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「…くん、関口君」
遠くの方で己の名を呼ぶ声を、関口は朦朧とした意識の下で聞いたような気がした。肩を軽く揺さぶって来る手に無意識のうちに自分の手を重ねる。
「仕方がないなあ」
溜息混じりに『彼』が呟くその声に、関口の意識は漸く覚醒した。ぼんやりと目を開くと、今まさに『彼』がいつものあの仏頂面を顰めながら、関口を抱き上げようとしているところで、関口は少し慌てたように彼の腕の中で身体を捩った。
「なんだ、起きていたのかい」ぶすりと呟きながら、関口の顔を覗きこんできた『彼』―――京極堂の漆黒の瞳はそれでも何処か優しい。
「…今起きたんだよ」答えながらまだ声が寝ぼけているなと自分でも思っていると
「起きちゃいないじゃないか」と思った通りに京極堂に返されて、口唇をその口唇で塞がれた。

お互いの妻が、今日から連れ立って小旅行へと出掛けている。

うちに来るだろう?という電話があったのは、丁度雪絵を玄関先まで見送っていたときだった。
「タツさん、お電話よ」外まで見送ろうとする関口を雪絵は笑ってそう制すると、それじゃ行ってきますね、と引き戸を閉めた。それでも暫く電話を鳴りっぱなしにしていたのは、電話の主の顔が思い浮かんだからに他ならない。
雪絵の前では『彼』からの電話を取りたくはなかった。それは、払拭してもしきれない妻への罪悪感によるものであったのだけれど、ならば、と彼との『関係』を断ち切ることなど関口には出来るわけもなく、ただこうして自己回避をするように、或いは己の衝動に対して消極的な抵抗を試みるかのように、じっと電話の前で立ち尽すことしか彼には為し得ないのであった。
それでも電話のベルが7コールを数える頃になると、反対にこのまま切れてしまうのではないかという不安が関口の胸中にたちのぼり、不意に勢い込んで受話器をその手に取り上げていた。
「もしもし」応対の声が掠れる。電話の向こうで一瞬の沈黙があったのは、なかなか電話に出なかった己の心を見透かしたからではないかと、関口は何故か今度は彼に対して酷く後ろめたい気持ちになったのだが、受話器の向こうから聞こえてくる
「うちに来るだろう」という彼のいつもと寸分違わぬ声に、やはり当然のように、うん、と頷き、受話器を置いたのだった。

そうして三十分ほど歩いて京極堂を訪ねると、店主はいつものように町内中が死に絶えたような仏頂面で店番をしていた。関口の姿をみとめると、やあ、来たねと愛想の欠片も無いような調子で声をかけ、目で奥にあがるように促がした。
「もうすぐ昼どきだ。一緒に蕎麦でもとろう」
彼の傍らを擦り抜けながら奥へと上がろうとした関口に、京極堂はそう声をかけてくれたが、関口がそれに礼を言おうと振りかえったときにはもう読んでいた和綴の本へとその視線を戻してしまっていた。関口はその背中に何か声をかけようとして、結局は何も思い浮かばず、そのまま無言で奥座敷へと向かったのだった。

昼食に蕎麦を取り、座敷で暫くどうでもいいような―――などというと、薀蓄を垂れている本人の気分を害するだろうが―――会話を交わし、酷く馬鹿にされたりあきれられたり、そして面白がられたり―――以前とまるで変わらぬような時間を過ごしていることに、関口は心の中でいつも違和感を覚えずにはいられなかった。

彼がはじめて自分を抱いたとき―――こういう関係はもう終わってしまうものだとばかり、関口は思っていたからである。
自分を好きだという彼の言葉を、関口はどうにも信じられなかった。何も答えられずにいる関口の口唇を、京極堂の口唇がそっと塞いだとき、あまりのその柔らかな感触が意外で、思わず彼の身体を跳ね除けてしまった。そのとき目に入った、彼の表情―――酷く己を恥じているような、喪失の予感に押しつぶされそうになっているような、後悔が滲むその顔に、関口の中で初めて彼に対するある感情が芽生えた。

彼に―――そんな顔をさせたくはなかった。

それが、彼の己に対する思いと同じものであるという確証は流石にすぐには持ち得なかったが、関口は思わずそんな彼の腕を引き寄せ、その胸に顔を埋めたのだった。

そして―――

身体の関係が出来るまでに、それほどの時間は要さなかった。初めて彼に抱かれたとき、苦痛よりも、彼の手のあまりの優しさに関口は思わず涙を流した。京極堂は、普段の彼からは想像できぬくらい、慈しみの篭った手で関口を抱いた。大切に大切に、それこそ何かを壊してしまうことを極力恐れるように―――
その『何か』が自分であるという、あまりにも不自然な現象に、関口はいつも一人その行為を思い返しては、自分にそれだけの価値があるのだろうかと自問せずにはいられなかった。

