではないかと私は一瞬勘繰った。また彼の父親が無理難題を吹きかけてきたのではないだろうか。この榎木津をして「変人」と言わしめる彼の父の破天荒さは、他人である私などは「凄いな」と笑っているだけで済むが、身内となったら話は別なのだろう。榎木津は、そういうわけだから茶が飲みたかったら自分で入れろ、珈琲なら僕も飲みたい、などと言ってそのまま「探偵」の三角錐の立った自席へと座り込んでしまった。どうやら彼の不機嫌は相当根が深いらしい。触らぬ神になんとやら、で私は言われるがままに珈琲を入れに台所へと立った。

こぽこぽこぽこぽ

珈琲を飲むのも入れるのも実は私は好きなのである。榎木津のところには見るからに高級そうな豆挽きやらサイフォンやらがある。珈琲が抽出されるのをじっと待っているうちに、私は榎木津が不機嫌でいるという事実をすっかり忘れてしまっていた。これぞ、三歩歩けば全てを忘れるという鳥頭―――サルと呼ばれても仕方が無いのかもしれない。

珈琲をふたつ盆に乗せて彼の待つ机のところまで運んでやる。榎木津は珈琲の香りに片目だけ開けると
「ご苦労」と笑いもせずにそう言って盆から珈琲を一つ受け取った。私も机の上に盆を下ろしてカップを口へと運ぶ。
今日の豆はキリマンジェロ――これがモカでもブルーマウンテンでもきっと私にはわからないのだろうが。
「サルにしては上出来」
ここで初めて榎木津がにっこり笑って私を見た。
「そりゃどうも」一応誉め言葉と受け取っておこうと私は素直に頭を下げた。
そんな私の頭の上のあたりを榎木津は半眼になってじっと見つめている。あ、『見ている』な、と思った途端、榎木津が酷く嫌そうな顔をした。
「なに?」一体彼には何が見えたというのだろう。見えるわけもないのに、自分の右斜め上辺りについ目をやりながらそう尋ねると
「……最近顔を見せないと思ったら……そういうことか」と,榎木津はがちゃりと珈琲カップを机の上に音を立てて置いた。
「そういうこと?」一体彼は何を言っているのだろう。顔を見せないといえば、榎木津自身が京極堂に顔を見せなかったではないか。わけがわからず、彼の言葉をそう鸚鵡返すと、
「締め切り締め切りと言いながら、ちゃっかり遊んでいるじゃないか」と榎木津は益々不機嫌な顔になり、その秀麗な眉を寄せて私を睨みつけたのだった。


U

それからの榎木津はもう取り付く島もなくなってしまって、私はその不機嫌の原因もわからぬまま、早々に彼の事務所を辞すより他はなかった。折角一緒に食べようと思って買った大丸やきを応接の机の上に残し、私はもごもごと口の中でそれじゃあ失礼するよというような挨拶をすると、相変わらず私を睨みつづけている榎木津に背を向け事務所を後にした。
後ろ手にドアを閉め、一瞬そのドアにもたれかかるようにして溜息をつく。どうも榎木津のあの端正な顔には私は少しも見慣れることがない。普段はともすれば見蕩れがちになってしまうその顔も、一旦ああして怒りを露にすると、もう私などは殆ど言葉もなくただただその前に萎縮するだけになってしまうのである。

怒れる美神―――まあ、それほどのものではないか。

大仰に考えてしまったことを少し馬鹿馬鹿しく思えるようになると漸く気分も落ち着いた。よく考えてみれば、この長い付き合いの中、榎木津の不興を買ったことなどいくらでもあるのである。原因はまちまちで、こちらからすると「何故それが?」というようなことでも平気で榎木津はヘソを曲げた。――勿論、彼が怒るのが正論ということも多々あったけれども。
そして、2、3日すると――早い時には数時間で彼の機嫌は直り、先ほどの怒りなどまるで忘れたかのように躁状態なほどの上機嫌で私の背中をどやしつけたりしてかまってくる。彼の心の機微をいちいちつぶさに追いかけるような酔狂な真似は、彼と十数年来付き合ってきた今となってはするだけ無駄だということが骨身にしみてわかっている。
まあそのうち機嫌も直るだろう、と私は少し恨みがましく探偵事務所のドアを睨み―――残してきた大丸焼きが惜しかったからである―――仕方なく時間潰しに中野の古本屋を訪ねてみることにしたのであった。


