抱擁は恋情の切なき証




少し肌寒い5月のはじめ。関口は漸く小説の締め切りを乗り越え、少し晴れ晴れとした気分で神保町への道を急いでいた。

榎木津に逢うのは考えてみれば久し振りだ。締め切りに追われてこのひと月、榎木津の顔を見ていない。
逢いたくない訳ではなかった。だが、夢に見るほど逢いたかったというわけではない。
忘れていた訳でもなかった……そして、今、彼のもとへと逸る気持ちを抑えつつ向かっている自分を思うと――やはり、逢いたかったのだろうと我ながら思う。
希憚社に渡した小説は、思ったような出来映えではなかった。それでも生活の為には渡さずにはいられなかった。考えてみれば、納得のいくような小説を書いたことなどなかったかもしれない。
次こそは、次こそは、と思いつつ月日だけが過ぎて行く。
そんな考えを頭から追い出そうと、関口は軽く頭を振った。勿論そんなことで気分転換が計れるわけもなかったのだが、今は何より、榎木津に逢いに行くことだけを考えようと関口は無理矢理自分を納得させ、殆ど小走りになりながらかのビルヂングを目指していた。

駆け上るようにして階段を3階まで登る。肩で息をしながら案内も乞わず扉を開いた。
「榎さん…?」
予想外、とでも言おうか――室内の灯りは消えていた。まだ16時を廻ったばかりであるから、灯りがついていなくても部屋の中は見渡せたが、やはり室内は薄暗い。
誰もいないのかな、と関口が諦めかけたとき、「探偵」の三角錐を置いた机に備え付けられた椅子がきい、と回転した。
「なんだ…いたのかい。灯りもつけずに…」その椅子に座る、整いすぎるほどの美貌を見ながら関口がそう話し掛ける。
「……遅い」思いもかけぬ不機嫌な物言い。「探偵」はぶすりとそう呟くと、ようやっと椅子から立ちあがった。
「遅いって…これでも走ってきたんだけどな」
関口の肩はまだし慣れぬ駆け足で上下している。
「待ちかねたぞ」榎木津はそういいながら、そんな関口をやんわりと抱き締めた。
「逢いたかった…」榎木津の囁く声が関口の耳朶に甘く響く。
「僕だって…」思わず目を閉じ、その背に己の腕を廻すと、榎木津は益々強い力で関口の身体を抱き締めてきた。
「…僕ばかりが待っている……少しも訪れてくれないお前のことを、僕ばかりが…」
関口は一瞬、榎木津が酔っているのではないかと思った。こんな弱音――弱音?を吐く榎木津を関口は知らない。
「榎さん……?」榎木津の髪を関口はさらりと撫でた。
「お前の家の前まで行って……そのまま踵を返す。今、お前は僕の手を欲していないということが痛いほどにわかるから…そんなことを繰り返し繰り返し…」
「榎さん…?」
「僕ばかりが…お前を…」
榎木津はそこで、関口の肩に埋めていた顔を上げ
「…忘れろ」と己の身体を引き剥がし、関口を見た。
「…何を?」思わず問いかける関口に
「今言った僕の言葉の全てを」と榎木津は答え、また関口を抱き締めた。
「……榎さん…」関口はそんな榎木津の髪をまたなぜる。
「僕は…逢いたかったよ。榎さんに…」
「そうか」
榎木津は関口の指を楽しむようにその頭を傾げる。
「うちまで来たのかい…?」慈しむようにその髪をなぜながら、関口はそう榎木津に問うた。
「……行かない」
「来て欲しかったな」関口の、榎木津の髪をなぜる手は止まらない。無性に榎木津への愛しき思いが高まって、関口はまたその髪を優しく梳いた。
「……嘘をつけ」榎木津はそう笑いを含んだ声でそう囁き返す。
「逢いたかったよ」
本当に逢いたかった。榎木津の腕に抱かれる夢を何度も見た。
それでもこの門戸を叩けなかったのは――ここに逃げ込んでしまう自分を許せなかったからに他ならない。
榎木津とは常に対等でいたいと思う。彼に助けられる部分はあまりにも大きくて、自分が生きていくのに、彼の存在はあまりに大きすぎて――
それでも、関口は、常に榎木津と対等でありたいという望みを捨てることは出来ないのである。
生活者としての自分は、妻に迷惑をかけるばかりの世間的には劣った男であるという自覚は勿論関口にはあった。それでも、一個人として堂々と胸を張って生きていきたい、という思いを捨てきれずにいる。榎木津の庇護を出来る限り遠ざけ、自力で生きていきたいと――
「ときどき、不安になる」榎木津はそう、関口に囁いた。
「……なにが?」榎木津と『不安』という言葉との取り合わせの意外さに関口の声はオクターブ上がる。
「僕は…疎まれているのではないかと…お前がここを訪れないのは、僕を疎んじているからじゃあないかと」
「……本気で言ってるんなら…」関口は榎木津の髪をまたかき回した。
「馬鹿だ」
「いつだって恋する男は馬鹿さ」榎木津の声に漸くいつもの調子が戻ってきた、と関口が思った途端に口唇をふさがれていた。
「逢いたかったよ」口唇が外れた瞬間に関口はそう榎木津に囁く。
「態度で示せ……僕がわかるように」まだ不満そうに呟く榎木津に、関口は珍しく自分から口吻けると
「うちに来たなら…僕にもわかるように、痕跡を残してくれよ」と微笑んだ。
「わからないのが粋なのさ」
「それなら最後まで隠しとおせよ」売り言葉に買い言葉で返す関口に
「それが出来れば苦労はないさ」と榎木津は微笑んで、また関口に口吻けた。
「逢いたかったよ」
「わかってる」
結局、自分は榎木津の掌の上で踊っているだけなのかもしれない。
そう思いながらも、久し振りに感じる榎木津の腕の強さは関口を満ち足りた気分にさせてくれていたので、関口は目を閉じその腕に甘えながら
「逢いたかったよ」とまた同じ言葉を口にした。
ちらと榎木津が自分の家の玄関先に佇む姿が脳裏に浮かび、そのことに何にも替えがたい喜びを感じながら
「逢いたかった」とまた同じ言葉を繰り返す。
恋する男はやはり馬鹿だと己をふりかえりながら――
<終>