在りし日の雪空




ああ、雪か


ふと見上げた欄間から、ちらちらと舞い落ちる雪が見えた。寒くなってきたと思ったら雪が降ってきたのか、と思いつつ関口が立ち上がって障子を開いてみると、既に庭はうっすらと雪に覆われていた。小一時間も前から実は降り出していたのかもしれない。庭の白さはそのまま目の前の原稿用紙の白さと同じだと、関口は小さく溜息をついた。
雪絵は昨日から所用で実家へ帰っている。出しなに不精な夫の食事を心配していたが、なに、外に食べにいくから平気さ、と笑って見送ってやったのだったが、雪に降られるとはまったくもってついていない。ただでさえ外に出るには顔を洗ったり支度をしたりしなければならなくて億劫であるのに、益々億劫度合いが増すというものだ……と、寝巻きにどてらをひっかけただけの姿で昼過ぎの今までごろごろとしていた彼は、さてどうしたものかとまた部屋の中を見まわした。そろそろ空腹を覚えてきたからである。
見まわしたところであるのは炬燵の上の蜜柑ばかり。もう朝から3つは食べている。何か買い置きがないかと台所へ探しに行こうかとも思ったがそれも面倒で、結局再び炬燵へと潜り込んでしまった。
また欄間を見上げると、雪はかなり激しく降りつつあるようである。
また積もるかもしれないな、と関口は再度溜息をついた。今年2度目の雪である。半月ほどまえに降ったときにも東京にしては珍しく積もった。とはいえ、家の周りの雪を掻いたのは賢妻の雪絵で、結局関口自身は何をするでもなかったのであるから、溜息をつく謂れもないのだが、ともあれこれからどうしようかと関口は頭を廻らせて――結局そのままごろりと寝転んだ。妙案が何一つ浮かばなかった為である。
雪か…と寝転んだまま欄間を見上げ、忌々しそうに一つ舌打ちをしながら、子供の頃は理由もなく雪が降ると喜び転げまわったな、と思い返す。
子供の頃だけではない。学生の頃も――関口の脳裏に寮にいた頃の、大雪の日の風景が甦った。


凄い雪だった。東京で30cmは積もっただろうか。舎監が手のあいた者で門まで雪掻きを、と言い出した頃にはもう榎木津などは寮の屋根に登って雪を下ろしていた。余程大雪が珍しかったのか、まだ雪の降っている最中、大声で騒ぎながら走り回っていた彼の姿を、こちらは少しも雪など珍しくないのか部屋の窓からちらりと見下ろし「まるで犬だな」と笑って見ていた中禅寺の横で、少し羨ましいような、でも寒い中外に出るのは億劫なようなと、今と全く変わらぬ不精さで見下ろしていた自分。結局榎木津に気付かれて、「サル!早く降りて来い!雪合戦だ!」と大声で呼びつけられ、嫌々その「雪合戦」に参加したことを懐かしく思い出し、関口は一人微笑んだ。無理矢理参加させられたのは自分だけではなかった。中禅寺も巻き添えを食わされて、榎木津の投げた雪玉をもろに顔に受けて雪まみれになっていたことも同時に思い出し、今度はふふ、と思わず笑い声が漏れた。
『凄いっ!雪地蔵だな!』と大声を上げて笑う榎木津に、中禅寺は冷静な顔で「榎さん、それを言うなら『かさ地蔵』でしょう」返していたが、実は根に持っていたのか、翌朝大はしゃぎで雪降ろしを終え、屋根から下りた榎木津の頭上に大きな雪の塊を密かに落としていたこと。それを目撃していたことに気付かれてじろりと睨まれ、人知れず恐ろしい思いをしてしまったこと、挙句の果てには榎木津に犯人扱いされて自分も雪の中転げまわらされたこと……懐かしい情景が次々と鮮やかに関口の目の前に浮かんでくる。