「……で?」
相も変らぬ、町内中が死に絶えたような仏頂面で、『京極堂』の主、京極が本から顔も上げずに私にそう問い掛ける。
「……で?」
京極堂を訪ねると、主は余程暇だったのか、直ぐに店に『骨休め』の札をかけ、私を座敷へと上げてくれた。珍しいことである。普段は商売の邪魔はするなだと、一体今日は何をしに来たのかだとか、ひとしきり店で問答を取り交わした後漸く座敷に上がることを許されるというのに。
きっと私が手に下げていた『大丸焼き』の包みが彼の歓心を買ったのだろう。
結局我慢できずに、私はまた竹橋まで引き返し、残り少なくなっていた大丸焼きを土産にここを訪れたのである。―――単に自分が食べたかっただけなのであるが。
この常に眉間に皺を湛えた凶悪顔の友人が実は女子供の好む甘いものには目が無いという取り合わせのアンバランスさを私は可也気に入っている。大の男がこうして昼日中から、座敷に向かい合わせに座って、入れて貰った出がらしの茶を飲み、大丸焼きを頬張るというシチュエーションもまた然りである。
「……だから、君は一体さっきから僕に何を言って欲しいんだい?」京極堂が、おそらく3つめかと思われる大丸焼きを手にしながら、私の方をちらと見上げてそう問い掛けてきた。
「別に言って欲しいことなんかないよ。榎さんの機嫌が飛び切り悪いという話をしただけじゃあないか」流石の私も―――何が流石なんだか―――そうそう甘いものばかり食べ続けることは出来ない。お茶うけに今度は煎餅でも出してくれないかなとちらと主の顔を私も見返したが、彼に全くそのつもりがなさそうなのに半ばがっかりし、満足そうに大丸焼きを口にするその顔を半ば微笑ましく思い―――そんなことを考えていることなどおくびにも出さずにそう返すと、京極堂は
「だから、そもそも何故そんな話をここへ持って来るんだい」と、いつものように不機嫌そうにそうぶすりと言い捨てる。
榎木津が彼くらいいつも不機嫌そうな様子をしているのであれば、こうして私はいちいち報告しには来ないだろう。とはいえ、私とて目の前のこの友人を超能力者とも霊能力者とも思っているというわけではない。だから別に彼に榎木津の不機嫌の理由を尋ねたくてこうして話しをしたわけでは勿論ないのであるが―――早い話が、私は―――不安だったのだ。
榎木津の不機嫌の原因は何にあるかはわからなかったが、決定的に彼を怒らせたのは、どうやら自分に何か関係があるのではないかと心配になったからである。
「……君はどう思うかい?榎さんは一体何を『見て』一層不機嫌になったんだろうね」
結局のところ、私は彼の言う通り、彼に何かを――榎木津の不機嫌の理由を―――『言って』欲しかったのだろう。京極堂は、あからさまに大きく溜息をつくと
「そんなこと、僕が知るものか」と膝の上に開いたままの本に目を落とし、わざとらしく頁を捲った。私はそんな彼の仕草を眺めながら、我慢比べのように彼が再び口を開くのを待った。


「……で?彼は君に何を言ったって?」
根負けしたのは―――心優しい私の友人の方だった。私はこみ上げそうになる笑みを必死で堪えながら、榎木津に言われた言葉を必死に思い出そうと数時間前に思いを巡らせた。


V


「それがね、全く意味がわからないんだよ」私は榎木津の言葉を一言一句違わぬよう思い出そうと暫し宙を睨んだ。
「榎さんの言葉に意味を見つけようとする行為自体に意味がないという気がしないでもないがね」相変わらずの減らず口を京極堂はたたいたが、強ちそれは「減らず口」ではなく真実を語っているかもしれないと私は一人心の中で納得していた。榎木津の言動がいつも破天荒なのにはすっかり慣れっこになってるはずの私である筈なのに,今回に限ってこんなにも彼の不機嫌の原因が気になるのは何故なのだろう。

もしかしてこれが……恋?

