淡き恋



「君が何を考えているのか…僕にはもうわからない。」
彼の白皙の顔が苦痛に耐えるように歪むのを、僕は何処か醒めた気持ちでぼんやりと見つめていた。
「…終わりにしよう」
ある意味予測された言葉――そして最も予測出来なかった言葉――
彼に別れを告げられたのだという事実はなかなか僕の心にダイレクトに響いてくれなかった。だからだろうか。僕はまるで日常の挨拶でもするかのように淡々と
「…先輩がそう仰るなら」と彼の目を見詰めて答えてしまっていた。
「……僕は君が…」先輩は僕の視線に絶えられぬように顔を背けると僕の傍をすり抜けるようにして教室へと戻ろうとしながら、一言こう囁いた。
「好きだったよ……」すれ違い様に彼の手の甲が僕の手に触れた。僕は彼の方を振り返った。
「さようなら。秋彦…」彼は僕を振り返ることなく、小さな声でそう呟くように言うとそのままその場から去っていったのだった。


ふた月前、図書室で不意に声をかけられた。

『難しい本を読んでいるね』見上げると、一級上の彼が何処か照れたような顔で僕を見下ろしていた。
『……なにか?』彼の顔には見覚えがあった。廊下で、食堂で、そしてこの図書館で、何度か目があったことがある。その度に何故か悪戯を見つかった子供のような顔をして目をそらせてしまう彼の名を、僕は未だ知らなかった。
『…友達になってもらえないかな』唐突な彼の言葉に僕は一瞬唖然としてまじまじと彼の顔を見上げてしまった。途端に彼の頬に血が昇る。
『へ、変な意味じゃないんだ。君と話がしたいだけで…その…』しどろもどろになる彼の顔を見ているうちに僕は何だか可笑しくなってきてしまった。
何と言うのだろうか――上手く言葉にはならないが、それこそ『心温まる光景』を見たような気持ちがしたのだ。
『…僕と話してもつまらないですよ?』僕がそう言うと、彼は心底びっくりしたように僕を見つめ直し――益々顔を赤らめて、小さな声で僕に礼を言った。

彼とは色々な話をした。放課後の教室で、寮の食堂で、就寝前の彼の部屋で――休みの日には彼に誘われて映画を見に行ったこともあった。
同室の関口はそんな僕の行動には少し驚いたようで、何か言いた気だったが、僕は彼に敢えて何も言わせる隙を与えなかった。
何故だろう――関口は少し悲しそうな顔をしたけれど、そしてその顔はいつまでも僕の心の片隅にひっかかり、時折僕をいたたまれないような気持ちにさせたのだけれど、僕は彼のどんな言葉もそのときは聞きたくなかった。
もしかしたら、僕は――怖かったのかもしれない。彼が言わんとしているその言葉を聞くことを、心の何処かで怖れていたのかもしれない。それが何故かは自分でも説明することが出来なかったのだけれど。

榎木津は先輩とのことでよく僕をからかった。薀蓄を聞かせる相手を得てよかったな、などといいながら僕の髪をくしゃくしゃとかきまわした。
『やめてください』邪険に言ったつもりはなかったが、榎木津はすぐに手を引っ込め、僕の瞳を覗き込むようにして僕を見つめると
『お前がいいならいいさ』と意味のわからないことを言って微笑んだ。
『どういう意味ですか?』思わず絡みそうになってしまったのは何故なのか――榎木津の言葉はある意味間違っていた。僕は薀蓄を聞かせる相手を得たのではなかった。彼といるとき、喋るのは彼ばかりで、僕はその話を聞いていることの方が多かった。我ながら不自然とは思う。だが彼に対して、僕は言いたい言葉を持ち得なかった。彼の言葉を聞くことの方を僕は酷く好んだ。彼の声が好きだった。その口から発せられる言葉も心地よい音楽のようにこの身を包んでくれた。それでも――
『意味なんてないよ』榎木津はふとその鳶色の瞳を細めて笑うと、ぽんぽんと僕の肩を叩いて、僕は主人に相手にしてもらえないサルでもかまいに行くかと笑った。