京極堂と新たな関係が芽生えてからも、関口の中野を訪れる数は増えも減りもしなかったが、二人きりになると京極堂は関口を求めてきた。関口も断ることはせず、求められるままに身体を開いた。京極堂の背に己の腕を回しているとき、なんともいえない充足感が関口を包んだ。
この思いが―――京極堂が己を思う「思い」と同じであるかは、未だ関口には自分でも判断がつかなかったのであったが―――

友人としての彼の語らいと、身体を重ねる行為とのギャップに、関口はしばしば戸惑いを覚えずにはいられなかった。今日もこうして、互いに向かい合い蕎麦をすすり、いつもと変わらぬ会話を交わしていることに、どうしようもない焦燥感のような思いが関口の中に芽生えはじめる。決してそれは、彼の行為を求めてのものではないとは思う。ただただ―――落ちつかないのだ、と関口は自分に言い訳をしながら、彼に気付かれぬよう小さく溜息をついたのだった。

食事が終わると、京極堂は店へと戻っていった。夕飯は千鶴子が鍋の用意をしていったから食べていくといいという。そのまま泊まればいいよ、と部屋を出しなに半身だけ振りかえって京極堂が言ったその言葉に、自分でも嫌になるくらいどきりとしてしまい、関口は彼のいなくなった後の座敷の中で、また大きく溜息をついたのだった。

それから夕飯までの時間を、関口は何もせずにごろごろとして過ごした。家にいても似たようなものだが、何故ここでこうして自分は寝転んでいるのだろうと思わなくもなかったが、部屋中が書物で溢れるこの空間は関口には随分心地良く、彼の蔵書を読んだり、ぼんやりと庭を眺めたりしながら安穏とした時間を過ごした。

うちに来るだろう

その言葉に、あの行為を思い描かなかったといえば嘘になる。
それでも、慌しくも抱き合おうとしなかった彼に対して、心の何処かで安心している自分の気持ちに気付き、関口はまたもや何処か後ろめたいような気持ちをもたずにはいられなかった。

好き、なのだろうか


身体まで重ねておきながら、今更、とは思う。
それでも


好き


と言いきることが出来るのだろうか。


あらためてそう考えると、関口の思考は出口を失い、心の奥底へと仕舞いこまれる。

嫌いなら―――抱かれるわけがないじゃないか

少しも答えにならない言葉を自分に言い聞かせると、関口は一人起きだし、京極堂のいる店の方へと向かった。

店には予想通り人影はない。
「退屈したのかい?」本から目も上げずに、京極堂が関口の気配を背中で感じてそう尋ねかけてくる。
「……した」関口はそう言いながら、京極堂と背中を合わせるようにしてその場に座りこんだ。
「…重いよ」声が―――彼の低い声が背中越しに響いてくる。
「しようよ」自分の声もこうして彼の身体に響くのだろうかと思いながら、関口は小さな声でそう呟いた。
京極堂の背中が一瞬固くなり―――
「重いよ」
不意に背中を外されたかと思うと、向き直った彼に口唇を奪われていた。


『骨休め』の札をかけて戻ってくると京極堂はぼんやり座っている関口の横を擦り抜け、一人奥座敷へと向かった。関口も無言でその後を追う。座敷に入ると、その場で抱きすくめられ、口唇を塞がれた。そのまま二人、膝をつくようにして座りこむと、尚も激しく舌を絡めあう。京極堂の手が関口のシャツのボタンをもどかしげに外してゆく。関口も自らボタンを外し彼が服を脱がすのを手伝った。そのままベルトを外され、下履ごとズボンを下げられてあっという間に全裸にされると、関口は京極堂の帯へと手を伸ばしそれを解こうとした。
「…どうした?」いつもと違う彼の積極的な振舞いに、京極堂が一瞬体を離して彼を見下ろす。関口はただ我武者羅に京極堂の帯びの結び目を解こうとしていた。京極堂はあきらめたように自ら帯を解き、着物を脱ぎさるとやはり全裸で関口に覆い被さってきた。