なんちゃって。

すっかり「思い出す」ことから逃避しかかっている自分に気付き、私は自分で自分が情けなくなった。京極堂は一人でしかめっ面をしたり舌を出したり溜息をついたりしていた私の顔をつらつらと眺めていたが、やがて心底あきれ果てたような深い溜息をつき、再び開いていた書物に眼を落としてしまった。慌てて私は、相談に乗ってくれようとしていた彼の気がかわらぬよう、勢い込んで喋り始めた。
「わけがわからないんだよ。僕が事務所についたそのときには、彼は随分と不機嫌だったんだ。」
「和寅君は?」どうやらまだ話を聞いてくれるつもりではいてくれているらしい。京極堂は本から目も上げずにそう尋ねてきた。
「いなかった。榎さん一人で……それで僕に珈琲を入れろと言ったんだ」私はことのあらましを可也詳しく話した。京極堂は聞いているのかいないのかわからないような表情(かお)をして、じっと本の上に眼を伏せている。
「珈琲を飲みながら、いきなり榎さんが怒り出したんだ」話はクライマックスにかかりつつあった。それを察してくれたのか、京極堂は
「ほう」と漸く顔をあげてくれた。ちゃんと聞いていてくれたのかと私は少し嬉しくなって彼に向かって思わず少し微笑みかけてしまった。と、京極堂は見てはいけないものを見てしまったかのような渋い表情をして、また本へと視線を戻した。なんなんだと思いつつも私は言葉を続けた。
「なんだったかな。『忙しい忙しいといいながら、随分楽しいことをしてるじゃないか』とかなんとか」今ここに榎木津が居たとしたならば「何処が一言一句違わないだ」と怒り出すくらい言葉の調子は違うような気がしないでもないが、意味はだいたいこんなところだろう。我ながらいい加減だなあと思う私に
「……楽しいことをしていたのかい?」不意に京極堂がぶすりとそう言葉を挟んだのだった。
「してないよ?」本当に思い当たることなど何もない。
「……ふうん」京極堂は納得しきれないといった顔で、それでも何も言わずに視線を本へと戻す。
「君が一番知ってるだろう?最近僕は、家で原稿を書く以外はそれこそ君のところにくらいしか来ていないよ」まさにそれが事実そのものだった。本当は家から一歩も出ずに家の中でああでもないこうでもないとぐだぐだとしていたいのだが、雪絵が掃除をしたそうな顔でちらちらと部屋を覗くものだから、仕方なしに近所のここへと足を向けていただけなのである。そんなことを言うと今度は京極堂が
「それじゃあ君が僕のところを訪れるのは、ただ近所だからという、その理由だけなのかい。それだけの理由で僕は貴重な読書の時間を割いて君と相対さなければいけないというわけか。随分とご挨拶だな」などとヘソを曲げかねない。
そこまで私も馬鹿ではないから、単に事実だけを述べてみせたのだったが、何故か京極堂は私のその言葉に機嫌をよくしたように見えた。伏せられたままの仏頂面が常人には分からぬほどに少し緩んだだけなのであるが―――私は自分の言葉の何が彼の気に入ったのか、少しもわからなかった。が、相談に乗ってもらっている身としては、機嫌が悪いよりは良いに越したことはない。
「ここでのことを言っているのかな」京極堂が懐から右手を出して顎の辺りを擦った。彼が考えるときの特有のポオズである。
「……楽しいことなんかしたかねえ?」私もつらつらとこの一週間を思い返してみた。が、何一つ変わったことなど思い浮かぶはずもない。ふと私は、そういえば最近ここで榎木津に出会わなかったという不自然な事象を思い出した。
「そうそう、どうして榎さんはここのところ君のところに寝に来ないんだい?」
思ったままを尋ねると、京極堂は、さあ、と小首を傾げてまた自分の顎を撫でた。
「体調でも悪かったのかねえ」とてもそうは見えなかった榎木津の血色のよい顔を思い出しながら私はそう誰にともなく呟く。
「ここへ来ても君には会えないと思ったからじゃないのか。」京極堂が小さな声でわけのわからないことを呟いたが、私が「え?」とその言葉尻を捕らえると、なんでもない、というように首を振ってみせたのだった。
「楽しいことといえば……そうそう、ひとつ『楽しい』といえなくもないことがあったよ」不意に二人の間に落ちた沈黙が重かったせいもある。私の頭に何か話さなければというような指令が働いてくれたからだろうか、私はふと昨日のことを思い出したのだった。
「え?」京極堂が眉を顰めて私を見る。
「昨日、鳥口君の下宿にはじめていったんだ。そうしたらね」くすりと思い出し笑いが私の口から漏れた。昨日、待たせに待たせた申し訳なさから、鳥口の下宿へと書きあがったばかりの原稿を私は届けたのである。初めて訪れた彼の下宿はなかなか小奇麗で意外なような想像通りのようなくすぐったいような思いで玄関の戸をくぐったのだったが
「……それで?」
思い切り不機嫌な京極堂の声に私はふと我に返り―――目の前の彼の凶悪を通り越してまさに鬼の面のようになっている彼の仏頂面を見てその場に凍りついた。