『君が何を考えているのか…僕にはもうわからない。』

確かに――僕は自分のことをあなたに語ったことはなかったね。
僕はぼんやりと彼の去ったほうを見つめながら心の中でそう呟いた。

一週間ほど前にこの場で――図書館の裏手のこの土手の上で、彼と肩を並べて座りながら抜けるように青い夏の空に白い雲が流れていく様を見つめた。
『夕立が来るのかもしれないな…雲が早い…』そう言いながら彼は僕の方を見て笑った。
僕も無言で空を見上げる。風が強いその日、僕は乱れる髪を抑えようと下ろしていた片手を地面から持ち上げた。そのとき僕の手の甲が彼の手を掠めた。彼の手がびくりと動くのがわかった。僕の半分持ち上げかかった手も何故かびくりとそれに反応し、一瞬空中で止まった。
そのまま何事もなかったかのように、それでもぎこちなく僕はその手を持ち上げ髪をかきあげる。痛いほどに彼の視線を感じたが、僕は彼を見返すことが出来なかった。
『風が強いね』喉にひっかかったような彼の掠れた声。
『…雨になるかもしれない…』お互いそんな言葉を言い合いたいわけではないのに――僕達は言葉少なに、天候の話しなどをぽつぽつと続けた。

そのとき――僕の手の甲は、いつまでも彼の手の暖かさを留めているかのように熱いままであったのだったけれども――


「おい」不意に声をかけられ、僕は驚いてその方を見やった。
「…榎木津先輩」佇んでいたのは榎木津で、僕が珍しくびくっと身体を振るわせたことを、面白がってからかってきた。
彼はいつからそこにいたのだろうか――彼のからかいが何処かぎこちないと感じたのは僕の気のせいではないような気がした。
「……聞いていたんですか?」彼の顔色を覗いながら小さな声でそう尋ねると、榎木津は言葉を切って僕をじっと見た。色素の薄いその鳶色の瞳がいつまでも僕の上から離れないことにどうしようもない居心地の悪さを感じ、僕は小さく咳払いして彼の注意を促した。
「…馬鹿だな」榎木津が何処か憮然としながら僕にそう呟く。
「なんです。薮から棒に…失礼な」僕が彼の倍くらい憮然としてそう返すと、榎木津は僕から目をそらせ、何故か空を見上げながら
「僕ならわかるぞ?お前のその仏頂面がほのかに紅く染まったときが嬉しいとき。眉間の皺が一本増えたときが哀しいときだ」と何かの台詞のように大声でそう言うと、
「あたってるだろう?」とまた僕の方を見て微笑む。
「…やっぱり…」聞いていたんですね、と僕が言いかけるのにかぶせて、
「…あいつは馬鹿だ。ちゃんと見ればわかるんだから。ほら、今は哀しいんだろう?」と榎木津は言いながら、何故か彼の方が少し哀しそうな顔をした。
「…哀しい顔をしてるのはあんたじゃないか」彼が僕と先輩との会話を立ち聞きしたことを責めることは何故か出来なかった。彼の何処か傷ついたような表情が僕にそれをさせなかった。榎木津はそんな僕にむかってふっと微笑むと
「いつでも僕の胸を貸すぞ。占有権がないでもないが、お前には特別だ」と自分の胸を指差した。そして
「泣きたくなったらおいで」ともう片方の手を伸ばすと、僕の髪をくしゃくしゃとかき回し、何も答えられないでいる僕の傍らを擦りぬけて教室の方へと歩いていった。
僕は唖然としてその後姿を見送っていた。
「結構です」その背に思いきり大声で叫びたかったが、僕の口から声が発せられることはなかった。

榎木津は何故あんなに――傷ついたような顔をしていたのだろうか。

傷ついて――哀しいのは自分のはずなのに。

もしかしたら彼は僕のかわりに、哀しい顔をしてくれたのかもしれない。
何故だか少しも哀しみがこの胸にこみ上げてこない自分の替わりに、彼が――僕の哀しみを体現してくれたのかもしれない。馬鹿げた思いつきだったが、何だか僕にはそれが正解のような気がしていた。彼の哀しげな表情(かお)を思い、僕の胸は少しだけ――痛んだ。同時に少しだけ温かいものを感じた。