「…どうした」同じ問いをかけてくるその口唇を関口ははじめて自分から口吻けることで塞いだ。京極堂は少し驚いたように目を見開いたが、そのままその口唇を受け止めると舌を絡めた。そして右手を関口の半分勃ちかけた胸の突起へと伸ばしてゆき、丹念に親指の腹でそれを撫上げはじめる。関口はもどかしそうにその足を京極堂へと絡めてきた。その意味するところを察し、京極堂は空いた手で関口自身を握りこみ、扱き上げはじめた。
「……っ」はじめから勢いよく扱かれて、関口は思わず声にならない叫びを上げる。京極堂は自分は体を起こすと、関口の足を大きく開かせ、その間に身体を割り込ませた。そして彼を扱きながらも少し腰を浮かせさせ、その双丘の間を弄り始める。不自然な体勢が、関口の劣情を酷く煽り、彼にしがみつこうと手を伸ばすと、京極堂は体を少し前に倒して彼の手を受け止めた。そうして関口の蕾へとその指を捻じ込ませ、その内壁をゆっくりとかきまわし始める。
「……あっ…」前立腺を攻められて、関口は思わず声を漏らした。京極堂の手ですでに勃ちきっている己自身がまた大きくびくんと脈打つのがわかる。京極堂は指を二本に増やし、ますます激しくその中をかきまわした。関口は耐えきれず、彼に廻した手に力を込め、その肩口に顔を埋めていやいやをするように首を振った。
「……気持ちがいいの?」京極堂が優しい声で囁く。いつもの彼からは決して発せられないだろうその声音に、関口は益々己が昂ぶっていくのを感じる。
「いれて……」
思うままを京極堂に囁くと、やはりちらと驚いたような表情を見せながらも彼は無言で頷き、関口の前後から手を退けた。そうして、関口の腕を己から外させると、彼の胴に手をやりうつぶせにさせる。畳に軽く頬を擦りながら、前からでもいいのに、と思った関口は、やがて京極堂の意図を察した。彼はまだ充分に勃ちきってはなかったのだ。己の手で彼自身を扱いているその姿を肩越しに見上げながら、関口はそんな彼の姿に今までに無いくらい欲情を覚え、思わずその身体を起こそうとした。が、そんな彼の動きはいち早く京極堂へと気取られ、そのまま肩口を押さえ込まれた。
「見るなよ」ぶすりと囁くその声がまた関口の背筋にぞくぞくとした旋律を走らせる。と、固く熱い塊が関口の後ろへと押し当てられた。
「力、抜いて」囁かれるままに力を抜くと、ずぶずぶとそれは彼の中を満たしてゆき、その質感に関口はその口から小さく吐息を漏らした。
「動くよ」いい乍ら激しく腰を使い始めた京極堂の動きに合わせるように自らも腰を動かし、体の奥底まで彼自身を感じようと関口は意識を後に集中させた。京極堂の手が前に伸び、彼自身をまた扱きあげ始める。前からと後からのその刺激に耐えきれず叫ぶ自分の声を遠いところで聞きながら、関口は京極堂の手の中で達し、その直後に自分の後ろで達する彼の低い声を、何にも替えがたい充足感を胸に聞き、ゆっくりと身体を床へと落としていったのだった。

「こんなところで寝ていたら風邪をひく。布団に入り給えよ」
京極堂がそう関口に囁いた。彼の腕の中で少し眠ってしまったらしい。
「起きた。もう大丈夫」
関口はそう言って本当に自分で半身を起こし、京極堂へと笑いかけた。
「……」京極堂は何かいいたげに関口を見下ろしている。

どうして―――今日はそんなに積極的だったんだい?

聞かれたいことは関口にはわかりすぎるほどわかっていたし、京極堂がその問いを口に出せないことも彼にはよくわかっていた。

「布団に入れって……まだ僕たちは夕食も食べちゃいないじゃないか」
わざとのように明るくそういうと、京極堂はあきれたように笑って
「君からそんな健啖家めいた言葉を聞くとは珍しいね」と関口に向かって彼のシャツを手渡した。
こうしてまた―――いつものように時間は流れてゆくのだ。

関口はそう思いながら、渡されたシャツに袖を通す。

不自然なほどに自然な、二人の間に流れるこのとき―――
それに押しつぶされそうになるとき、自分は耐えきれず彼を求める。
乱暴なほどに己の飢(かつ)えたこの身体を満たしてくれる彼自身を、外聞も体面も捨て去りただ滾る欲望のままに、彼の手を求め、この腕を伸ばす。

それは―――

「好き」、ということなのだろうか


答えなど出るわけもない。それでもいつもと寸分変わらぬ彼が
「早くし給えよ」と言いながらも立ちあがろうとする己に手を伸ばしてくれる、その瞳の優しい光りに何故か酷く救われる思いを抱きながら、関口はやはりいつものように
「ごめん」と笑って彼を見返すのだった。





かみころじー様のお誕生日のお祝いに(2001.10)