フィナーレの最後、一瞬静まり返った舞台の上、大階段の中央に佇む闇組のトップスター、中禅寺秋彦がスポットライトに照らし出される。
『月の光に〜……照らされし君の、麗しき瞳を忘れはし〜な〜い〜』
朗々とアカペラで歌い出した途中でオーケストラの伴奏が流れ、大劇場に拍手が湧き起こった。身長の倍くらいある大きな羽根を背負った中禅寺がその場で客席を見まわしたあと、階下で自分を出迎えている出演者達へと目をやり、手拍子の中歌いながら残りの大階段を降りはじめた。
自分が立つべき舞台中央のポジションの左手には二番手の榎木津礼二郎が中禅寺の視線を捕らえてにやりと笑い、右手には今回中禅寺の相手役に抜擢された研三の関口巽が殆ど泣きそうになりながら、真っ直ぐに中禅寺を見上げている。今日は闇組公演『月の輝く夜に/ザ・レビューX』の初日だった。関口は前回公演で退団した中禅寺の相手役の後任として、今日初めて娘役トップとして舞台を踏んだ。それだけに感激もひとしおなのだろう、何度かトチりそうになるのをリードしてやり、何とか無事にこうしてフィナーレを迎えることが出来たことで中禅寺も感無量であった。研三の関口を相手役に指名したのは中禅寺自身だった。闇組の下級生の中でもどちらかというと目立たない、踊りも歌も今一つとの評価を受けていた関口を抜擢した自分の目に狂いはなかった、と中禅寺は自分をひたすらに見つめる関口を上下びっしりとつけ睫を付けた瞳で見返しにっこりと微笑みかけると、足早に階段を降りきり、舞台の中央に歩み出てその場で客席に向かって深々と頭を下げた。背中の羽根が頭の上でゆさりと大きく揺れる。今回の羽根は重いな、と十四の頃から肉体労働を避けていた中禅寺はその華奢な身体を客先の下手、上手、中央とまた深く折って礼をして、続いて銀橋へと脚を進めた。中禅寺の後には相手役の関口が続き、反対側から、中禅寺より一回り小さな羽根を背負った二番手の榎木津が銀橋を渡ってくる。歌いながら丁度中央で中禅寺は榎木津と顔を合わせ、互いににっこりと微笑み合った。
「やったな」榎木津が声は出さずに口だけ動かして、やはり長い付け睫に覆われた目をいっそう細める。
「どうも」中禅寺も笑顔で口だけ動かしてそう答えると、続いて娘役の方を振り返った。
『月の光りに照らされし君の麗しき瞳〜』
歌いながらも関口は既に大泣きしていた。中禅寺は思わず手を伸ばし、涙に濡れた頬へと手をやる。関口はまたそれで顔をくしゃくしゃに歪めて泣き出してしまい、客席からは彼を励ますかのような大きな拍手が起こった。
「しっかりしたまえ、関口君」顔はにっこり笑いながら―――タカラジェンヌの舞台笑顔である―――中禅寺はイのセンターの席の客にも聞こえないような低い声でそう関口を叱咤した。
「ごめん……」笑顔の中に光る中禅寺の三白眼に、関口は途端におろおろした様子でその場でかたまってしまった。しまった、と中禅寺が思ったときには時既に遅し、曲が愈々ラストに向かって流れていくのに遅れぬよう、中禅寺は自分が渡ってきたのと反対方向へと銀橋を渡りながら、関口は大丈夫かとちらと後ろを振返った。関口はどうしよう、というように一瞬その場に立ち尽くしていたが、関口の後ろから闇組三番手の鳥口が、戻りますよ、というように関口の腕を軽く掴んだのに我に返ったのか、関口は
「有難う」と小さな声で鳥口にいいながらその後をついて銀橋を引き返していったようだ。
中禅寺はちらちらと後を振り返りながらその様子を把握し、よかった、と安堵の溜息をついた。
「怖がらせてどうする」舞台中央に戻ってきて、客席に向かって手を振っているときに横から榎木津がぼそりとそう囁いてくる。
「煩いよ」緞帳が下がりきるまでは笑顔を絶やすことは出来ない。にっこり微笑んだままぶすりとそう囁き返すと、何を思ったのか反対の隣の関口が
「ごめんなさい」と泣きそうな声でそう頭を下げてきた。
「前向いて!笑って!」中禅寺がそう関口に低く怒鳴ったとき、丁度緞帳が下りてきて客先からの視線を遮った。はあ、と中禅寺は溜息をつくと、関口の方を向き直り
「君ねえ」と今までの笑顔が嘘のような仏頂面でそう話し掛ける。劇場内に「さよならみなさま」の曲が流れ始め、観客たちがざわざわと去って行く気配が舞台の上にも聞こえてきた。
「まあいいじゃあないか。セキも初日で感激したんだろう。実際よくやったと思うぞ?」そんな中禅寺の肩を、背負った羽根の間からぽん、と叩いたのは榎木津で
「榎さんがいつもそうして甘やかすから関口君が何時までもしっかりしないんじゃあないか」と中禅寺がばさりと羽根を震わせながらそう振返ると