僕は暫く彼の去った後をぼんやり見つめていたが、いつまでもこの場に立っているのにも疲れてきたので部屋へと戻ることにした。
急に空が暗くなり、ぽつぽつと大粒の雨が落ちてきた。夕立か――僕は足を速め、寮の自室へと駆け込んだが、激しい雨に髪や服を濡らしてしまった。ぽたぽたと雨の雫を滴らせる僕を見て、部屋にいた関口がびっくりしたように立ち上がり、ばたばたと荷物をひっくり返しながら手拭を探し、僕へと手渡してくれた。
「ありがとう」髪を拭きながら、痛いほどの関口の視線を感じ、彼の方を見やる。
「なに?」と問い掛けると、関口は「なんでもないよ」と慌てたように僕から目をそらせた。
「黙っていたのではわからないよ」身体に貼り付く濡れた衣類が僕を苛立たせたのかもしれない。いつもよりも強い口調でつい関口へとそう言葉をぶつけてしまった。関口はびくりと身体を震わせたが、益々弱々しく
「…風邪ひかないように…」などと僕から目をそらせてそんなどうでもいいような言葉を口にした。

黙っていたのでは――わからなかったのだろう。

不意に僕の頭に、別れを告げた彼の顔が浮かんだ。彼は――彼は、僕との時間を共用したくて、僕との空間を、僕との――僕の心を共用したくて、一生懸命語っていたのだ。
僕は――僕は彼に何を語ったというのだろう――


『さようなら……秋彦』


彼の声は震えていただろうか。その肩は震えていただろうか。
そして、僕はたった今気付いた。彼にこの名で呼ばれたことは、今日、別れを告げられたあのときがはじめてだったということに。


「どうしたんだい?」心配そうな関口の声に僕は我にかえった。僕が身体を拭きもせず呆然と立ち尽くしていたのを不審に思ったのだろう。関口はおどおどとした目で、それでも真っ直ぐに僕を見つめていた。その黒い瞳の中に僕は自分の姿をみつけ――そしてまた「彼」を思う。

僕は彼の瞳の中に、僕自身の姿を認めたことはなかった、と――


真っ直ぐに見詰め合うことなどなかった。彼はいつも僕を見つめていたのに、僕はその視線を受け止めてあげたことはなかった。
決して彼を疎んでいたのではない。それどころか僕は――

「大丈夫だよ…」答える声が何故か掠れてしまった。関口はおずおずと僕の方へと手を伸ばし、僕の髪にあった手拭を掴むと、そっと僕の髪を拭いはじめた。一人で出来るよといおうとしたのに、僕は彼のなすがまま彼が弱々しい手つきでぼくの髪を拭う、その心地よい感触に身体を預けていた。
ぼんやりと立ち尽くしながら、僕は彼の顔を見つめる。僕の視線を避けるかのように関口は僕の髪ばかりを見つめ、なかなかその目を合わせてはくれなかった。

「変なことをお願いしてもいいかな」
僕はどうかしていたに違いない。髪を拭ってくれる彼の手があまりに優しく、寄せられた身体から発せられるその体温があまりにも温かかったから――僕は本当にどうかしていたのだ。関口は、何?というように僕を見つめた。
「名前を…呼んでくれないかい」僕の声が、まるで他人の声のようにこの耳に響く。
「中禅寺…?」笑うことなく心底心配そうに、そして真剣に、関口は僕に呼びかける。
「苗字じゃなくて、名前を…」僕は何故そんなことを彼に要求しているのか――自分で自分の心がわからない。それでも関口は、僕をじっと見詰めながら、おずおずと、そしてしっかりした口調で僕の名を呼んだ。

「秋彦……?」

途端に僕は胸に込み上げるものを感じ、彼の肩へと顔を伏せた。涙が後から後から流れ落ち、彼の肩を濡らす。彼はびっくりしたように一瞬身体を引きかけたが、すぐに僕の背に手を廻すと、やはりおずおずとその手で僕の背を摩ってくれた。そして何度も何度も僕の耳に、僕の名を囁いてくれる。
「秋彦……秋彦……秋彦……」

関口の少し掠れた低い声が、僕の耳に心地よく響いてくる。


僕は――きっと「彼」が思う以上に、「彼」のことが好きだったのかもしれない。
それは「恋」とは呼べないような淡い思いであったにしろ――


「秋彦…」関口は子供をあやすような手つきで僕の背を抱く。慈しみに溢れた声で僕の名を呼んでくれる。
止まらない涙を持て余しながらも、関口の腕の中で甘美なまでの心地良さに酔っていたい願望をも抑えられず、僕は彼の優しさに甘え切っていつまでもこの身を任せていた。




随分あとになって僕は、このとき彼に恋に落ちたことに気付いた。

<終>