W

「……で?」阿修羅のごとき形相で私を睨みつける京極堂の前で、蛇に睨まれた蛙状態に陥ってしまった私は、一体自分の言葉の何処にこれほどまでに彼を不機嫌にする要素があったのだろうと無理矢理頭を巡らせてみた―――が、少しも思い当たる節はない。
「…それでどうしたのかね?」すっかり失語症になってしまった私に京極堂は問いを重ねる。
「どうって?」余りに恐ろしい彼の顔にびくびくしながら私がそう言葉を挟むと、京極堂は肺の中の空気を全て出し切ったように深い深い溜息を一つついて、
「本当に君は胡乱だね。そもそも君が相談に乗って欲しいというから僕は聞きたくもない君の馬鹿話に付き合っているんじゃあないか。さっさと続きを話したらどうなんだい?昨日鳥口君の下宿に行ったんだろう?そこでした『楽しいこと』は一体なんだったのかね。」
と立て板に水の如く一気に捲し上げられてしまい、私はちくちくと嫌味を挟んだ彼の発言の中身よりも、彼の肺活量の方に感心して―――だって、溜息をつききったあと、彼は息を吸わなかったのだ!どうでもいいことだが―――またもや
「え?」と間の抜けた相槌をうってしまった。と、京極堂はその眉間の皺を益々深めて
「言いたくないのかね」と探るように私を見る。
「いや、そんな…えーーっと、たいした話じゃないんだけどね」本当にたいした話ではないのだ。話し終わったあとの、京極堂のあきれた表情まで私には想像がついたが、このまま沈黙を守るよりは話してしまった方がよっぽど楽だと、私は仕方なく話し始めた。

* * *

昨日、「これから原稿を届けるよ」と事前に電話を入れると、彼は「うへぇ」と慌てたような声をあげたが、懇切丁寧に彼の下宿までの道のりを教えてくれた。心のどこかで「いいですよ、僕が取りにいきます」という彼の言葉を期待していた私は、自分が言い出したことだから仕方がないけど面倒だな、などと図々しいことを考えながら彼の説明を聞いたが、今ひとつちゃんと行き着くか自信が持てなかったので彼に駅まで迎えに来て貰うことにした。
それから都電を乗り継いで指定の駅へと向かい、既にそこで待っていてくれた鳥口に原稿を渡した。よく考えると、彼を訪ねる目的はそこで達したのであるからそのまま真っ直ぐ帰ってもよかったのだが、鳥口に是非是非と手を引かれ、彼の下宿を訪れることにしたのだった。
並んで歩くこと五分、彼の下宿のあるロケーションはなかなかにいい。ひょいと顔を出した大家さんに挨拶し、階段を上って彼の部屋へと入るとき、ドアを開けてくれた彼のすぐ傍らを通った私は、石鹸の匂いを感じてふと彼を見上げた。よく見ると彼の短髪もなんだか濡れているようである。
「風呂にでも入ったのかい?」昼間っからいい身分だね、というと、鳥口は、えへへ、とちょっと困ったような照れたような顔をして笑うというよくわからないリアクションをしてみせた。
「どうぞどうぞ、散らかってますが」と言う割に部屋の中は綺麗に片付いていて、私は促されるままに部屋の中央にある炬燵へと潜り込んだ。
「今、お茶を入れますね」何故かスキップでもしそうな浮かれた鳥口の後姿を見送ると、私は物珍しさからぐるりと彼の部屋の中を見回した。部屋はどうやら2つあるようで、どれどれ、と私は炬燵から這い出すともう一つの部屋への襖を開ける。
薄暗いその部屋はぷうんと現像液の匂いがした。暗室がわりに使っているのか、窓はぴっちりと目張りがしてあり、黒いカアテンがかかっている。ふうん、と思いながらその部屋へと足を踏み入れようとしたとき、
「せ、先生!」という鳥口の慌てた声が背後でし、私はなに?というように振り返った。
「い、いや、お茶です。どどどどうぞ」激しく動揺しているらしい鳥口に不審の目を向けつつ、私は襖を閉めて彼の方へと向き直る。ちらりと視界の隅に、暗室の床にしかれた妙に綺麗な布団が目に入ったが、真っ暗なところじゃないと眠れないのかな、くらいに考え私は彼の勧めてくれるがままに炬燵に入りこんだのだった。