「風呂だ風呂、今日はお呼ばれだからな、お前も急がないと遅れるぞ」と榎木津は背中の羽を震わせながら早足で舞台袖へと去っていってしまった。
「ほんとにもう…」やれやれ、と中禅寺はそんな榎木津の後姿に向かって溜息をついてみせる。
「ごめんよ……京極堂」後でぐすぐすと鼻を啜りながらそう謝る関口を再び中禅寺はばさりと羽根を震わせて振返ると
「謝らなくてもいいよ。本当に今日は君もよく頑張った。さあ、風呂に行こう」と、下級生を労わる上級生の眼差しでそう微笑んだのだった。
宝塚歌劇団に六つ目の組『闇組』が出来たのは、劇団側が何故か「逸材」と下級生の頃から目をかけてきた中禅寺をトップにするためと言ってよかった。世間一般の人気は、美麗な容姿と高い身長を持つ二番手の榎木津の方が勿論高かった。一部のマニアにしか受けそうになかった中禅寺がトップでは観客動員数が望めないところから、榎木津が二番手に選ばれたのである。三番手には若手で実力、人気ともにNo.1とされる鳥口守彦が選ばれ、人気の高い二番手と三番手にワキを固められながら、それこそ一部の中禅寺の熱狂的なファンに支えられ、今年で二年目を迎えた闇組は興行的にも世評からもおおむね好評を得ていると言ってよかった。
そんな中禅寺の相手役、闇組スタート当初から娘役トップの座についていた千鶴子が結婚退団をしてしまったあと、誰を中禅寺の相手役にするかでは組内は可也揉めた。娘役二番手の益田がその後をつとめるのではないか、と世間も組員も思ってはいたのだが、何故か中禅寺が「相手役は関口に」と劇団側に申し出たのである。
劇団も驚いたが、当の関口もそれこそ天地がひっくり返るほど驚いた。今まで役らしい役がついたことがなかったことも驚いた原因の一つだが、何より関口はそのとき男役であったのである。中禅寺のこの意外過ぎるほどに意外な申し出を、劇団側はなかなか「うん」とは言わなかった。益田は千鶴子の後では少々小粒と思えなくもなかったが、ここに関口をもってくることなど予測すら出来ないことだったからである。華のなさでいえば、関口の方が益田により勝っている――そんなことで勝りたくはないだろうが――上に、あえて男役の関口を娘役に転向させてまでトップに据えるほどの人気など、関口は少しも備えていなかった。関口自身もその話しを聞いたとき
「どうして僕が…」と途方にくれたように立ち尽くしてしまったくらいのこの意外な話しを、中禅寺はあらゆる手を使って劇団側に通させた。演目が決まり、プレス発表されたときに笑顔の中禅寺の横で未だに茫然としている関口の写真が『歌劇』の読者を驚かせたのは今から半年ほど前のことになる。そうして今日目出度く、こうして初日の幕を下ろすことが出来るまで、さまざまなことがあったなあ、と中禅寺はランドセルを下ろすように羽根を背中から下ろしながら、ふと郷愁に耽った。
「……京極堂」羽根を下ろすのを手伝いながら、関口がそう中禅寺のニックネームを呼びかけてくる。
「なんだい?関口君」君も下ろしたまえよ、と羽根を下ろすのを逆に手伝ってやりながら、中禅寺がそう尋ね返した。
「……今日はごめんよ?何回も助けてもらった……無事に幕が降りたのも、みんな君のおかげだ」
本来なら上級生の中禅寺にこんな口はきけないはずなのだが、中禅寺があまりにおどおどする関口に、無理矢理こういう話し方をするよう命じたのだ。
「……君もよく頑張ったよ。反省会はあとにして、まずは風呂に入ろう」中禅寺はそう微笑むと、舞台の上そのままに関口の腰へと腕を廻してエスコートの体勢に入った。
「……泣いたことも……ごめんよ」関口は長い睫――勿論付け睫である――を伏せながら、益々小さな声でそう囁く。
「……無理ないさ。君のトップ娘役初日だ。感激するなと言うほうがおかしい」その耳元に囁きながら、中禅寺はくすりと笑いを漏らした。
「なに?」関口がばさっと音を立てるほどの睫を上げて中禅寺の顔を見上げる。
「いや……無事、初日を迎えられてよかったと思ってさ」中禅寺はそう笑いながら、お稽古中の出来事を思い起こすかのように遠くを見つめた。
本当に、この数ヶ月は――中禅寺にとって、そして何より関口にとって、激動の数ヶ月だった。そんな月日を通して二人は―――
「ほんとだねえ」関口もしみじみと中禅寺の言葉に頷き、はあ、と小さく溜息をつく。
そうして二人、足早に風呂へと向かいながら、どちらからともなくこの数ヶ月のことを語り合い始めた。二人の心を固く固く結びつける切欠となった、この公演のための集合日――お稽古場での配役発表の日のことを、関口は生涯忘れ得ぬ日だと中禅寺を熱く見つめた。
つづく
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