あれから随分年月を経てしまった。こうして部屋の中から寝転んで、雪が降るのを眺めている自分はもう充分くたびれて、あの日の溌剌とした若さからは既に遠ざかってしまっている。

何とはなしに寂しさを感じて、関口はごろり、とまた寝返りをうち、窓の外から目を逸らせた。しんしんと音もなく雪は降り続いていくのだろう。気付かぬうちに年月を重ねて来てしまったのと同じように、音もなくしんしんと――
「雪」という字には「すすぐ」、とか「ぬぐう」という意味もあるらしい。『雪辱』なんぞはそういう意味だが、己の上に降り積もってきたこの雪は、何をも濯がず何をも拭わず、ただ徒に年月を恰も塵のように積み上げてきただけのものかもしれない。
そういえば、降る雪を下から見上げると塵のように見えないこともないな、とぼんやりとそんなことを考えていた関口の耳に、いきなり玄関の戸を物凄い勢いで開ける音が響いた。
吃驚して起き上がり、廊下へ転げ出る。そこに立っていたのは
「雪だッ!折角こんなに雪が降ってきてるのに、その格好はなんだッ」八甲田山を越えるかのような大仰な外套に身を包んでいる、榎木津であった。
「やはり千鶴子の言う通りだ。その様子じゃあ顔も洗っていないに違いない」
手に風呂敷包みを下げた黒い二重回しに凶悪な仏頂面――京極堂もいる。
「ふ、ふたりともお揃いで…?」あまりにも驚いたために間抜けな声しか出なかった関口に、
「別に示し合わせてきたわけじゃあない。玄関先で会ったのさ」とぶすりと言う京極堂と
「吃驚したぞッ!これでまた三人で雪合戦が出来るなッ」とはしゃぐ探偵と。
「馬鹿馬鹿しい。何が楽しくて榎さんや関口君と雪遊びに興じなきゃならんのだ。僕は千鶴子に言われて関口君に差し入れを持ってきただけだ」飽きれたように京極堂はそう言うと、言葉を続けて
「雪絵さんから電話があってね。この雪じゃあ君がそれこそ寝床から一歩も出ずにいるだろう、このまま餓死しかねないじゃないかと千鶴子も心配して、こうして僕に食事を届けさせたのさ」と風呂敷包みを手渡した。
「……有難う」全くもって賢妻である。関口は心からこの2人の妻に感謝した。
「というわけで、僕は失礼するよ」本当にそのまま踵を返しかねない京極堂に、関口は慌てて「お茶くらい飲んで行ってくれよ、榎さんも、さあ上がってくれ」、と声をかけ、二人を座敷へと誘った。
「…で?榎さんは何をしに?」関口が出涸らしでないお茶を入れてやりながらそう尋ねると、
「雪が降ったからな」と訳のわからない答えを返してきたので、何と答えていいのかわからず、3人で炬燵に入りながら、少しの間ぼんやりと窓の外を見やった。
と、突然榎木津が笑い出した。
「ど、どうしたんだい?榎さん?」吃驚した関口がそう尋ねると、榎木津は笑いながら
「昔、雪合戦したとき…京極が雪まみれになって…」その姿を思い出したのだ、と言おうとしているらしいのだが、最早笑ってしまって言葉にはならない。関口も再びその姿を思い出し思わず吹出してしまった。京極堂だけが仏頂面のままである。
「まるで雪塗れの地蔵で」と涙を流しながら言い続けようとする榎木津を
「それを言うなら『かさ地蔵』でしょう」と遮る京極堂の言葉もあの日のままで、どうしようもない懐かしさにまた笑いがこみ上げてきて、関口も腹を抱えて笑い続けた。


かわらぬものもあるのだ。いくら年月が流れようとも


榎木津はまだ大声で笑っている。京極堂は相変わらず全世界が死に絶えたような凶悪な顔のままである。


関口は笑いながら、また空を見上げた。
あの日のままに雪が舞う空を、心から愛しいと思いながら――。
<終>