* * *

「……ふうん」
不意に京極堂の相槌が入ったので、私は思わずそこで話を止め、彼の顔を見た。
「……で?」私の視線に気付いた京極堂がそう先を促す。
「うん。それでね」仕方なく私は続きを話し始めようとしたのだが、ちらと見やった彼の膝に置かれた手が、どうしてその甲が白くなるほど握り締められているのかな、と不思議に思ってつい黙り込んでしまった。
手洗いでも我慢しているんじゃあないか、我慢はよくないよ、などと勿論本人に言うことは出来なかったのだが―――
「それで?」痺れをきらしたような京極堂の声に、私は慌てて昨日の鳥口の家であった出来事の続きを話し始めた。


X

「いや、そんなにたいした話じゃないんだよ?」よく考えてみたら、いや、考えなくてもたいして面白い話ではないのだ。が、目の前の京極堂の悪鬼のごとき形相の前ではそう言い訳を重ねる勇気もなく、どんなにつまらない話でも話してしまった方がラクだと、私は仕方なく続きを話しし始めた。

* * *

「はい。先生」鳥口が入れてくれた茶を盆に乗せて運んできてくれた頃には、前日の夜更かし―――勿論原稿を書いていたのである―――がたたってか、私は炬燵でうとうとしかけていた。あわてて出かかっていた涎を手の甲で拭うと
「どうかおかまいなく」などとボケた挨拶を返してしまったからか、鳥口は笑って僕の前に茶を置くと
「嫌だなあ。僕と先生の仲でそんな他人行儀な」とやはりふざけた答えを返し、だって他人じゃないかとお約束のツッコミを私が入れる前に、
「そうだ。何かお茶受け、持ってきますね」と思いついたようにそう言って台所へとまた立った。
「ほんとにお構いなく」とカタチばかりの遠慮をしてみせながら、入れてくれた茶を飲もうとしたとき、台所から鳥口の
「先生のお茶、茶柱が立ってたんですよ。縁起モノだから、茶柱たった方を飲んで下さいね」という声が聞こえてきたので、僕は慌てて湯飲みの中を覗きこんだ。果たしてそこにはぷかぷかと「縁起のいい」茶柱が浮いている。私は少し顔を顰めるとそっと湯飲みを炬燵の台の上に戻した。というのは、以前何かの拍子に喉にひっかけてしまって以来、私はこの「茶柱」が苦手なのである。あのとき、小一時間もごほごほ咳き込んだあげく、いつまでだってもそれが喉に引っ掛かっている感触がとれずにたいそう不快であったことは、今思い出すだけでもトリハダがたつ。
私はひょいと鳥口の湯飲みを覗き込み茶柱がないことを確認すると、そっと自分の湯飲みとそれをすり替えた。所詮私は縁起モノとは無縁の人生なのだ。どうせなら鳥口君にこの茶柱で幸せになってもらおうと思ったのである。
「下のおばさんがおはぎを作ってくれたんですよ。先生、甘いもの好きだったでしょう?」にこにこしながら鳥口は大きなおはぎを二つ更に乗せて持ってきてくれると、自分も炬燵へともぐりこんできた。
「美味しそうだね」お世辞でなくそう言いながら、早速にそれを頂く。鳥口もおはぎを頬張りながら
「先生、お疲れなんじゃないですか?さっき寝ぼけてたでしょ。よかったらゆっくりしてって下さいよ。そうだ、夕飯、ウチで食ってきません?」鍋でもしましょうよ、とぐびり、と目の前の茶を飲んだ。
「鍋か、いいねえ…」僕もお茶を飲みながら、お言葉に甘えてご馳走になろうかななどと思っていたそのとき―――

