Dearest
「……どうした?」
榎木津が優しく関口の髪を梳く。先程までの荒々しい行為の名残か、汗で額に貼りつく前髪を愛しげに梳き上げてゆく。
「……別に」なにも、と関口は口の中で呟いて、ふうっと大きく息を吐くと、気だるそうに瞳を閉じた。
自分とそう年齢の変わらない腕の中のこの男が、瞼を閉じた途端に十幾つも若返るような気がするのは、己の単なる思いこみかとも苦笑しつつ、榎木津はそのまま彼の髪を梳き続けた。
やがて関口が規則正しい寝息を立て始める。余程きつかったのだろうかと榎木津は今夜の行為を省み――些少な罪悪感を噛み下すようにこみ上げる欠伸を噛み殺した。寝てしまおうかな、と関口の安らかな寝顔を見下ろしつつそう思いもしたが、何故だか惜しいような気もして軽く彼の頬に手をやり己の胸の方に引き寄せる。ううん、と関口は小さく寝息を漏らしたが目覚める気配はなく、そのまま彼の胸に顔を寄せるようにして身体を丸めた。横向きになった為に彼の尖った肩甲骨がふと榎木津の目に入り、何とない気持ちから榎木津はその骨へと手を伸ばした。
すっぽりと掌に納まるこの骨を、榎木津は愛しい思いを胸にそっと撫ぜてみる。くすぐったいのか、またううんと寝息を漏らしながら関口が軽く身体を捩った。しまったと思いながら榎木津がそっと手を引っ込める。が最早遅かったのか、関口はぼんやりと榎木津の胸の中で目を開いた。
「起こしたか?…すまん」榎木津は出来るだけ小さな声でそう囁きながら、関口の髪をまた撫ぜる。もののついでと軽く耳朶を噛んでやると、また関口は擽ったそうに身体を捩り
「……眠いよ」と微笑みながら呟き、またふうっと目を閉じた。
今日、彼は――帰らなくてもいいのだろうか
そろそろ起こさなければ、終電がなくなってしまう時間だった。雪絵の在非を今日は確めるより前に、彼をこの体の下に組み敷いていた。久々の逢瀬。逢わせる口唇が、剥き出しの素肌が、榎木津を見つめる潤んだ黒い瞳が――榎木津から理性を飛ばし、闇雲に彼へと駆り立てたのだ。
起こすべきか、このまま眠らせておくべきか――
榎木津には答えはわかりきっていた。起こして聞くのだ。「今日はこのままここで眠ってもいいのか」と。
関口はきっと少し言いにくそうな素振りをしたあと、ぼそぼそと口の中で呟くのだろう。
『ごめん……帰るよ』
そして自分は、そんな彼に向かって微笑みかけながら、出来るだけ優しさをこの手に込めて、彼の髪を梳き上げながら囁くのだ。
『気にするな……駅まで送ろう』
何度も何度もこの場で繰り返された会話。その度に関口は益々申し訳なさそうな顔をして、再び
『ごめん』と呟くのだ。
『謝らなくていい』何度榎木津がそう囁いても、否、彼が囁けば囁くほど、関口は益々首を項垂れ、彼に詫びる。その声を聞きたくなくて榎木津は無理矢理関口を上向かせ、その口唇を己の口唇で塞ぐこともある。
それも何度も繰り返されてきた――約束ごとのような行為。
そうなるのがお互い嫌だから――少なくとも榎木津は嫌であるから、ぽんぽんと軽く関口の背を叩いて寝台から起き上がるときもある。
『支度をしないと、お前のノロマな足では終電が出てしまうぞ』
微笑みながらふざけて彼の着衣を投げてやる。
それもまた――二人の間では、約束ごとのような行為だった。
今日は――どんな終わり方をするのだろう
――彼との逢瀬が
「榎さん…」
不意に名を呼ばれ、榎木津は我にかえった。寝ているとばかり思っていた関口が、じっと自分を見上げている。
「…なんだ、起きたのか」榎木津は今までの考えを無理矢理頭から追い出すと、微笑んで関口に軽く口唇を落とした。
『帰らなくていいのか』次の瞬間、彼にそう尋ねる己を予想して――
口唇が離れた途端、関口がぽつりと呟いた。
「この世から一番大切なもの以外、消えてしまえばいいのにね」
え、と榎木津は言葉を失い、関口の顔を見下ろす。彼がどんな顔をしてそう言ったのか、それを見たくて――
が、既に関口はその顔を伏せ、榎木津の胸に顔を寄せるようにすると
「…帰るよ」と聞こえないような小さな声でそう呟いた。
抱き締めてしまえば――聞こえないふりをしてこのまま彼を抱き締めてしまえば、何かが変わるのかもしれない。それを関口自身も望んでいるのかもしれない。それでも――
『一番大切なもの以外――』
少しもそんなことは望んではいないだろうに――その掌から何をも零れ落ちるのを彼は怖れているだろうに――
「……駅まで送ろう」
榎木津は、関口の肩を両手で掴んで己の胸から引き剥がすと、いつものように彼を見下ろしそう微笑んだ。
腕の中の関口が、何かに傷ついたかのように僅かに顔を歪ませたことに、少しも気づかないふりをして――
「ごめん」関口の黒い瞳に、ぼんやりと靄がかかる。
「気にするな」そう囁きながら、その靄の正体が決して彼の涙でないことを、榎木津はただひたすらに、念じるように祈っている。
「ごめん…」関口がもう一度そう呟いて、ゆるゆると身体を起こした。榎木津はそんな彼の背を、ぽんぽんと軽く叩いてやる。
掌に感じる彼の背の骨が妙に今日は榎木津の掌に突き刺さり、暫し消え得ぬ鈍い痛みを彼に残した。
<終>