ごん、という凄い音がして、私はびっくりして傍らの鳥口を見やった。
なんと彼は―――行き成り炬燵に突っ伏して寝始めたのである。「ゴン」という音は彼の額が炬燵の台にぶち当たった音だったのだ。
「と、鳥口君??」なんて素晴らしい寝つきだ。私はびっくりして何度も彼の肩を揺すったが、聞こえてくるのは「ゴー」という彼の寝息ばかりで、寝つきどころか眠りの深さも羨ましいと私はあきれて眠りこける彼の顔を見下ろした。
私より、よっぽど彼の方が『お疲れ』だったんだなあと、その罪のない寝顔を見てるうちになんだか申し訳ないような気持ちになってきてしまい、締め切りを破りまくったことに対する罪悪感も重なって、私は彼を起こさぬようそっと帰ることにした。
立ち上がりながら、このまま炬燵で寝ていたら風邪をひくかもな、と思いつき、そうだ、隣の部屋に布団が敷いてあったなと思い出す。襖を開くとやはり部屋の真中に真新しい布団が敷かれていた。掛け布団を捲ってみると、その敷布も綺麗に洗濯がされてる上に糊付けまでされていて、見かけに寄らず鳥口は清潔好きなんだなあと感心してしまった。
「鳥口君、風邪ひくよ?さあ、布団に入ろう」何度もそう揺り起こしたが、やはり鳥口は目覚める気配がなく、仕方なく私は彼のでかい図体を引きずるようにして布団へと引きずり込んだのだった。余りの重さに最後は自分も布団に入ってしまって、彼の体の下敷きになりそうにすらなり、じたばたとその中から抜け出したりしていたのだが、鳥口は少しも目覚める気配がなく、ああ、よっぽど疲れていたんだなあと、彼に布団をかけながら、私はもう一度彼に深く同情し、そっとその場を後にしたのだった。


* * *


「ひとつ心残りはといえば、鍋を食べ損ねたな、ということなんだけど…」と話を結ぼうとした私は信じられない光景を目の前に思わず言葉を失ってしまった。

なんと―――京極堂が―――爆笑していたのである。

「…き、きょうごくどう??」京極堂は肩を震わせながら、いつまでも笑いつづけていた。一体何が可笑しかったのだろう??涙すら流しながら笑いつづけている彼の姿は、或る意味怖い。怖すぎる。
もしかして生まれて初めて見たかもしれない彼の笑い転げる姿を、私は呆然と見つめていたが、漸く落ち着いたのか、彼が
「いや、失敬失敬」とそれでもくすくす笑いながら私の方を見た頃には、私も驚愕を無理矢理作った笑顔の下に押し隠し
「一体何がそんなに可笑しかったんだい?」とおそるおそるではあったが彼に問い掛けることが出来るようになっていた。
「いや……」言い淀んだ京極堂が、また何かを思い出したのか、肩を震わせて笑いはじめる。

やっぱり怖い―――

「そ、そろそろ失礼するよ」と私は徐に立ち上がった。京極堂はまだくすくすと笑っていたが、
「そうかい」と立ち上がると、珍しくも私を玄関先まで見送ってくれ、
「榎さんのことは心配するな。とりなしておいてやろう」と上機嫌のままにそう約束してくれた。

こうして私の謎に包まれた長い一日は終わった。
後日、私はやはり上機嫌になった榎木津から、その日の夕方京極堂とともに鳥口の下宿をともに訪れたことを聞いた。そのときなんとまだ彼は眠っていたらしい。
「本当に愉快だなッ」思いきり蹴り起こしてやったぞ、と榎木津も話しながら爆笑していたが、一体何がそんなに可笑しいのか、やはり私にはさっぱりわからなかったのだった。


<終>